間話 白の話
ぼたり、ぼたりと音がする。
私の命が削れていく音。
どろりと溶けた黒い体が、ぼたりぼたりと床に落ちる。落ちて、広がって、染め上げる。
それをぼんやりと眺めながら、私は遠い記憶を掬い上げた。
あの日。私が道を誤った日。
この牢獄に閉じ込められた私は、ずっと一人で過ごしていた。
痛みも感覚もなく、淡々と少しずつ溶け落ちては小さくなっていく体に怯えながら過ごす日々。
そんな中、私は命を繋ぐ方法を見つけた。
何の因果か時折人間がこの部屋へと迷い込んでくる。
その人間を捕食する。それが私が長く存在するための唯一の方法だった。
若く健康な者であるほど命の残量は増える。それに気付いてからというもの、歳若く健啖な者を誘い込むようになった。
まるで悪魔の所業だ。事実、私には悪魔の血も流れていた。
いくつもの命を取り込んできた。もう、今更だ。
今更なんだ。
それから何年が経っただろう。
時折訪れる食糧以外、話し相手もいない孤独な時間。
薄暗い部屋の中、暇を弄ぶ。
床や壁に何かを記してみようとしたが、途端に虚しくなって掻き消した。
不安や焦燥感のようなものがずっと胸の内で燻っている。
そんな時、彼の声が聞こえたのだ。
『ごめんね、ゼロ』
長らく聞いていなかった、自分よりも少し高い声が頭に響く。
彼の存在を忘れかけていたくらいには、一人きりで過ごす時間が長すぎたんだ。
「なぜ……なぜ貴方が謝るのですか」
『とめてあげられなかった。それをただ悔やんでるんだ』
彼は雫を落とすように、静かに言葉を紡ぐ。
彼らしくもない大人しさに違和感を抱きながら、浮かんだ疑問を投げつけた。
「散々好き勝手してきた貴方が、なぜ」
『ねえ、ゼロ。僕はね、全てを君に返してもいいって思ってるんだ』
「返す? 何をですか」
『記憶。思い出。僕が引き取っていたもの全てを』
引き取っていたもの? 一体、何を言ってるんだ。
私の記憶はもう取り戻している。これ以上、何があるっていうんだ?
「記憶……」
『でも、きっとこれは君を傷つける。それでも今は返すべきだと思ったんだ。今の君には僕しかいない』
覚悟を含んだ、真っ直ぐな声。
いつも笑っていた彼とは違う、真摯な声。
『ごめんね、ゼロ。でも、きっとこれが僕らの救いになるから』
「……ぁ」
瞬間、頭に流れ込んでくる。
懐かしい、遠いあの頃の記憶。
孤独が広がる部屋の中、共に遊んだ透明な君。
そうか。ああ、そうだった。
貴方は私の、初めての友達だった。
孤独を埋めてくれた、初めての。
「キキョウ……あなた、は」
『久しぶりだね、ゼロ』
頬を黒い雫が伝う。
「わ、私は……今まで、貴方に」
『うん』
「あ、あなたに、酷い……ことを……」
震える両手で顔を覆う。とめどなく溢れる雫が指の隙間から滴った。
『いいんだ。それを選んだのは僕だもん』
あまりにも優しい声。
どうして私はこの声をあんなにも嫌っていたのだろう。
彼はずっと私と共にあった。
私を見守ってくれていたんだ。
「は……はは……優しすぎるんですよ、貴方は」
『君の友達だからね』
黒い涙を拭う。温かな声がそっと私を包み込んでいく。
『眠れない夜は僕と話そう。昔みたいに』
そして私達は孤独を埋めようと言葉を交わし合った。
遠い昔のように、じゃれあうように。
もう貴方の姿は見えないけれど、あの頃の鈴のような声ではなくなったけれど。
それでも私達は共にある。
彼との記憶を取り戻してから何度目かの捕食を終えた時、彼は心配そうにこう言った。
『代わろうか?』
「いえ……いいんです。これ以上、貴方に背負わせるようなことはさせたくない」
今まで散々背負ってもらってきた。したくもない役割を押し付けてきたのは私だ。
だからこれからは、私が背負うべきものは私が背負う。
それが彼への償いにもなると、そう信じていた。
彼とならこの孤独も耐えられる。
そう信じていた。信じていたのに……現実はどうも残酷で。
彼の言葉をもってしても、私達の孤独は日に日に積み重なっていった。
十年。五十年。百年。
長い長い時が私達を貫いて、だんだんと交わす言葉は少なくなった。
彼という存在を、他ならない私自身が見失いかけていた。
曖昧な存在をどうにかかき集めて、声をかけて、返された言葉に安堵して。そんな日々をまた何十年と過ごした頃。
……私達の前に、彼が訪れた。
「やあ」
いつからそこにいたのか、それすらも分からなかった。
かけられた声はとっくに忘れかけていた音色をしていて、その姿を見るまで誰かも分からなかった。
毛先をいくつもの色で染め上げた白髪。赤いスーツ。貼り付けたような笑顔。
私をこの牢獄へ落とした、男の姿。
「元気にしていたかい?」
「貴方、は」
ここへ落としたのが彼ならば。ここから掬い上げられるのもまた、彼しかいないのではないか。
そんな考えが頭を過ぎる。
「一体、何をしに来たんです……? まさか」
「おっと、先に言っておこう。帰してもらおうなんていうのは無しだからね」
立てた人差し指をくるりと回した彼は、ずいっと私に顔を近づけた。
深められた笑みが恐ろしいものに感じる。ぞわぞわと背中を虫が這い回るような、そんな嫌悪感。
「ふむ、なんだ。案外上手くやっているじゃないか」
「……」
「だんまりかい? ほうら、貴重な話し相手だろう? もう少し喜んでくれてもいいと思うけどねえ」
顎を持ち上げられる。ニタリと笑った彼は、うっすらと目を開いた。透明だった瞳に、白と黒が混ざり始める。
奇妙な目だ。見た色を映すかのように、常に流動し同じ色にはならない。
再び目を閉じて笑った彼は、私の目に手をかざした。
「まあいい。君がどうしようと僕のやることは変わらないからね」
「何を……っ」
「なあに、ちょっとしたプレゼントさ。退屈の恐ろしさは僕が一番よく知っているからね……どうだい、優しいだろう?」
ズキンと刺されたように頭が痛む。その痛みは一瞬で、すぐに引いていった。
一体何をされたのか。恐ろしいほど何も分からない。私を見つめる閉じた目は相変わらず弧を描いていて、何の感情も読み取れない。
「知っているかい? 世界というものは無数に広がっているということを」
「……突然何を言い出すのかと思えば、思考実験の類ですか?」
「いいや、僕が述べるのはただの事実さ。君は知らないだろうけれどね」
私から手を離した彼は背を向けて、カツリカツリと足音を鳴らして歩き出す。
部屋の中心で止まった彼は、手を緩やかに広げて振り向いた。
「無数に広がる世界の数だけ、その世界に生きる君がいる。気になるだろう? 並行世界に生きる君のこと」
何を言っているんだろうか、この男は。
そんな私の疑問を遮って、男は言葉を続ける。
「だから僕は君にあるプレゼントをしたんだ。並行世界の君が死んだ時、その記憶と経験は全て君に統合される」
「統合……?」
「そう。別世界の君が見たもの、感じた感情、感触、考え全てが君に流れこむ。どうだい、退屈も少しは紛れそうだろう?」
理解が追いつかない。男が話している言葉の意味は分かる。分かるのに、理解することを脳が拒んでいるような感覚。
問いかけようと口を開いたところで、私の思考は吹き飛ばされた。
例えるならば、そう。記憶の乱流。氾濫した水が流れ込んでくるかのような、押し流そうと言わんばかりの情報群。
辺り一面の雲の上、兄に胸を貫かれた瞬間が脳に焼き付く。
頭を押さえ、歯を食いしばる。私ではない私の感情が、記憶が、流れこむ。脳を圧迫されているかのような感覚だ。鑑定眼を使った時でも、ここまでの圧迫感は感じたことがない。
「どうだい? 刺激的だろう? 一人分の人生を瞬間的に追体験できるんだ。感謝してほしいくらいだね」
ああ、頭がくらくらする。処理が追いつかない。
人生を追体験する、だって? これを、並行世界の私とやらが死ぬ度に経験するのか?
何度も、何度も、死の瞬間を追体験させられるだなんて。
「その体になってから君の呪いも意味を成さなくなっただろう? オマケに退屈凌ぎの術も授けてあげた。充分なプレゼントにはなったはずさ。さて、それじゃあ僕はお暇させてもらおうかな」
「ま、て」
全ての元凶。この男さえ、この男さえいなければ。
逃してなるものか。床を這って、腕を伸ばす。
「……まだ何か言いたいことがあるのかい?」
男は無防備にも、私の手を受け入れた。
腕を引っ張る。細身の体は簡単にぐらついて、私の体に沈み込んだ。
「おや、僕を取り込む気かい? 思い切ったことをするね」
男は余裕たっぷりに笑う。何だ、何がおかしい。
私をこのようにした張本人であるこの男が、この意味を知らないはずがない。
なぜ、笑っていられる?
「いいよ、取り込んでみればいい。僕は君の知らない世界で目を覚ますだけだ」
「戯言を……」
「ははっ、溶かされて死ぬのはスライムに食べられてみた時以来かな。アレは中々消化されなくて大変だった。じわじわと骨になる感覚は……まあ、悪くはなかったよ」
気味が悪い。
きっと理解してはならない存在なのだろう。一体この男が何者なのか、考えるだけ無駄というものだ。
じわじわと、男を呑み込んでいく。今までに取り込んできた者達は皆悲鳴をあげていたというのに、彼はくつくつと笑うばかりだ。
「それにしても……君も可哀想な男だ。彼があんな暴挙に出なければ、君も幸せに暮らせただろうに……」
「ソランのことですか」
「あながち間違ってはいないね。ま、彼の本質……魂……そんなところかな」
「それはどういう……」
返事はなかった。ただ、私の命の残量は明確に増えている。今までに捕食してきた誰よりも目に見えて大きく増加していた。
彼の言葉が頭を過ぎる。あの言葉が本当なら、今頃私の知らない世界とやらで彼は目を覚ましているのだろうか。
いや、そんなはずはない。だって今、たしかに私の糧となったのだから。
今でも心から否定することはできずにいる。
私に捕食されることすら楽しんでいる様子を見せた異様さのせいか。それとも彼の言葉通り一生を追体験し続けているからなのか。
それすらも分からないまま、私はぼんやりと黒く汚れた壁を見つめた。
今となっては何十、何百、何千の私が私の中にいる。
どれが本当の私なのかも曖昧になっていく。
唯一の話し相手だった彼の言葉はとっくに届かなくなった。その代わりに、私ではない私の声が頭に響くようになって。
彼らは懸命に死の恐怖を叫び続ける。今も、尚。
……ああ。私はあとどれだけ、ここで生き続ければいいのだろう。




