第64話 オーバル
強い光は次第に収まり、視界が開ける。
宙に浮いているような感覚も消え、地に足がついた。
……いや、地と呼ぶには柔らかすぎる。
目を開くと、一面の雪景色……いや、雲の上にいた。
「ここは、雲の上……? いや、しかしそんな」
雲の上に乗るなど、そんなことが可能なのだろうか。
それともこれは雲に似ている見た目をしているだけで、異なる物質なのだろうか。まだそう言われた方が納得できそうだ。
「わ、足場が」
ヴィルトの声がして振り返ると、ヴィルトが両手足をついて震えていた。真っ直ぐに立とうとしてはよろけている。
たしかに土と比べれば遥かに不安定だ。ヴィルトは慣れるまで大変だろう。
セキヤの方は少しふらついているものの、無事に立ち上がっている。
「いやあ、すごい所だね」
「ここがオーバル……」
絵本通りの景色だ。一面に雲が広がった世界。
強く踏みしめてみれば足が沈む。ある程度まで沈むと止まるが、一体どうなっているのだろうか。
それに光の魔力が濃い。魔力酔いしそうだ。少しの気持ち悪さを感じ、咳払いする。あまり長居はしたくないかもしれない。
ヴィルトは……問題なさそうだ。セキヤも平気そうに見える。
私が闇の魔力を多く有しているからだろうか。
辺りを見渡してみれば、少し遠くに巨大な木が見えた。見たこともないほどの大樹だ。
「……あの木まで行ってみますか」
「うん、そうしよう」
「ま、待ってほしい。上手く進めないっ」
ヴィルトが転ぶと、ぼふっと雲のカケラが舞う。
予想はついていたことだ。肩を落とすヴィルトに手を差し伸べた。
「ほら、掴まってください」
「すまない……どうも慣れなくて」
「抱き上げてあげましょうか?」
「だ、大丈夫だ」
ヴィルトは恐る恐る進み始める。ぐらついていて、見ていて心配になってきた。
とはいえ、クレイストに行った時もなんだかんだで雪に慣れていた。その内普通に歩けるようになるだろう。
大樹に近づくにつれ、不思議な造形をしていることに気がつく。
いくつも伸びた枝の先に、それぞれ巨大な実のようなものがぶら下がっている。だが実をよく見てみれば、枝で編まれた鳥籠のような作りになっていた。
更に近づくと、大樹に装飾が施されていることが分かる。
幹に巻きつけたもの、枝から枝へと繋ぐようにかけられたもの。様々な色の石がぶら下がったそれらは、日の光を受けてキラキラと輝いていた。
明らかに人の手が加わっている。アシックが言っていた天上人とやらだろうか?
大樹の根本に近づくと、雲一面だった景色に変化が訪れる。
真っ白な石で作られた床が広がり、巨大な噴水や、あちこちに立てられた柱を繋ぐように、大樹と同じ装飾が施されている。何を模しているのか分からない彫刻のようなものもあった。
大樹の根本は穴があいていて、木を削って作られた机と椅子がぽつりぽつりと点在している。
「……見られていますね」
暑くもないのに、背筋を汗が伝う。
得体の知れない何かに捉えられているような、そんな感覚。
大樹を見上げると、枝先の籠からこちらを見下ろしている影が見えた。
十個ある籠の内、半数以上から顔を覗かせる何者かがいる。
「うわ、いっぱいいるね」
「……俺達、警戒されてる?」
滅多に人が来ることはないのだろう。警戒されて当然だ。
これ以上近づくべきだろうか?
「あんまり刺激するのは良くなさそうだよね。ここで向こうが近づいてくるのを待ってみる?」
セキヤが噴水近くのベンチを指差した。
もう一度大樹を見上げてみる。相変わらずこちらを覗いている影があるだけだ。
「そうしてみましょうか」
ベンチに腰掛け、景色を眺める。
圧のようなものを感じる。じっとりとまとわりつかれているような、体の内側を撫でられているような……ヴィルトも落ち着かない様子だ。
羽ばたきの音が聞こえた瞬間。ぞくりと悪寒が走り、咄嗟に立ち上がる。
その存在は目を引いた。
空色の肌、眉と鼻がないが整った顔、肩まである銀色の髪、一対の白い翼。
しかしそれよりも異質なのは、その首と手脚だ。
人のものよりも細く長いそれ。
赤いシャツの上に白衣をまとったその存在は翼をはためかせ、地面に降り立った。
閉じたままの瞳が私達を見つめる。
見たことのない種族だ。これが、天上人……?
「キミ達、人間だね? 人間だよね?」
「……ええ、そうです」
男か女か分からない声だ。
頭から爪先まで、私の周りを回りながらじろじろと見つめている。居心地の悪さに一歩退くと、天上人は細い手を合わせて笑った。
「素晴らしい、実に素晴らしいね! 肉体を持った人間を生で見たのは初めてだ。ぜひ、ぜひともカイボウさせてはもらえないだろうか!」
どこから取り出したのか、余った白衣の袖にメスが持たれていた。上機嫌でメスを持つ手を回しながら、私の腕を掴む。
「か、解剖? させるわけが……」
「おっと、そうだ、そうだね、そうだった。自己紹介というものが必要だと聞いたことがあるよ。ワタクシはギボール、イシャだよ、イシャ。これでキミとはトモダチだ。そうだろう? さあ、早速カイボウを」
「ッ、だから解剖だなんてさせるわけがないでしょう」
手を振り解こうとした時、嫌な音が聞こえた。
瞬間、鋭い痛みが腕に走る。見れば、曲がってはいけない方向へと曲がっている。
「ッあぐ、あぁっ!?」
「あれ、逃げないようにって思っただけなのに。人間って脆いのだねえ」
ギボールと名乗った天上人は、不思議そうに首を傾げるばかりだった。腕を掴む力は依然として強く、振り解けそうにない。
「は、離せ……ッぎ、ぅう……」
ギボールの細い手首を掴み、外させようとしてもビクリともしない。ただ私の腕がズキズキと痛むだけだった。
どうしよう。どうすればいい?
一体どうすれば、このバケモノから逃げられる?
その薄い腹を蹴り飛ばそうと振り抜いた脚は、鋭い痛みと共に動きを止めた。メスが深く突き刺さった脚から、だらだらと血が流れ出す。
ギボールが軽く腕を振り下ろすと、体がぐらついてたたらを踏んだ。裂けた皮膚から溢れ出す血が止まらない。
こんな、こんな状況は初めてだ。どうするべきか、その方法を導き出そうにも思考がぐるぐると回るばかりで一向にその答えへ辿り着けない。
このままでは……このままでは? どうなる。
……死ぬ?
その二文字が頭に浮かんだ瞬間、全身が冷えきった。
「まったく、危ないなあ。もっと落ち着きを持つべきではないかね。それとも生きた人間というものはどれもキミのように落ち着きがないのか?」
視界の隅に赤髪が入り込む。
咄嗟にその名前を口にした。
「セ、セキヤ……!」
いつものように、その銃で。
そう思っていたのに、セキヤは構えてすらいない。ただ焦りを滲ませた顔で、こちらを見つめるばかりだった。
「……ギボールさん、その子の手を離してあげてくれませんか。逃げはしませんから」
「おや、キミは落ち着いているのだね。けど駄目だ、駄目だとも。この人間は危ない。暴れられたらたまったものじゃない」
「暴れません。暴れませんから」
「……ふむ、キミも落ち着いているように見えてそうでもないね。あれかい、大切な人ってやつかい? ワタクシも見たことがあるよ」
ギボールはペラペラとひとしきり話した後、パッと手を離した。途端に体が崩れ落ちる。
荒くなった呼吸が一向に落ち着かない。痛みで頭は鮮明なはずなのに、思考が濁ってどうしようもない。
「……ヴィルト」
「あ、ああ。わかった」
セキヤの声掛けで、固まっていたヴィルトが動き始める。
私の側に駆け寄った彼は手をかざした。いつものように青い光が漂い、痛みが引いていく。
治っても尚、体の震えが止まらない。
……相手にしてはいけない。そう、本能に刻み込まれたようだった。
この天上人こそが、神官なのだろうか。しかし、魔宝石らしきものが見当たらない。
唯一チョーカーに付いている石は赤い色をしている。光の神官であれば黄色い魔宝石を持っているはずだ。
つまり、この天上人は……神官では、ない?
大樹を見上げれば、ちらほらとこちらを見下ろす影がある。
まさか……まさか、あの籠から見下ろしている影すべてが、この天上人のような強さを持っている……?
途端に不安が込み上げる。もしかして、私達はとんでもない場所に来てしまったのではないだろうか。




