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第102話 目撃者

 エポルの定期試験が終わった翌日。

 俺は気を引き締めて中層部の人間が多くいる区間に来ていた。


 用向きは勿論、件の座標を調べるためだ。植え込みの影に隠れ、朝早くからあの女性が姿を消した通りを見張っている。

 長丁場になりそうだが仕方ない。下手に歩き回るよりは、ここで見張った方がいいだろう。


(この前はもう少し遅い時間だったな……)


 今日は一日中ここで過ごすつもりだ。エポルには心配をかけるだろうが仕方ない。

 前回のことを警戒されてか、日中に彼女の姿を見かけなくなったのだ。

 ……まだ失踪したわけではないと思いたい。


 一時間、三時間、五時間。じっと待っているのも退屈だが仕方ない。

 ぽりぽりとバーをかじりながら通りを見張る。植え込みの影に隠れ続けていると体が痛くなりそうだ。

 時々人通りがないときに体を伸ばしつつ見張りを続ける。


 待てども待てどもあの女性は姿を見せないまま、気付けば退勤の時刻を告げる放送が流れていた。


(今日は会いに行かない日とかか? それとも今日は真っ当に仕事をしているのか……)


 これで本当に失踪しているなんてことは勘弁してくれよ。

 そう思いながらじっと通りを見続ける。


 やがて夜になり、暗い中でも通りを見張り続けた。

 隠れ場所は植え込みから大きめの木の影に変更している。暗い今ならバレにくいだろう。


(……ん?)


 ふと、甘い香りが鼻先をくすぐる。少し酸っぱいような、花の蜜を煮詰めたかのような濃い香り。

 一体何の香りだ? 深く香りを吸い込んだところで思い出す。これ、あの女性を見失ったときに香ったのと同じものだ。


 そして一枚の扉が通りに現れていた。

 ……いつの間に? いつからそこにあった? 今の今まで無かったはずだ。一体、どうやって。


 木材で作られた扉だ。花の模様が彫り込まれている。この香りはあそこから漂っているんだろうか……?

 そもそも、なぜこの暗闇の中であんなにハッキリと見えるのだろう。模様まで視認できるのはおかしい。


 じっとりと手が汗ばむ。なんだ、この気味の悪さは。俺は何を見ているんだ?


 まるで今自分がいる場所が、今までと同じ場所なのかを疑問に思うようだった。


「……ないと」


 焦ったような声が小さく聞こえる。パタパタと急く足音も。

 息を潜めて目を凝らす。……間違いない、あの女性だ。あの時の女性が暗い中を早足で進んでいる。


「急がないと……待たせちゃった……」


 ぼそぼそと呟かれる言葉。待たせているのは以前言っていた『孤独な人』とやらだろうか。

 あの奇妙な扉の前に立った彼女は、息を整えて手をかけた。


 キィ、と微かに木が擦れる音がする。部屋の中は薄暗いくらいで、外と比べれば随分と明るく見える。


「ごめんね、待たせちゃった」

「いえ、大丈夫ですよ。今日も来てくれてありがとうございます」


 男の声……? 落ち着いた、少し掠れたような声だ。この声の主が『孤独な人』だろうか?

 ゆっくりと木の影から出て、扉へと近づく。足音を立てないように、慎重に。


「仕事が終わらなくて」

「お疲れ様です。貴方はとても頑張っていますね」

「……実は今日、仕事を辞めてきたの」


 彼女は部屋に入っていく。ゆっくりと閉じていく扉を、ギリギリで掴む。前のように消えられては困るんだ。

 呼吸を殺し、そっと中を覗き見る。


 ……白と黒だけで構成された、人のようで人ではない何かがそこにいた。

 息が詰まる。あれは一体何だ? 俺は何を見ているんだ……? ここは、どこなんだ?


 あんなものがいていいのだろうか。思わず漏れそうになった声を噛み殺す。口を押さえて、じっと中の様子を窺った。


「私、ずっと貴方と一緒にいたい」

「私と一緒に……?」

「そう。だって一人ぼっちは寂しい……そうでしょ?」


 あの女性は……この異形に心を傾けているのか。

 こんな、明らかに人ならざる者に。


 甘い香りがする。誘うような甘い香りが、強い。

 ハッとして唇を噛む。駄目だ、意識をしっかり持て。きっとあの異形はこの香りで獲物を誘い込んでいるんだ。そうに違いない。


「貴方は私のためにそこまで……」

「私も貴方に勇気づけられてきたから。私の弱音も何もかも受け止めてくれたでしょ? だから……」


 異形の男はゆっくりと両腕を広げる。


「私も貴方が欲しかった……どうか、私に貴方の全てをくださいませんか」


 甘ったるい声で語りかける異形に、女性はゆっくりと近づいていく。


「勿論。断るはずないでしょ……?」


 女性はとても嬉しそうに異形に抱きついた。異形の白い手が女性の頭に触れる。どろりと溶けた腕が、女性の髪を汚した。


「ありがとうございます」


 異形の言葉を皮切りに、とぷんと女性の体が異形の中に沈んでいく。異形はただただ微笑んで女性の頭を押さえ込んでいた。より深く沈めようと言わんばかりに。


「私に全てをくれるのでしょう? 貴方の体も、魂も……全て」


 ……助けるべきだ。そう思っているのに、体が動かない。女性が取り込まれていくその光景から目が離せなかった。

 女性の体が黒に沈んだ分だけ、異形の黒い体の容積が増えていく。まさかアレは人を食べている……?


「……うれ、しい」


 今にも消え入りそうな声で女性が呟く。異形がぴくりと動いて女性を見やる。


「だいすき」


 見開かれた異形の目から黒い液体が流れ落ちる。

 とぷん。と軽い音を立てて女性の体は完全に黒い泥の中へと消えていった。


「……バケモノ」


 震える唇から声が漏れる。気付いた時には、もう遅かった。

 異形の赤い目が俺を捉える。黒い泥が意志を持ったかのようにぐわりと広がり、まるで鞭のように襲いかかった。


 俺は思わず扉を閉じて後ろへと飛び退いた。ダン! と何かが叩きつけられたような音と共に扉が揺れる。

 数秒の沈黙の後、ゆっくりと扉は消えていった。


「な……なんだったんだ……」


 いつのまにか息を止めていたらしい。酸素不足のせいか、あの香りのせいか、少し頭がクラクラする。

 ……いつの間にかあの香りも消えていて、まるで何事もなかったかのような静けさだけが辺りを満たしていた。


 報告、しなければ。

 俺は失踪の瞬間を見たんだ。これは大きな手掛かり……いや、答えじゃないか。


「は……はは……っ」


 乾いた笑いが漏れる。なんという非現実的な答えだろう。まさかあんな怪物のせいだっただなんて。


 俺は逃げるようにその場を離れようとして、ふと気づく。

 脚がカタカタと震えていた。脚だけじゃない。手も、歯までも震えてカチカチと小さな音を立てている。


 ――恐怖だ。


 もしあの瞬間、扉を閉じていなければ。咄嗟に離れていなければ、どうなっていただろう。考えるだけで恐ろしい。


 首を振って嫌な想像を掻き消す。大きく息を吸って一歩を踏み出した。

 これはたんまりと報酬を貰わなければ。あんな危険な存在を垣間見たんだ、それくらいしてもらわないと割に合わない。


 ……もし、この一件で目をつけられていたらどうしよう。エポルにまで事が及んだら?


 バクバクと鳴り続ける心臓がうるさい。

 胸元をギュッと握りしめて息を吐き出す。


「……大丈夫だ」


 見られたのは一瞬。そう、たった一瞬だ。

 俺が誰かだなんて分かるはずがない。そう思っていないと、また手が震えだしそうだ。


 早く帰ろう。早く帰って、エポルの様子を見に行こう。

 今日はとても遅くなると伝えてあるから先に食事を済ませて眠っていることだろう。




 家に帰る。普段は滅多に使わないロウソクに火を灯して部屋の中に入った。

 机に突っ伏す人影が見える。


「……エポル?」


 駆け寄って背に触れる。……呼吸はしているようだ。ホッと息をつく。


「エポル? エポル、起きて」


 肩を揺らすとむにゃむにゃと何かを口走った彼女が顔を上げた。


「んぁ……あれ、兄貴……?」

「なんでこんなところで寝てるんだ……ビックリしただろ」

「んーとね……兄貴が帰ってくるの待ってようと思って……」


 まだ眠たそうなエポルはあくびをして目元を擦る。


「遅くなるって言っただろ?」

「うん、でも心配だったから……」

「……大丈夫だ。だから、ほら。部屋に戻るぞ」


 エポルの手を引いて部屋まで連れていく。少しフラついていて、見ていて危なっかしい。

 部屋に入ったエポルはベッドに入るなり寝息を立て始めた。よっぽど眠たかったらしい。


(やっぱり心配させてしまったな……)


 今までこんな時間になるまで帰らないなんてことはなかった。心配をかけるだろうとは思っていたが、まさかここまでだなんて。


「おやすみ、エポル」


 そっと額に唇を落として部屋の扉を閉める。

 ……テーブルに突っ伏している時は一瞬倒れているのかと思って驚いたが、無事で良かった。


 さあ、俺も早く寝よう。明日は通常任務をこなさなくては。

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