人格矯正センター 二
霧深い街だった。
幼いグレイゴーストは、一人、自由に地面を滑っていた。
街に、ほかの住民はいない。
いや、少し前までいたのだろう。みんなロープに吊り下げられている。しかも自分の意思でやったのではなく、他の誰かにやられたようだ。
グレイゴーストだけが生き延びた。
俺が街に足を踏み入れると、彼女はすさまじい勢いでやってきて、目の前でピタリと止まった。
「あら、意外な人物のご登場ね」
仰向けのままそんなことを言う。
見た目は子供だが、髪がバサバサなのは相変わらずだ。
「君を助けに来た」
「ヒーローみたいな口ぶりじゃない? けど、助けは要らないの。私はこの街が大好きだもの。見て、重力がすべてを引っ張っているわ。私だけが自由ね」
「……」
そうだ。
彼女だけが自由だ。
残りの住民は、全員、重力のせいで命を落としていた。
「なにが起きたんだ?」
「言いたくないわね」
「教えてくれないと救えない」
「救って欲しいなんて頼んでない。もう帰っていいわよ。私はここで永遠に泳ぎ続けるから」
ウソだ。
もし本当にそう思うなら、俺と会話なんてしていない。無視してずっと泳いでいればいいのだ。
どいつもこいつも、助けて欲しいときにウソを言いやがって……。
「力づくでも連れていくぞ」
「私と戦うの?」
「そういうつもりはないけど……」
「体に機械の血を入れたのね……。そうなると、もう、あなたは神の敵よ」
「敵か味方かを、血で判断しないでくれ。俺たちは協力できるだろ」
人間、神、機械――。
そもそも、どいつも対立する必要はないのだ。
相性が悪いなら、悪いなりの共存方法がある。嫌いだからって排除しなくていい。どこかで折り合いをつけられる。
彼女はふっと笑った。
「一理あるわね。むしろ同じ血を持っているほうが厄介よ。些細な違いを見つけて争い始める」
「一緒に行こう」
「行けないわ。この街は、私のせいで滅んだの。見届ける義務がある」
「虚構の街だ」
「虚構でもいいの。ここは私の街」
そうだ。
虚構だと分かっていても、どうしても、その場に縛られてしまう。
俺もあの山の中で、幼少期の感覚を強制的に蒸し返された。背中に冷たいものが走った。いろいろな関係性が、ブチブチと音を立てて切断されたのを思い出した。
親子だって所詮は他人。気に入らなければ捨てる。その程度の存在が大人を名乗り、子供に生き方を命令している。
人生が、この世界が、心底どうでもよくなった。
だが俺は、同時にこうも思った。
どうでもよくなったのは、あくまで、それまで刷り込まれてきた常識だ。この世界には、刷り込まれた常識以外にも、様々なものがある。なにかを新しく始めるなら、いい機会だと思った。
俺が、俺自身の意思で、俺にとって「大事なもの」を集めるのだ。
どうでもいい大人が勝手に刷り込んできた常識じゃない。
すべてを俺の判断で取捨選択する。
「グレイゴースト、君は新しい街を作る義務があるぞ」
「えっ?」
「この街は、まだどこかに実在するんだろう? そこに新しい街を作らないか?」
「興味ないわね」
本当にないかもしれない。
俺の提案はバカげている。
「まあ、なんでもいいんだ。今日いきなり乗り込んで来て、あんたの問題を解決できるとは思ってない。俺にはそんな能力もないしな。ただ、俺もいろいろ……抱えてて。だけど前に進もうとしてて……。とにかく、みんなの力が必要だと感じた。きっとあんたにも仲間が必要じゃないかと思って。余計なお世話だったら悪いけど」
「……」
空を見つめている。
灰色の空を。
彼女は、やれやれといった様子でこちらを見た。
「あなた、仲間が必要なの?」
「そう」
「私でも役に立てると思う?」
「もちろん。他の誰もが持ってないものを、あんたは持ってる。ま、欠けてるところはあるかもだが。それは俺もそうだ。みんなそうだ」
「そうね」
彼女は、ゆっくりと身を起こした。
それから振り返り、目を細めて街の様子を見た。
はるか遠くの景色を眺めるような目で。
グレイゴーストは弱々しい笑みを浮かべた。
「私たち雑種には、二つの未来しかなかった。人間の子供を産むか、箱に挑む戦士になるか」
それは前にエルザから聞いたかもしれない。
彼女は呼吸をして、こう続けた。
「私が十三になったときも、神に選択を迫られたわ。けど、私はどちらもイヤだと言ったの。そしたら揉めてしまって、やがて周囲まで巻き込んで、大きな叛乱に発展してしまった。大人たちは、自由を手に入れるんだって意気込んでた。だけど殺されたわね。生き延びたのは、逃げ足の速かった私だけ……。帰ったら、みんな吊るされてた」
いま目の前に広がっている景色だ。
彼女が発端となって起きた争いだったが、生き延びたのは彼女だけだった。
俺は返事もできなかった。
「私、神に会ったら絶対に殺すんだって思ってたのよ。けど、できなかった。私たちは神の加護を受けている。それは神の支配下にあるということ。最初から勝負にならないの。逆転するには、機械を使うしかない。けれども、そのその機械にさえ負けてしまった。私は、なにも成し遂げられなかった」
「まだ終わってない」
「もしここを出たら、私は神と戦うわ。あなたにその覚悟があるの?」
「それは、ない」
ウソはつけない。
彼女も満足げな表情だ。
やや不気味だが、にぃと笑みを浮かべた。
「そうね。私にもないわ。きっと戦えない。神には、憧れているから……。皮肉よね、自分を苦しめた存在に憧れ続けるなんて……」
「分かるよ」
小さいころ、俺は父親みたいになりたいと思っていた。
理由は分からない。
きっと、ただの刷り込みだろう。ほかに参考にできそうな大人がいなかった。だが、刷り込みだと分かっていても、あらがえないものがある。
いまとなっては、あんなのになりたいとは微塵も思わないが。
グレイゴーストは、幼い顔立ちに似合わず、疲れ切った顔を見せた。
「じゃ、行きましょう。特にやりたいこともないけど、あなたには私の力が必要みたいだし」
「ここでひとりで泳ぐのも飽きたんじゃないのか?」
「それは飽きてないわね」
ウソでもいいから同意して欲しかった。
*
気がつくと、俺は鉄塔にいた。
いや、最初からいたのだ。意識が戻っただけだ。
ドアが開き、中からふらふらとグレイゴーストが現れた。
「ずっと座ってたせいか、体が重たいわ。重力なんてなければいいのに」
「まったくだ」
俺も体が重い。
ともあれ、グレイゴーストは解放された。
タワーは彼女の矯正を放棄したのだ。
その代わり、俺はだいぶ消耗した。
しかも自分のチームメイトを差し置いて、別のチームメイトを助けてしまった。
ここで伊東健作を助けておかないと、ずっと後回しにしてしまいそうだ。
「あんたは座っててくれ。俺は別の仲間を助ける用事がある」
「少し休んだら?」
「休んだら、きっともう二度とやりたくなくなる」
俺は伊東健作のモニターに触れた。
*
「オラ、伊東! しっかりしろ! グラウンド一周追加!」
涼しいところで座っている若い顧問が、やたら大きな声で怒鳴りつけていた。
炎天下、高校生の伊東健作は、ひとりでグラウンドを走り続けていた。
泣きながら、転びそうになりながら走っている。
俺がグラウンドに現れると、伊東健作は大きく目を見開いた。だが、それでも走るのをやめない。
よほどトラウマになっているらしい。
先輩部員が「オラ、足止めるな!」と威圧する。
俺は思う。
これは上下関係を超えている。
先輩だからといって、後輩の精神を殺していいわけがない。こんなのはチームメイトに対する扱いではない。原始的なピラミッド構造だ。
後輩も後輩で、なぜ従ってしまうのか。
人生を豊かにするための部活動で、人間性までぶっ壊されていいわけがない。
俺は金属バットを拾い、まずは顧問に近づいた。
そいつは俺のことなど見ていなかった。視界にあるのは、あくまで「教育対象」である伊東健作のみ。俺が正面に立っても、邪魔そうによけてグラウンドを見ている。
余所者に興味はない、ということだ。どうせ外部の人間は干渉してこないと思い込んでいる。
俺は金属バットで、その男の頭部をフルスイングした。
おかげでひとつ静かになった。
続いて俺は、先輩部員を、ひとりずつフルスイングしていった。
もっと静かになった。
ここは精神世界だ。
精神を殺そうとするものには、相応の体験をしてもらわねばな。
もっとも、彼らはあくまで伊東健作の「脳内」に存在する顧問や先輩である。実在の人物へはなんらのダメージも与えていない。セーフだ。たぶん。
「伊東さん、帰ろうぜ。こんなの間違ってる」
「和田さん! マジかよ! 助けに来てくれたんだな!? 俺、ずっと走らされてて……もうダメかと思ったよ……」
おおう。
彼はどちらかというと、ここから出たがっていたクチか。
なら話は早い。
「こんな無法な命令、聞くこたないぜ。死んじまったら野球もできないだろ。部活で殺されてたら世話ない」
「でも、俺ら野球に命かけてるところあったし……」
「それは尊重するよ。けど、ここにはスポーツ以外の要素が多すぎる。選手を潰すようなことがさ。アメリカのスカウトマンは、日本の高校球児を見てガッカリするんだとよ。せっかくいい選手を見つけても、すぐ故障しちまうって。おかしいんだよ。こんなすり減らすようなやり方。人はスポーツで不幸になるべきじゃない」
死ぬ気でスポーツに打ち込んだこともない俺が偉そうなことも言うのもなんだが。いや、岡目八目という言葉もある。
伊東健作は肩で息をしながら、不安そうな表情を浮かべた。
「やっぱりそうかな……。なんか俺の野球人生を否定されてる気もするけど……。でも、まあ、俺もそんな気は……してたかもな……」
「ここを出よう。また野球できる」
「もう野球はやめたよ」
「悪い」
自分勝手なクソ野郎という印象しかなかったが、かなり野球に賭けていて、あらゆる価値観をそこに委ねていたことが分かった。そして野球をやめたあと、部活の価値観だけが残された。
野球そのものが悪いんじゃない。彼の所属していた野球部が、大事ななにかを置き去りにしていただけだ。他のスポーツでも、いや運動部でなくとも、似たようなことは起こる。
伊東健作は溜め息をついた。
「いいよ。俺はやめたけどさ、経験を誰かに伝えるくらいはできるかもしんねぇし」
彼はギラついた太陽を見上げ、少し笑った。
*
意識が塔へ戻ってきた。
素直に救いを求めていた伊東健作は、比較的簡単に救い出せた。
「ど、どこ行くんだよ? 置いてくのか?」
「あんたはそこにいてくれ。次の仲間を助ける」
俺は伊東健作にそう告げると、すぐに移動を始めた。
足を止めるわけにはいかない。
いま軽く混乱している。
混乱したままじゃないと、たぶんこっちが壊れる。
*
東雲藍の部屋を見つけた。
彼女のトラウマは、試練の最中。
どうやら戦いに貢献できていなかった彼女は、前のチームのメンバーからひどい扱いを受けていたらしい。食事をとることを禁止され、殺した獣の肉を食わされていた。
だからナイフとフォークを手にしていた、というわけだ……。
これなら金属バット方式で解決できそうだな。
力こそパワー。
好きな方法ではないが、戦術として有効なら使う。
使わないことによってより不快な状況になる場合は特に。
(続く)




