第60話 揺らぎ
馬車は休憩を挟みつつも、パノプティスまでの道を走り続けた。馬車に揺られて四日程になるが、途中でクレイストに寄る素振りも見せない。順当に進んでいるのだろう。
しかし道中で件の宗教集落に立ち寄ることにしたらしく、近くで馬車を停めた。
まさかここに泊まるつもりなのだろうか? だとしたらやめておいた方がいい。ここには何も良い思い出がないのだから。
また贄だのなんだのと巻き込まれたらたまったものではない。
「……ここで泊まるつもりですか?」
「いや、そのつもりはないぞ」
「ならなぜここに……?」
サバカとクリシスの二人が御者台を降りた気配がする。一体どうするつもりなのか、さっぱり見当がつかない。
「そろそろだろ?」
「そろそろ……? 何がですか」
「まあ、来てからだな」
来てから? 何を言っているんだろうか、この男は。
何を考えているのか、ソランは脚を組んでくつくつと笑っている。
……今、私はソランに抱きしめられてはいない。
だというのになぜ行動を起こさないのかと言えば、今の私は首輪で繋がれているからだ。
抱きしめられっぱなしは鬱陶しいのだと繰り返し言っていたら、抱きしめない代わりにこの首輪をつけるようにと交換条件を出された。
触れると、チャリ……と鎖が擦れる音がする。細い鎖だが、切るのは至難の業だろう。鎖の先はソランが握っている。
それにしても、なぜこんなものを用意してあるのだろう。初めからつけるつもりだったのだろうか。
「お、戻ってきたか。ほら、出るぞ」
ソランに促され、馬車を降りる。
サバカが担いでいた何かを地面に下ろした。
……人か?
「要望通りに門番を一人連れてきた。これでいいんだろ?」
「ああ。ご苦労さん」
「ったく、人使いが荒いんだっての」
「クリシス」
ぶつぶつと文句を言うクリシスをサバカが諌める。クリシスはチッと舌打ちした後、腕を組んで黙り込んだ。
「馬車で待っとけ」
「はい、主」
二人は馬車の御者台に戻っていった。
門番はぐったりと地面に横たわっている。呼吸はあるようだ。ただ気を失っているのだろう。
「ほら」
ソランは手を差し出す。
その手には、私のナイフが握られていた。
「……あの、これは?」
「うん? ああ、暗くてよく見えないか? ゼロのナイフだよ」
「いえ、そうではなく……これはどういうことですか」
ぱちくりと瞬きしたソランは、まるで子供を見守る親のような目で私を見た。
「そろそろ殺したくなってくる頃合いだろ?」
「殺し……?」
どくん、と心臓が強く脈打った。急速に口が渇いていく。
……確かに、私は無実の人々まで殺めたことがある。でも、今はもうそんなことはしていない……はずだ。
いや、本当は理解している。二度目のメルタで感じた異常な渇き。抑えられない衝動。気を失った後、満たされた感覚で目を覚ましたこと。
私に記憶がないだけで、きっと『彼』が何かをしたのだろうことも。
嫌だ。私は、私は手を汚したくない。この手が既に血濡れていることは分かっている。それでも、私は。
……ふいに、手を引かれるような感覚があった。
とぷん。意識が沈む。
こっちにおいでと、優しく包み込まれるような感覚。
『後は僕の役目だから』
遠くから声が聞こえる。その意味を理解する前に、意識が途切れた。
……目を開ける。
さあ、ここからは僕の時間だ。
「そうだね。そろそろかなって僕も思ってたんだ」
ソランからナイフを受け取り、くるりと回す。
僕の喋り方に一瞬気を取られたソランは、口元に手を当てて僕を見つめた。
「一応初めまして……ってことになるんだよね。僕はキキョウだよ」
「ああ、秘密の友達か?」
「……あー、そういえばゼロが話してたね。覚えてるんだ?」
「当然。名前までは教えてくれなかったけどな」
昔、まだゼロとソランが仲良しだった頃。
一度だけ、秘密の友達がいるのだと話していた。
今思えば、その時もソランは過剰に反応していた気がする。僕が空想の存在だと気付いてからは、気にしなくなったようだけど。
「なるほど。だから記憶が不自然だったのか」
「え、これだけで全部分かったの?」
「推測だけどな」
「ふーん……」
やはりヴェノーチェカというべきか。答えに辿り着くのが異様に早い。
くるくるとナイフを回しながら門番を見下ろす。
目を覚まされても面倒だし……先に済ませておくべきか。
一歩、二歩と門番に近付き、その胸目掛けてナイフを振り下ろす。
手に伝わる感触が、溢れ出す鮮血が、僕の渇いた部分を潤してくれる。
ソランにお膳立てされたことは少し気に食わないけど。まあ、潤せるならそれでいいわけだし。
「随分とあっさり済ませるんだな」
「だって嬲る趣味はないもん。必要だからしているだけ。食事と同じだよ」
「そうか。それで、お味は?」
「うーん……まあまあかな」
ピッとナイフを振って、付いた血を払う。
袖にナイフを戻してソランと向き合った。
「さあ、馬車に戻るぞ」
「……ゼロに代われとは言わないんだ?」
「うん? お前もゼロの一部だろ。わざわざ促すこともない。それに……」
「……それに?」
ソランはそっと手を伸ばす。頬に触れた指が、肌を撫でた。
顔を寄せたソランの目と目が合う。赤い瞳に、僕の姿が映っている。
「昔のゼロみたいで、可愛い」
「……ああ、そう」
頬に触れる手を払おうと、持ち上げた腕が止まる。行き場を無くした腕を下げて、されるがままに撫でられた。
……ゼロの一部、か。
(あーあ……どうしてだろう)
セキヤも……きっとヴィルトも。僕のことは邪魔者だと思っている。
ゼロを蝕む存在だって。
今でこそゼロの味方だと分かってもらえているけど……だからといって、僕が好意的に見られることなんてなくて。
そりゃあそうだよ。だってそういう風に見せているのは僕だ。だから、そうなるのは当然で。
……でも。
(どうして……僕を受け入れるの?)
そっと、抱き寄せられる。
彼がしてきたことは、到底許せることじゃない。許せない。そのはずなのに。
なのに、腕の温もりを少し心地良いって感じてしまう僕がいる。
「ゼロの一部なら、愛さない理由はない。そうだろ?」
「……変な理屈」
「そうか? 分かりやすいだろ」
血の匂いがする中、僕はただ抱きしめられていた。
ああ、どうしよう。こんな温もりは初めてだ。
彼の背に回しかけた手を、ぐっと握る。
だめだ。これを受け入れちゃいけない。そう、頭では分かっている。分かっているのに。
「さあ、馬車に戻ろう。冷えてくる」
「……うん」
離れたソランは鎖を引いたまま、そっと手を差し出す。
……逃げるなら、今だ。今ならまだ逃げられるかもしれない。
そう叫ぶ僕の理性を、滲み出した欲望が覆い隠す。
もう少し。もう少しだけ、あの温もりを感じていたい。
僕を僕として、ゼロの一部だと認めてくれる時間を、もっと。
差し伸べられた手に、自分の手を重ねる。
笑みを深めたソランは、そのまま僕を馬車に乗せた。
扉が閉まって、ゆっくりと馬車は進み始める。
きっと、少し遠くで停めるのだろう。集落に近すぎる今の場所だと不都合だから。
「キキョウ」
「……なに?」
「お前のことも愛しているよ」
どう返せばいいか、分からなかった。
でも、受け入れるわけにはいかない。それだけは理解していて。
だから、ただただ沈黙を貫いた。
今日だけ。あと少しだけ。
重なった手の温もりに浸っていたい。
今日が終わったら、そこまでだから。
だから……ゼロ。これだけは許してくれるよね……?




