第55話 風の神官
振り向いた男の首に巻かれたクラヴァット……それを留めている緑色の宝石がキラリと輝く。彼がエクメド・ルヴァンジュだとして、予想通り神官であるなら……あれが魔宝石だろうか。
「……放っておいてくれ」
深く沈んだ声が部屋に響く。
両腕はだらんと下がり、気力を感じられない顔だ。眠れていないのだろう、目の下には濃いクマができている。ただ一言呟いた彼は、興味なさそうに顔を背けた。
部屋に入った時と同じように、二つの棺の間で膝をついて座っているだけだ。
「貴方がエクメド・ルヴァンジュですね?」
問いかけへの返答はない。
仕方ない、言葉を続けよう。
「放っておいてくれと言われましても……ルクスから聞いているでしょう? 私達が訪ねてくると」
「……私は来させるなと言ったんだ」
「用件さえ済めば帰りますよ。そう時間もかけさせません」
私達はただ魔力さえ貰えればそれでいい。
それさえ貰えれば、後はどうだっていいのだ。
「用があるのは、貴方が持つ魔力についてです。このペンダントに魔力を分けてもらえれば――」
俯きがちになっていたエクメドの頭が持ち上がる。ゆらりと揺れ、深い緑の瞳が私を射抜いた。
「……願いを叶えるために、か」
ぼそりと呟かれた声が床に落ちる。
知っているなら話は早い。早く帰ってほしい彼にとっても、悪くない話だろう。
「ええ、そうです。貴方が魔力を分けてさえくれれば、私達はすぐにここを立ち去りますから」
「……そうか。目に適ったのか。私は……私は、この役目のせいで」
ギリ、と音が聞こえた気がした。見れば、エクメドは強く歯を食いしばっている。
キッとこちらを睨みつけた彼の目には、明確な敵意が宿っていた。
「なぜだ? なぜ、私は叶わず、お前達が……ッ」
瞬間、凄まじく強い風が吹いた。
思わず目を細め、腕で風を受ける。バタバタとフードがはためき、脱げた。
「……獣人?」
ぽつりと声が落とされる。
風はますます強くなり、片手で顔を覆った彼はゆらりと立ち上がる。
「ははっ……神官である私は叶わないのに、獣人のお前は権利を持つというのか……はは、は」
懐から指揮棒を取り出したエクメドは、焦点の合わない目でこちらを捉え、震える手で指揮棒をこちらへ向けた。
「なら、奪えばいいのか……?」
それが巻き起こったのは言葉が発されるのと同時だった。
咄嗟に体を傾ける。前髪の一部が、ハラリと落ちた。
(風の……不可視の刃か!)
厄介な。
相手が神官である以上、こちらは手出しができないというのに……!
マキナといい、エクメドといい、どうしてこう南の神官達は戦いたがるんだ!?
ヴィルトを狙われるとまずい。セキヤもだ。いくら彼でも、不可視の刃となると避けることは難しいだろう。
「……ペンダントを持っているのは私ですよ」
どうやら彼は私の持つペンダントを欲しているらしい。当然渡すつもりはないが、こう言っておけばヴィルト達には攻撃が向かないだろう。少なくとも可能性は下がるはずだ。
「そうか」
寒気がするのは室温のせいか、それともエクメドの発した声の冷たさ故か。飛んでくる刃を避ける度に、壁が抉れる音が聞こえる。
(いくらなんでも本気過ぎないか……! これが『守護者』か!)
走って避けながら考える。どうするべきだ?
マキナの時と同じように、言葉でどうにかするしかない。それか……傷つけないように無力化して、力尽くで魔力を奪うか?
今までのパターンからして、彼の胸元に輝く魔宝石さえ手に入れられれば魔力を得られるかもしれない。しかし、それは……可能なのだろうか。
ピッとフードに切れ目が入る。避けるのがギリギリだったらしい。
形のない刃のくせに、随分と切れ味がいいものだ。まともに喰らえばひとたまりもないだろう。
いくらヴィルトがいるとはいえ……治療を許してもらえるかも分からない今、こんなところで動けなくなるような失態は犯せない。
「そんなに叶えたい何かがあるのですか!」
「……耳障りだ」
ああもう、聞く耳を持たない。
先程までの様子から、ここまでして叶えたい願いがあるというのは間違いないだろう。となれば、怪しいのはあの二つの棺だ。
純白の外装とガラス製の蓋であることは分かる。問題はその中身だ。
棺に近づこうとすると、一際大きな刃が繰り出された。
「彼女達に近付くな!!」
吐き捨てるような叫びと共に、目前の床が深く切り裂かれる。
……あの棺の中に、彼の大切な者が眠っているのだろう。
となれば、賭けだ。
「もし、その棺の中の人が生き返るとしたらどうしますか!?」
刃を避けながら声を張る。しかし、エクメドの手は止まない。彼が指揮棒を振る度に、鋭い風の刃が襲いくる。
「ペンダントを……器を渡せ……!」
「今この場で生き返らせる方法があるんですよ!!」
「……!」
エクメドの手が止まる。
それに連動して、襲いかかっていた風の刃も止まった。
(いける……!)
刺激しないよう、棺から距離を取る。
できるだけ穏やかに、説得する必要がある。
代償のことは懸念事項にある。だが……二人であれば、どうだろうか。ちらりとヴィルトを見る。緊張しているようで、私の視線に気づいていないようだ。仕方ない。
問題は……あの棺の中身だ。形が保たれていることを願う。
「私の友人……青髪の彼は、死人を蘇らせることができます」
「何を言うかと思えば、そのような世迷言……」
「世迷言ではありませんよ。私は彼の力を幾度も目の前で見ました」
……これは嘘だ。ただ、完全な嘘とは言い切れない。
彼の力を幾度も目にしたことは本当だ。ただ、死者蘇生を目にしたことはないだけの話だった。
「私が持つペンダントに貴方の魔力を注いだとしても、まだ空きがあります。この方法ではまだまだ時間がかかるでしょう」
いつ刃が来てもいいように、動けるよう意識は集中させておく。
少し喉が渇く。ああ、手を出してもいいなら楽だったのに。
「しかし、彼の力を借りるのであれば……今この場で蘇らせることが可能です」
反応はない。
「どうします? 今すぐに願いが叶う方法がある中で……遠回りする道を選びますか?」
「……それが嘘でない証拠は」
「目の前で実践して見せれば済むことです。私からペンダントを奪うのは、それを確認してからでも遅くないのでは?」
緑の瞳と見つめ合う。
十秒か、一分か、それとも十分か。じっとりと汗ばむ中、どれだけの時間が経ったのか。
エクメドは、震える腕で指揮棒を下げた。
「少しでも彼女達に傷をつけたら……そのときは」
「ええ。問題ありません」
それ以上の言葉は聞くまでもなかった。
ヴィルトへ視線を送ると、ハッとした彼はゆっくりと歩き出した。
「蓋を開けていただいても?」
「……」
エクメドは黙ったまま、棺の蓋を開けた。
棺に横たわっていたのは、薄紫の髪を持つ女と子供だった。彼の妻と娘だろうか? 随分と綺麗なままで、まるでただ眠っているだけのようにも見える。つい最近死んだのだろうか。
ゆっくりと静かに近付いたヴィルトは、手をかざす。
「……これから青い光が出る。心配いらない。蘇生に必要なこと」
そう説明したヴィルトの手を、青い光が包む。エクメドが息を呑む気配がした。
青い光はヴィルトと女達を包み込み、体に吸い込まれていく。
その光景を、エクメドは口を引き結んで見守っていた。
やがて……閉じていた目が、開かれた。




