第62話 抱擁
ソランの元から逃げ出して二日が経った。
気付かれないようにと隠れ続けていた私は、メルタを出ていく彼らの姿を見たことでほんの少し気を抜くことにした。
だからだろうか? 自分でも気付いていなかった小さな変化が目についたのは。
「……いつの間に」
店先のガラスに反射する自分の姿を見る。
小さく開けた口の中、明らかに尖っている歯……いや、牙がそこにあった。
思えば風の魔力を受け取った日の夜、何かむず痒さを感じていた気がする。珍しく大きな変化が来ないと思っていたらこれだ。
まあ、これも特に何のデメリットもなさそうだから報告はいらないか。
……いや、気付かれた時に何か言われそうだな。やはり合流できたら言うことにしよう。
さて、そろそろセキヤ達もここへ辿り着く頃だろう。
いつ彼らが到着してもいいように、門の見張りを続行しなくては。
そんなこんなで待つこと数時間。
もしかすると明日になるかと思っていたが、見慣れた赤髪と青髪が門を潜るところを見た。
セキヤとヴィルトだ。
何かを探すようにキョロキョロと見回す二人の元へ近寄る。
「セキヤ、ヴィルト」
「ゼロ! 良かった、無事だったんだね!」
「心配した」
声をかけるなり二人は顔を明るくした。
随分と心配をかけてしまったな……突然連れ去られたようなものだ、気が気ではなかったことだろう。
今回のことは実に屈辱的だった。次は同じ轍を踏まないと自分自身に誓う。
それにしても……彼らも無事そうで良かった。
これでまた旅を再会できる。
「心配をかけましたね。二人も無事そうで何よりです」
「ああ……本当に、本当に良かった」
安堵の息をついたセキヤが肩に手を置いてくる。
安心できる温もりだ。手を重ね、目を閉じる。
「変なことはされてない?」
「……まあ」
されたといえばされた……と言えるのだろうか。
ただ、こうして再会できた今、それらはもうどうでもいいことだ。
「されたの?」
「いえ、それはもう大丈夫です。それよりも……」
「それより?」
あ、と口を開けて牙を見せる。
「知らない間に進行していたようで」
「あ、そうだ。気になってたのに結局聞く前に連れ去られちゃったから……変わったのって歯だけ?」
「ええ、そのようです。僅かな変化でしたので気にならず……」
「そっか……」
セキヤは小さく笑い、抱きしめてきた。
「おかえり、ゼロ」
「おかえり」
ヴィルトの腕がセキヤと私を包み込む。
この数日間、飽きるほど抱きしめられてきた。
けれども、こんなに満たされるようなハグじゃなかった。
「……ただいま」
破顔した二人を見て小さく笑いが漏れる。
暫しそのまま抱き合っていた私達は、ふと周囲からの視線を感じて体を離した。
咳払いをして、改めて二人を見る。
「これからどうしますか?」
「うーん……あいつらは?」
「ここを出たのは確認しました」
「そうか……」
ヴィルトが小さく手を上げる。
「一晩泊まってから向かう?」
「まだ昼前ではあるし、俺達はこのまま出ることもできるけど……ゼロはどうしたい?」
どうしようか。
彼らも疲れているだろうし、ソラン達が町を出ている今、泊まっていってもいいだろう。
今すぐ出発するにしても、急いだところで何かが大きく変わるわけではない。
ああ、でも……あの宿屋にもう一度泊まるのは少し避けたい。かといって、他の宿を知っているわけでもない。
「……二人には悪いですが、出発しましょうか」
「はいよ」
「分かった」
二人はあっさりと頷いた。元々どちらでもよかったのだろう。
三人でメルタを出て、パノプティスへの道を歩く。
十月になったからだろうか。前に訪れた時と比べるとかなり涼しい。
相変わらずメルタとパノプティス間の森は魔力が少し濃いが、私達ならば何も問題はないだろう。
「そっち行ったよ!」
「ええ、任せてください」
飛びかかってくる蜘蛛を切り捨てる。
人の頭ほどの大きさがある蜘蛛達が、次から次へと木々の隙間から現れては襲いかかる。
とはいえ、私達の敵ではなかった。
何匹来ようと変わらない。乾いた破裂音が響くと共にボタボタと地面に落ちていく。
「それが最後の一匹ですか」
「そうみたいだね」
他に気配は感じない。吐き出される糸を避けながら、ちらりとヴィルトを見た。
「やってみますか?」
「えっ」
飛びかかってきた蜘蛛を払いのけ、足元にあった木の棒を蹴り上げて手に取る。まあ、長さも太さも持つには丁度いいだろう。
投げ渡すと、ヴィルトはわたわたしながら受け取った。
「いざとなればセキヤがやってくれますから大丈夫ですよ」
「あっ、俺? オッケー、任せて」
セキヤはにっこりと笑って手を振る。
棒を握りしめて息を呑んだヴィルトは、おそるおそる構えて深く頷いた。
払いのけた蜘蛛がヴィルトの近くに落ちる。
「ほら、動きをよく見て」
少し腰が引けているが、目はまっすぐに蜘蛛を捉えていた。
吐き出された糸をギリギリで避けたヴィルトが棒を振り下ろす。
一度目は避けられた。二度目も、当たらない。
三度目の攻撃で、ようやくヒットした。
叩きつけられてギィッと鳴き声を上げた蜘蛛は、少しふらついている。
ヴィルトは少し後退りして、その様子を見つめていた。
「ぼうっとしてないで、もう一度」
「あ、ああ」
大きく振りかぶったヴィルトに向かって、蜘蛛が飛びかかる。
一瞬怯んだ彼だったが、狙いを定めて振り下ろした棒が蜘蛛を叩き落とした。
ひっくり返った蜘蛛が起き上がる前に、もう一度振り下ろす。
蜘蛛の足がピクリとも動かなくなったことを確認して、手を叩いた。
「おめでとうございます、ヴィルト。初討伐ですね」
「や、やった……?」
肩を上下させているヴィルトは、大きく息を吐いて持ち上げていた棒を下ろした。
ずっと緊張していたからか、途端に脱力している。
「やったじゃん、ヴィルト!」
セキヤが肩に手を置く。自分の手を見ていたヴィルトは、こくりと頷いた。
まだまだ拙い動きだったが、ここから慣れていけばいいだろう。少なくとも以前に比べれば大きな進歩だ。
「さあ、行きますよ」
それからの道のりは平和なものだった。
時々現れる魔物も弱いものが多く、できそうであればヴィルトにも対処を手伝わせている。
やはり数をこなすうちに、少しずつではあるが慣れていっているようだ。何度も外していた攻撃は、次第に当たりやすくなっている。
パノプティスに戻ったら、何か武器を見繕うのも悪くないかもしれない。
「到着、っと」
「この壁を見るのも久々ですね」
パノプティスの壁は相変わらず堅牢だ。中に入ればそうは感じないが、外側から見ると窮屈そうな印象を受ける。
「セキヤ、入る前に……」
「ああ、そっか。巻いておかないと」
セキヤは布で口元を覆った。
パノプティスに撒かれているであろう薬物に対してどれだけ効果があるかは分からないが、しないよりはマシだろう。
「お帰りなさいませ」
白い門番から預けていた住人カードを受け取り、町の中へと入った。
見上げると、オレンジ色に染まった空を鳥が羽ばたいている。
「もう日が暮れてきたし、今日は家に帰ろうか」
「そうですね。あ、その前に買い出ししておきましょう。図書館へは明日の朝に向かうということで」
「分かった」
商業区までの道を進む。
この町の様子を見るのは三ヶ月ぶりだ。
あまり気にしていなかったが、他の町と比べると道行く人はなんとも違和感を覚える表情をしている。クレイストあたりと比べると特に顕著だろうか。
妙に明るいというか。少し目が……爛々としているというか。
これも薬物の影響なのかもしれない。
食材や保存食を買って、居住区へと向かう。
三ヶ月ぶりに戻ってきた家は、なんだか懐かしく感じた。
帰ってきた、という感じだ。
「今日は俺が作るよ」
「ええ、お願いします」
「セキヤの料理、楽しみ」
今日も日が暮れていく。
貼り付けられた星々と月の下をゆったりと歩く。
今日の狩りもすごく順調だった。夜の貧民区を歩いていた、一人の獣人。それが今日の獲物だ。
邪魔が入ることもなく、単調なほどあっさりと手にかけることができた。
家に戻ると、リビングに人影を見つけた。
「戻ったか」
椅子に座って茶を飲んでいたのはセキヤだ。
カチャリとカップを置いた彼は立ち上がると、こっちを向いた。
「あ、起きてたんだ? それとも起こしちゃったかな」
「自分で起きた。今日だろうと思ったから」
「……そう。何か用?」
「用って程じゃない。ただ、把握しておきたかっただけ」
……セキヤとの関係は、前と比べると僅かながら良好になっている。
ミスキーに辿り着いた日の夜もそう。ルクスの診療所から抜け出す時、目を覚ました彼はただ一言呟いた。
『気を付けて』
それが少し嬉しかったんだ。
ああ、でもダメだ。ダメなんだよ。
きっと、全てが終わったら僕のことはまた厄介者として扱われるんだろう。
勘違いしちゃいけない。今のこの関係は決して和解したからじゃないってこと。
一時限りの脆いものだって。
「お前は何をそんなに怯えてるんだ?」
「……怯えてる?」
それを君が言うんだね。
ああ、でも悟らせちゃいけない。
ふっと唇を吊り上げて笑う。いつも通りに、憎たらしく。
「僕が? 何に?」
「……はぁ、俺の気のせいか」
ため息をついたセキヤは軽く首を振った。
うん、それでいい。それでいいんだ。
「終わったなら早くあの子に体を返してあげて」
「はいはい、分かってるよ」
立ち去るセキヤにひらひらと手を振る。
きっと僕達は仲良くはなれない。それはゼロの役割だから、僕が奪っちゃいけない。
「……寝よ」
ぽつりと呟いて、僕も寝室に向かった。
ベッドに横たわり、天井を見つめる。
……あの日、ソランにもらった温もりが忘れられない。
あの言葉を信じるなら、きっと彼は僕を愛してくれるんだろうけど。
でも、それを望んじゃいけないことくらい僕だって分かってる。
「僕は……僕の役割だけを」
役割。それは、ゼロを助けること。
ずっと昔からの友達として、僕はそうすることを望んだのだから。
ああ、でも。それでも。
目元で手を組む。震える唇から息が漏れる。
「救われたい、なあ……」
頬を、冷たい雫が伝った。




