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第105話 夜

 逃げるならば夜だろう。俺とエポルの意見はそれで一致した。

 配給済みの食料と水を俺のベルトポーチやエポルの工具入れに詰め込んで、持てるだけの飴とガムも入れて、端末はいつも通りの夜と同じようにベッドサイドに置いて。


 さあ逃げようというところで、ふと思い出す。

 そうだ、何よりも大切なことを忘れていた。


「エポル、ナイフはあるか? カッターでもいい」

「え? えっと、カッターはあるけど……」

「貸してくれ」


 一度自室に戻ったエポルからカッターを受け取る。止血用に大きめのハンカチを二枚用意した。うなじに触れてみるが、やはり俺には分からない。でも大体の場所は覚えている。


「兄貴? 一体何を……」


 カチカチと刃を出してうなじに当てる。浅過ぎず深過ぎず、丁度いい具合に刃を沈めた。


「ぐっ……」

「兄貴!?」


 エポルが小さい悲鳴を上げる。ピッと刃を引くと、わずかな肉片が刃についていた。……これで取り除けたと思いたい。

 ハンカチを押し当てる。……片手が塞がるのは嫌だな。スカーフみたいに巻くか。

 きゅっとハンカチを結んで、カッターに付着した血を拭き取る。


「……うなじに何か、位置を割り出すための何かが埋め込まれているらしい」

「え……?」

「逃げるなら取り除くしかない。エポル、怖いと思うが……」


 エポルは強く頷いて後ろを向いた。うなじがよく見えるように少し俯いて、ぎゅっと手を握りしめる。


「……分かった。兄貴のこと、信じるよ」


 エポルのうなじに刃を当てる。深く息を吸い込んで刃を差し込んだ。


「ッ……」


 ぴくりと体が動く。俺だって声が漏れたんだ、痛くないわけがない。手早く肉を削いで、ハンカチを押し当てた。


「ごめん」

「兄貴のせいじゃないでしょ……? それに、もしアタシが嫌がったせいで見つかるなんてイヤじゃん……」


 俺のと同じように首に巻きつける。エポルは痛がる様子を見せずに少しひきつった笑顔を見せた。……とても強い子だ。


「行こう」


 こくりと頷いたエポルの手を握る。行く場所はもう決まってる。あの赤い屋根の家だ。

 パシアの所まで逃げられれば……もしかしたら匿ってもらえるかもしれない。

 外郭はここよりずっと危険だろうが、彼らがああして暮らしていられるんだ。俺達にできない道理はない。


 静かに家を出る。音を立てないように、慎重に。

 暗い中、道の端を進む。監視カメラがあると分かっている道は避けて、隙間を縫うように……それでもいくつかのカメラには映ってしまうだろうが、この暗さだ。顔までは分からないだろう。


(……機械人形?)


 暗闇の中、かすかに光る二つの点が揺れている。機械人形の目は発光しているから間違いないだろう。

 こんな夜にも見回りだなんてご苦労なことだ。だが俺達には都合が悪い。


 エポルにも指差しで機械人形の存在を教え、道を変える。

 機械人形を見つける度に道を変え、カメラを避け、また機械人形を避け。何体目かの機械人形を避けたところで、ふと気づく。


 目的地に近づくにつれて明らかに機械人形の数が増えている。


(気のせいじゃない。間違いない……でも、なんで)


 機械人形を避け、カメラを避け。そうして通れる道を制限されながらもどうにかここまで来た。あと少し、あと少しで目的地に辿りつけるのに……なのに、どうして。


 どうして、どの道も機械人形が見張っているんだ。


「ねえ、兄貴。これ……」

「……静かに」


 どくどくと心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる。

 ここからどうする? どうするべきだ?

 道を引き返すか? いや、戻ったところで他の道は機械人形か監視カメラが見張っている。


 こうなったらカメラがある道を通るしかない。

 大丈夫だ、今までだっていくつかのカメラには映ってる。今更一つ増えたところで大差はない。


 引き返そうとしたところで足音が聞こえる。

 二人分の足音。俺達のものではない、誰かの。


「よっ、ニール」

「久しぶりだねえ、エポルちゃん」


 ……ケインとエイベルが、今まさに引き返そうとしていた道から現れた。どうして二人がここにいる?


 どうしてなんて、決まっている。


「どうした、いつにも増して怖い顔して」

「エポルちゃんもそう怖がらないで。いるべき場所に返すだけだからさ」

「……お前ら、なんでここが」


 聞いておきながら本当は気づいている。

 こうして道を制限して、先回りするやり方……それはこいつらが得意とするものだ。

 俺達は初めからこいつらの罠にハマっていた。


「妙だなって思ってたんだよ。ニールってば、最近あんまりロステッドを追う任務受けなかったし」

「久々に受けたかと思えば失敗するしな。俺達も信じたかったんだぜ? お前も失敗することがあるんだってな」


 二人は少しずつ距離を詰めてくる。エポルを背に庇い、バールを握る。


「でももしかしたら意図的に起こしたものなのかもしれない。そう思ってたら、エポルちゃんが特殊母体に選ばれたっていうじゃないか」

「お前はエポルを大事に大事に扱ってる。コトを起こすなら今日だって思ってたんだよ」


 二人は鉄の棒を懐から取り出すと、強く振った。カシャンと音がして何重にも重なっていた筒が伸びる。


「「残念だ」」


 二人の声が重なる。咄嗟にバールを顔の前で構えると、金属がぶつかり合う音が響く。

 二人分揃って鉄棒を振り下ろしバールに叩きつけていた。腕が痺れ、後ろに弾き飛ばされる。更に踏み込んできたケインの猛撃を受け止める度に、ガキンガキンと金属音が鳴り響いた。


「なあ、諦めろよ。俺達だって傷つけたいわけじゃねぇんだ」

「そうそう。ね、エポルちゃん」


 この一瞬でエポルはエイベルの腕の中にいた。暴れるエポルの体を押さえ込み、鉄棒をゆっくりと振り上げる。


「や、やだっ!! 離して……ッ」

「だめだよ、暴れちゃあ」

「やめろ!!」


 エイベルの腕が止まる。バールを握り直し、じりじりと距離を詰める。

 どうする。どうやって助ければいい? 二人を相手に、どうやって。

 必死に考える俺を見ていたケインはゆるりと首を傾げて、肩に鉄棒を乗せた。


「なあ、ニール。周り見た方がいいぜ」


 言われて、気づく。

 俺達の周りを何体もの機械人形が取り囲んでいる。


 ……そりゃそうだ。あれだけ音を立てていれば気づかれないわけがない。

 ギリ、と歯を食いしばる。ここまで、なのか? あと少し。あと少しなのに。


 俺だけなら……俺だけならもしかしたら逃げ切れるかもしれない。でも、それじゃあ意味がない。エポルがいないと……でも、それではとても逃げられない。


 ああ。初めから、逃げられるはずがなかったんだ。

 昼間は従順なフリをして夜に逃げ出そうだなんてありきたりな考え、読まれないはずがない。

 俺のことをよく知る二人が相手なら、尚更。


「諦めろ、ニール」

「ここまでだよ」


 それでも、それでも諦めきれない。

 俺は強く地面を蹴ってエイベル目掛け腕を振り上げた。


 ガンッ。


 強い衝撃と共に、暗闇の中なのに視界が白む。


「本当に分かりやすいな、お前」


 ケインの声が何重にも重なって聞こえる。激しい音を立てて地面を滑った体が痛む。

 体を起こす前に背中を踏みつけられ、再び地面に付した。


「じゃあな、ニール」


 そこで俺の意識は途れた。




 ――目を覚ますと、白い天井が見える。

 鈍い痛みが頭に走り、ぐっと顔を歪めた。起きあがろうとしても手足が動かず、かろうじて動く頭を回す。


 手首を金属の枷で押さえつけられている。

 この感じ、胴も脚も同じように押さえつけられているのだろう。どうりで動けないわけだ。服も着替えさせられていて、簡素な裾がとても長い上着一枚になっている。


 ……エポルは? エポルはどうなった?


「エポル、エポル!」


 何度呼んでも返事がない。

 心臓が暴れだす。嫌な想像ばかりが頭をめぐり、指先から冷えていく。


 いや、落ち着け。落ち着くんだ。エポルは特殊母体に選ばれた……特殊と言われるくらいだ、そう手荒な扱いはされていないはずだ。

 少なくとも何の変哲もない掃除屋である俺よりは良い扱いを受けているはず。


 どうか……どうか、無事でいてくれ。

 俺はそう願うことしかできなかった。


 捕えられて何年もの月日が経ってもなお、そう願うことしか……俺には許されていなかったんだ。

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