第61話 泥酔
ガタゴトと馬車に揺られている。ああ、窓から見える景色は緑が多くて癒される。
今日も今日とて、私はソランに愛されていた……いや、この表現は良くないな。世話されている……? これも少し違うか。
とにかく、何から何までソランの手で行われている。食事さえ手ずから与えられているのだから、最早何も言いたくなくなるというものだった。
クリシスとサバカに至っては出来る限り関わりを避けているようで、見かけることすら稀だ。
首輪を付けられているとはいえ、定期的に抱きしめられることは避けられないし、下手に逃げ出そうとして余計に警戒されるのも避けたい。そういうわけで、私は大人しく抱きしめられていた。
もう少しでメルタに着きそうだから、そこでどうにかできないかと考えている。
……正直、この状況をどう思っているのか自分でも良く分かっていない。嫌悪感はあるが、それよりも困惑の方が強いといったところか。
あれだけのことをして、その全てを開示しておきながら、まるで遠い過去の何も知らなかった頃のような触れ合いをしてくるこの男のことがよく分からずにいた。
他の一族のように殺してしまいたいかと問われれば、その気持ちはあるというのが正直な答えだ。だが、今この状況でやれるかというと……少しの不安がある。
今、私の袖にはナイフがある。結局あの夜に何が起きたのかは……深掘りせずにいるが、その時に取り返したものだろう。
取り上げられていないということは、持たせておいても問題ないと判断されているという意味でもある。
仮に今、このナイフで切り掛かったとして……防がれてしまえば、その後はより拘束を強められるかもしれない。
何より、今大事なのはセキヤやヴィルトと合流することだ。その為には逃げ出す方がいい。
やるなら、町の中。宿に泊まっている時だ。
その為に、少しでも警戒心を解いておかなければ。
きゅっと口を一文字に結ぶ。正直、気乗りはしない。しないが。
目を閉じて、そっとソランの肩にもたれかかる。
「……ゼロ?」
肩に手が置かれる。顔を覗き込まれる気配がした。
そっと、唇に柔らかいものが触れる。眉間に皺が寄りそうなのを堪えて、寝たふりを続ける。
「眠ったのか。可愛いな……」
頭を撫でられながら、私はできるだけ無防備に体を預け続けた。
目を瞑り続けていると、暫く眠っていなかったからか本当に眠りそうになった。というか、ほんの少しだけ眠ってしまった。
一瞬とはいえ、本当に無防備な時間を作ってしまったわけだ。
……これは今回限りにしよう。
それから暫くソランからのちょっかいに耐えていると、ようやくメルタに着いたらしい。
しかし、近くに停めるだけで中に入る気配がない。
「……町に寄らないんですか?」
「ああ、物資も充分あるからな」
宿に泊まってもらわなければ困る。せめてこの首輪は外してもらわなければ。
……一か八か、おねだりしてみるか?
「あの……私、ベッドで眠りたいです。馬車での旅に慣れていなくて……」
「んんっ、そうか、ベッドで寝たいかぁ。なら町に入らないとだな」
でれでれとだらしない顔をしたソランは、御者台に続くカーテンを開けた。
「予定変更だ。今日は宿に泊まるぞ」
というわけで、あっというまに宿に泊まることに決まった。こちらとしては助かるが、それでいいのか。
流石に目立つからと首輪を外された代わりに、がっしりと手を握られる。
フードを深く被り、手を引かれるままに隣を歩いた。
「……兄様」
「ん? どうした?」
ソランの声は弾んでいる。随分と分かりやすい。
「今日は一緒に飲みませんか?」
「どうしたんだ、急に」
「飲みたい気分なんです……駄目、ですか?」
「いや、勿論構わないぞ。とびきり良い酒を用意させよう」
随分とあっさり頷いたな。
ともかく、ここまでは計画通りだ。
それからは宿に連れて行かれた。以前泊まった宿と同じだ。そもそも宿の数が少ないだろうから当然と言えば当然か。
一番良い部屋を取ったらしく、案内された所は前に泊まった部屋よりも幾分か広い。
ベッドに腰掛け……ようとしたが、膝の上に座らされた。
居心地は悪いが、この後のためには拒んでいられない。
「おら、持ってきてやったぞ」
部屋に入ってきたのはクリシスだった。
いくつかのボトルとグラスが乗ったトレーを机の上に置くと、さっさと部屋を出ていく。
これが用意させると言っていた酒だろう。
「それじゃ、飲むとするか」
「ええ」
グラスに赤い液体が注がれる。
パノプティスでは何度か見ていたが、メルタにもワインがあるとは。輸入品だろうか?
渡されたグラスを傾け、一口含む。度数はそこそこあるようだが、果たしてこれでソランが酔うかどうか。
……私はそれなりに酒に強い方だと自負しているが、ソランもそうだとすると少し難しいかもしれない。
「美味しいですね」
「だろ? 炎酒もあるぞ」
「ではそちらも……」
飲んでみたところ、この炎酒が一番度数が高そうだ。
私はなるべく飲まないようにして、彼に多く飲ませれば……多少判断力を損ねてもらえれば、その後が動きやすくなる。
「ほら、もっと飲みましょうよ。注いであげましょうか」
「おっ、いいのか?」
ソランは上機嫌で、注げば注ぐだけ飲んでいく。
よし、この調子でとにかく飲ませ続ければ酔ってくれるだろう。
肌もほんのりと赤らんできている。
「良い飲みっぷりですね」
「あっはっは、そうだろ? 結構イケるクチなんだぜ俺は」
「ほら、もう一杯」
「おう」
時折自分のグラスに口をつけて飲むふりをしながら、次から次へと注いでいく。
その時が来たのは、思っていたより早かった。
「……ゼロ」
眠たそうな目をしたソランが肩に寄りかかってくる。
「眠たいんですか?」
「ん」
「このまま寝てしまいましょう」
そっとベッドに横たわらせて、部屋の明かりを消す。
「ゼロ……こっちに……」
「ええ」
近寄ると、腕を引かれる。ベッドに上がり、隣に寝そべると抱きしめられた。
「……愛してる」
その言葉を皮切りに、寝息が聞こえてきた。
抱きしめる腕に力はこもっておらず、簡単に抜け出せた。
「……」
袖の内にナイフはある。今、ここで殺してしまうことだって……できるかもしれない。
ナイフを取り出し、掲げる。このまま振り下ろせば……終わる。
『愛してる』
無防備な寝顔と、柔らかく微笑んだ顔が重なった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
目を開けた時、そこにゼロの姿はない。
開いた窓から夜風が吹き込むばかりだった。
クリシスとサバカが部屋に入ってくる。
「あーあー、やっぱり逃げられてやんの」
「捜索に出ましょうか、主」
「いや、いい」
外に向かおうとするサバカを引き留め、窓の外を見る。今頃はあの暗闇の中を走っているのだろう。
愛しい愛しい、俺の弟。お前との時間は楽しめた。
これで終わったわけじゃない。また追いかけるだけだ。
「……うわ、ひっでぇニヤケ面」
クリシスの声で口元に触れると、唇は深く弧を描いていた。
ああ、楽しい。
まったくその足取りを掴めなかったあの頃と比べれば、今のこの追いかけっこはとても魅力的だ。
「明日からパノプティスに向かうぞ」
「やっぱ追いかけはするんだな? つーか逃したのわざとだろ」
「一生懸命な姿が可愛かったからな」
机の上に置かれたグラスにボトルの中身を注ぐ。
夜空に掲げた一杯は随分と美味く感じた。




