間話 ある薬師の話
命の恩人という稀有な来客の来訪から一週間。
例の流行病の患者も数が落ち着いて、ゆったりとした時間を取れるようになった。
不足気味だった薬の補充も終わった。そうなると、思い浮かぶのはこの町を治める守護者様の姿だ。
まだ定期検診の日ではないが、度々訪れることもあった。突然の訪問にはなるが、余程調子が悪い時でない限り拒絶はされないだろう。
様子が気になった俺はエクメド様の元を訪れていた。
ゼロ君達の来訪という新たな刺激を受けて、何かが変わっていないか。
それを確かめるためだ。
調子が良さそうだとは聞いていたが、やはり自分の目で診なければ。一度受け持った以上、回復するまでのケアは俺の責務だ。
一週間ぶりに見た彼は、目の下のクマも薄くなって健康的な見目をしていた。
「調子はいかがですか?」
「ああ、だいぶ良くなったよ。これならもう検診を受ける必要はないかもしれないな」
「ご冗談を。検診はまだ続けますからね」
「はは、分かっているとも」
冗談を言えるほど今日は調子がいいらしい。
彼らの来訪が良い刺激になったのか、それとも別の何かがあったのか。どちらにせよ良いことだ。
「ああでも、君の例の薬には頼らずに済むだろう」
「それは、どういう……?」
ふと、朗らかに笑う姿に違和感を覚える。
ここまで落ち着いた姿は一度も見たことがない。落ち込みの揺り返しとも違う。
度々打診していた、あの薬。
その存在に揺らぎを感じていたはずの瞳には、確固とした意思が光っていた。
「パパ、そのお姉ちゃんだあれ?」
鈴のような声に振り返ると、小さな女の子が部屋を覗いていた。
……おかしい。
どくん、と。自分の心臓の音が大きく聞こえる。
この子は、彼の娘は、要望に応じて俺がこの手で処理を施したはず。
永く姿を保ち、彼に寄り添えるように。
たしかに死者であったはずだ。それなのに、何故――
「リサ、彼は薬師のお兄さんだ。それと部屋を出ていなさい。パパは大事なお話をしているからね」
「はーい、ママのところに行ってくる。またね、薬師のお兄ちゃん!」
扉は閉じられ、女の子の姿も見えなくなる。パタパタと走る小さな足音が遠くなっていく。
彼の……彼の妻子は、既に亡くなっている……はずだ。
俺は今、夢でも見ているのか……?
「すまないな、元気が有り余っているようで」
「……エクメド様、これはどういうことですか」
「ああ……君にも言っておこうと思っていたんだ。私の妻と娘が命を取り戻したことを」
「そんな……一体、どうやって」
彼に会う人物はそう多くない。
この町の住民達は、皆自分のことで精一杯だからだ。
そんな中で、彼と会ったのは……あの三人だけ。
「詳しくは言えないが……奇跡が起きたんだ」
奇跡。
ふと、ヴィルト君の姿が頭を過ぎる。
悪魔と契約した、青髪の彼。
もし彼の治癒能力が、死者にも及ぶとしたら……?
死そのものさえ、治せてしまうのだとしたら。
「教えてください。その奇跡の使い手は、青髪の……ッ」
「特例だと言われたよ」
「特、例……?」
言葉を遮られる。
少し自嘲するような笑みを浮かべたエクメド様は、以前までの彼と同じ顔をしていた。
「……私は、流行病で亡くなった人達も救えないかと頼んだんだ。しかし、この奇跡には代償が必要で……私の妻と娘のように、遺体が残っていなければ効かないのだと言われてね」
遺体が、残っていなければ。
それなら……俺が、今までに喪ってきた人達は。
俺の、家族は。
「そう、ですか……」
「……そろそろ時間だろう。次の検診は二週間後でいいのかな?」
「あ、ああ。そうですね、二週間後で……」
それから屋敷を出るまでの間、俺はどこか夢を見ているかのような感覚で歩いていた。まったく現実味を感じられない。
屋敷を離れた俺は、空を見上げた。晴れ渡った寒空に昇る日の光に目を細める。
丘を降りながら思い浮かべるのは、青髪の彼だった。
……やはり、奇跡を起こしたのはヴィルト君なのだろう。
悪魔と取引して得た力だ。死者を甦らせるなんてことも可能なのかもしれない。
ゼロ君はそのことを知っていたのだろうか。あれほど仲が良い様子だったのだから、きっと知っていたのだろう。
それなら……なぜ、俺に何も言ってくれなかった?
俺の家族のことを、彼は知っているのに。
俺は君と同じ……君の兄の、被害者だろう?
いや、分かっている。これは俺の独りよがりな我儘だ。
いくら俺の事情を知っているからと言って、死者の蘇生などという重大なことを教えなければいけないなんて道理はない。代償が必要ともなれば尚更だ。
それに、俺の家族はエクメド様の妻子のように綺麗な状態で残ってはいない。皆、既に土の中だ。
たとえ教えられていたところで……ぬか喜びするだけだ。結局、その奇跡で俺の家族も、喪ってきた人々も、蘇ることはないのだから。
この町を離れる際、ゼロ君は何かを言いかけていた。
もしかしたら、あの時……話そうとしてくれていたのだろうか。
何にせよ、こればかりは次に会った時に聞いてみるしかない。
……聞くべきなのだろうか。
深く息を吐き出す。体が重たく感じる。足が鉛のようだ。
ああ、これは良くない。良くない兆候だ。
この日は誰も患者が来なかった。良いことだろう。
日が暮れて、一人暗い部屋でベッドに横たわる。
衝動的に爪を立て続けた腕には血が滲んでいた。
……このままでは眠れもしない。
ふらりと立ち上がった俺は、浴室に向かった。シャワーを浴び、『準備』をして、コートを羽織って診療所を出る。
ああ……今日は誰の所に行こうか。外に人はいないから、適当に引っ掛けることはできないだろう。
とことん酷く抱いてほしい気分だ。
お前はどうしようもない弱者なのだと、突きつけてほしい。
あの日のように。
重たい足を引きずって、辿り着いた一件の家。
チャイムを鳴らすと、少しして扉が開いた。
部屋の明かりが少し眩しい。
「お前が来るのは久しぶりだな」
吐かれる息が少し酒臭い。飲んでいたのか。
まあ、その方が都合がいい。
「……ああ。都合はどうだ? 好きにしてくれて構わないぜ」
右手の親指と人差し指で輪を作り、れ、と舌を出す。二つに割れた舌先を男の指が摘んだ。わずかな嫌悪感が湧き上がる。この鋭い歯で噛んでやれたら、なんて考えたこともあったな。もう昔の話だ。
「ハッ、大歓迎だ。丁度良い」
扉の向こうから伸びてきた腕に引き込まれる。
乱暴に連れて行かれた先では、二人の男が待っていた。
転がったボトルとむせ返るようなアルコール臭。相当楽しんでいたと見える。
その内の一人は、患者として診たことがある男だった。
「んあ? 先生? なんでここに?」
「ダチがいるんだ。別にいいだろ? 三人で遊んでやるよ」
「……ははっ、そうだな。好きに、してくれ。もう準備はしてある……」
突き飛ばされ、固いベッドに倒れ込む。
ハッ、と漏れたのは自嘲するような笑いだった。
俺は、上手く笑えているだろうか。
「お前ら、好きにして良いってよ」
「おい、マジかよ……」
覆い被さる影をぼんやりと見つめる。
ああ。何も考えずに済みそうだ。
死んでしまいたい。
そう思ったことは何度もあった。
どれほど気にかけても、どんなに心を砕いても。俺が縁を結んできた人達は、誰も彼もが悲惨な最期を迎えてきた。
何度涙を流し、何度弔ってきただろう。
それら全てが俺のせいではないかと感じるようになるまで、そう時間はかからなかった。
『遊び』に出るようになったのは、いつからだったか。
自分を許せなくなった時。重苦しい思考の海から出られなくなった時。
遠いあの日を追体験するかのようなそれは、きっと自傷行為そのものなのだろう。
それを理解していて、俺は止めることができずにいる。
明日になれば、きっとまた頑張れるから。
だから今日だけは、このヘドロのような澱んだ海に沈んでいたい。
あの薬を完成させて、数多の人々を救えば。
そうすれば、いつか俺は許されるのだろうか。
俺も、その救いに縋ることができるのだろうか。
夜はまだ深い。




