第59話 馬車
ガラガラと音が聞こえ、小刻みな振動が体に伝わってくる。そして、温かい何かが体を包んでいるような感覚……?
目を開けると、目の前にソランの顔が飛び込んできた。
「ッ!?」
「お、目を覚ましたか」
ここは……!? なぜこの男がここにいるんだ!?
身をよじろうにも、がっしりと抱きしめられていて、とてもじゃないが動けそうにない。
ソランは仕方ないなとばかりに笑って、私を抱きしめる腕に力を込めた。
「おいおい、そんなに暴れるんじゃない。パノプティスまで送ってやるんだからな」
「は……? なぜそんなことを……というか離してくださいよ!」
「嫌だ。折角こうして一緒にいられるんだ、離すわけがないだろ?」
せめてもの抵抗で、顔を寄せてくるソランから目を背けた。窓から見える景色から推測するに、ミスキーからメルタまでの道を馬車で走っているらしい。
ソランの指先が首筋をなぞる。ぞわぞわと背筋を悪寒が走った。
どんな客を相手にした時でもここまで気持ち悪いと感じたことはなかった。いや、それは少し盛ったか。気持ち悪い客は普通にいた。
「俺はお前を心配してるんだぞ……? ようやく見つけたと思ったら、呪われてるっていうじゃないか。手助けをしてやりたいと思うのはおかしなことか?」
そうだ、ミスキーを出てすぐに彼と再会した私は、妙な魔道具で動けなくされて……それでここにいるわけか。
「……そう言うならセキヤ達も一緒に連れて行ってくださいよ」
ソランは深いため息をついた。首に息がかかってぞわぞわする。
耳元に唇を寄せたソランは、吐息混じりに囁く。
「別にいらないだろ? なあ、あの野郎は捨てて俺と一緒に行くのはどうだ? しっかり支えてやるからさ……」
「……それを受け入れると本気で思っているならどうかしていますよ」
「はは、それもそうか」
ソランは耳をくすぐりながら首筋に顔をうずめた。
ああもう、ずっと鳥肌が立っている気がする。
「あの、本当に気持ち悪いのでやめてくれませんか……」
「……そんなに気持ち悪いか?」
「自分にあんな感情を向けている相手からこんな事されて気持ち悪くないわけないでしょうに」
「手厳しいなあ。ああ、でもそんなところも可愛いよ、ゼロ」
「ひっ……」
生温かくて湿ったものが首筋を這う。どうにか逃げ出したい。なのに、がっしりと抱きしめる腕はどこからそんな力がと思うほど固くて抜け出せなかった。
「あー、本当に可愛い……ずっとこうしたかったんだ」
頬擦りしてくるソランから、できるだけ顔を遠ざける。そんな僅かな抵抗は、悲しいかな簡単に無力化されてしまった。
……昔は頬擦りされてもこんな気持ちにはならなかった。私からしにいったことさえあった。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
きっと、そんな疑問を抱くには遅すぎるのだろうけれど。
「やめて、ください……」
「はははっ、やだね。久々のゼロなんだ、もっと堪能しないと勿体無いだろ……?」
シャッと音がして、カーテンが開く。
御者台に繋がっているらしく、顔を覗かせた緑髪の少年……クリシスが苦い顔で口を開いた。
「おい、それくらいにしてやれよ」
「……はあ、別にいいだろ? これくらい」
「こっちまで聞こえてくんだよ。聞かされる身にもなってくれってんだ」
御者台にはクリシスだけでなくサバカもいる。
止めてくれるのは正直ありがたい。どうにかして離れさせてもらえれば更にありがたいのだが、そこまでは望めそうになかった。
「……マジで頼むからそこでおっ始めるなんてことすんなよ」
「あーあー、分かった分かった。分かったから邪魔すんな」
「ったく……本当に分かってんのか怪しいんだよなぁ」
カーテンが閉まる。
一応聞き入れるつもりではあるらしく、それから暫くの間は抱きしめられるだけで特に何もされなかった。
ただ沈黙だけが広がっていく。
……さて、どうしたものか。
彼の言うことを信じるなら、この馬車はこのままパノプティスへと向かうのだろう。
楽と言えば楽なのだろうが、セキヤとヴィルトも一緒だったらの話だ。……いや、一緒だったとしてもソランと同席するのは避けたいところなのだが。
「……パノプティスに着いたらどうするつもりですか」
「ん? そうだなあ……なあ、やっぱり俺達と旅の続きをするのはどうだ?」
「嫌です結構です絶対にしませんので」
「そこまでキッパリ言われると清々しいな」
どんなに頼まれても受け入れるものか。
彼は自分がしてきたことを一度振り返るべきだと思う。
そして、今すぐに離れるべきだと思う。何が悲しくて全ての元凶に抱きしめられ続けなければならないのか。
「あの、そろそろ離してくれませんか」
「駄目だ。ちゃんとこうしていないと逃げられるかもしれないだろ? まだ足りないんだよ」
「あー……座り心地が悪いのですが」
「うーん……なら、これで」
ひょいと隣に座らされ、そのまま抱きつかれた。
そこは受け入れるのか。どこが境なのかイマイチ分からない。
「喉が渇きました」
「はい、水。これで足りる?」
水筒を差し出される。開けると、確かに透明な水が入っていた。
……飲んでいいものだろうか。ソランのことだ、妙な薬でも入れているかもしれない。
「変なものは入れていませんよね」
「なんで? 入れる意味ないだろ」
「……いえ」
ソランはキョトンとしている。本気で不思議に思っている顔だ。
鼻を近づける。変な臭いはしない。
一口飲んでみる。ああ、普通の水だ。
「腹は減ってないか? いつでも言ってくれていいからな」
それからソランは甲斐甲斐しく私の世話を焼いた。それはもう丁寧に、至れり尽くせりといった様子で。
どうして私は大人しくここに座っているのだろう。
……なんだか感覚がマヒしてきそうだ。
どこかで逃げ出したいものだが……どうしよう。
櫛で丁寧に髪をとかされながら、窓の外を眺めていた。
髪をまとめている黒いリボンを手に取ったソランが尋ねる。
「このリボンどうしたんだ?」
「ああ、自分で買ったんですよ」
「そっか。うん、よく似合ってる」
本当はセキヤから貰ったものだが……素直に言うと絶対にロクなことにならないだろう。
わざわざ用意していたのか、オイルまで使って髪を整えられた私は再び抱きしめられることになった。
……いや、髪をとかされている間に行動を起こすべきだったのではないだろうか?
どうして私は大人しくされるがままになっていたのだろう。
ともかく、今更気付いたところでどうにもならない。深くため息をついて、私は眠ることにした。
見たところ順調にパノプティスまでの道を通っているようだし、今までの扱いから私を害することはない……と思う。正直、この状況から逃避したいという思いもあった。
だが、目を閉じたところで顔を寄せられた気配がして目を開ける。あと数センチというところにソランの顔がある。
「……あれ、キス待ちだと思ったんだけど」
「キッ……そんなわけないでしょうが」
「そうかあ、残念だな」
ソランは頬に口づけて、首筋に顔をうずめた。
全言撤回。怪我するようなことはされないだろうが、眠りなんてしたら好き放題やるに決まっている。
結局私はソランが寝ている間も起きていることにした。
それにしてもこの男、寝ているというのに腕はがっしりと私を捕らえたままだ。何が何でも逃がさないという強い意志を感じる。
……セキヤ、ヴィルト。私はどうするべきなのだろう。




