篭絡
どっと疲れがきた。
戦いに参加もせず、立ち話をしてただけなのに。
前もこんなことがあったな。
ともあれ、俺は大杉一に報告しようと思った。なのだが、ずっと愚神に腕をつかまれたままだった。異様にむにゅむにゅしている。食い散らかしたい。
「人間ちゃん、ちょっと二人きりでお話ししましょう」
「断る」
「ううん。違うの。拒否権はないの。来て」
「はい……」
もし乱暴に突き飛ばしたりしたら、俺にダメージが返ってくる。
突き飛ばすだけならいいと考える人もいるかもしれないが、もし体勢を崩して頭を打ったりしたら、命を落とす。落とさなくても後遺症が残る。
*
雑居ビルの中の、オフィスに誘い込まれた。
デスクと椅子が並んでいる。
働いている人はいない。
音もない。
ただ、がらんとした空間だ。
もう夜だが、外からは月明りが差し込んでいた。
景色が青白い。
「ご用というのは?」
つい、たわわ過ぎる肉に目が行ってしまう。
話に集中できないから、普通の格好をして欲しい。
愚神はもじもじしていた。
「言ってもいい?」
「できれば簡潔に、そして速やかにお願いします。こっちは夕飯もまだなんですから」
誰かさんのせいでな。
早くしないとチキンがさめてしまう。
「人間ちゃんにお願いがあるの。今日、あっちのチームで見たり聞いたりしたこと、誰にも言わないで欲しいなって……」
こちらの態度をうかがうように、上目遣いでそんなことを言ってくる。
このラードめが……。
「言われたらなにか困るんですか?」
「困るの。だから言ってるの」
「困る? へえ。なるほどね。けど、もしかすると知らなかったのかな? じつは俺ら、もっと困ってるんですよ。こんなところで命のやり取りを強制されて。なんとか生きる希望を見つけようと必死なんだよなぁ……。なのに、困る? なにがどう困るって? 俺たちより困ってるって言うんですか?」
「そうなの」
俺が長々と説明を求めたのに、「そうなの」で済ませやがった。
クソデカい溜め息が出た。
「なにがどう困るのか、ご説明願えますか?」
「でも……」
「でも?」
理由だ。
それを言ってくれないと、判断できない。
なのだが、彼女は怒ったようにこう言ってきた。
「人間ちゃんのためを思って言ってるのよ?」
「はい?」
「難しいこと考えないで、私の言う通り試練を乗り越えて欲しいの」
「考えるなって? それはムリですよ。いや、不屈の精神で思考停止できる人間もいるかもしれないけど、俺はそういうタイプじゃない」
「代わりに、してあげるから」
「はい?」
「気持ちいいこと、してあげるから」
気持ちいいこと?
それはつまり……。
彼女は膝立ちになった。
「ほら、脱いで」
「はぁ? いや、待ってくれ。その手には乗らない。もしあんたの誘惑に乗せられたら……子供ができて、そいつもこの戦いの駒にされるんだろ? もう、なにもかも分かり切ってるんだ。全部あんたらの戦いの都合だ。バカにしてもらっちゃ困る」
そうだ。
こいつらの手口は明白。
子供さえできてしまえば、俺の命だってどうでもいい。子供は、人間と神の両方の特質を得る。適性があれば戦いに投入されるし、そうでなければもう少し薄められて使われる。
すると彼女は言った。
「赤ちゃん作らない方法でするから」
「えっ?」
「ねっ?」
いま、なんと?
赤ちゃん作らない方法?
「……そんな方法、あるの?」
「うん」
彼女は愉快そうに目を細めながら、ぺろりと唇をなめた。
ぷるぷるしている。
*
完全に敗北した俺は、消沈したままロータリーへ戻った。
まさかあんなにあっけなく篭絡されるとは……。
人間の意思は、弱い。
俺はさめきったチキンを手に取り、バス停のベンチに腰をおろした。
あのラード女が、あんなに献身的だったとは……。しかも顔がいい。髪もサラサラだった。彼女の頭部は、なでるのにちょうどいい形をしていた。
満足感も度を超すと虚脱感に変わるらしい。
肉を持ったはいいが、食う気になれなかった。
しばらくはなにも考えられない。
カップを手にした大杉一が近づいてきた。
「ずいぶん入念に打ち合わせしてたようだな」
「えっ? ああ、まあ……」
さっそく動き出したか。
情報を共有するという約束だった。
だが、俺はいまから、この男にウソをつかねばならない。
一時的な快楽の代償として。
ハナから愚神の術中だったのだろう。
俺は戦の神のところで歓待を受けられなかった。
鬱憤が溜まっていた。
人は常に警戒しているのでない限り、刹那的な衝動に敗北することがある。いまの俺がそれだ。虚を突かれた。
「で、どうだった? なにか重要な情報は手に入ったかな?」
「いえ、それが……」
言いたいが、言えない。
本来ならこの男に情報を提供して、作戦を立ててもらうのが一番なのに。
それがもっとも有意義なことなのに。
俺が口ごもっていると、彼も察したらしい。
にわかに苦い笑みを浮かべ、こう言った。
「だいぶお疲れのようだな。急かして悪かった。あとで余裕のあるときにでも聞かせてくれ」
「すみません」
去り際の表情には、失望の色が見て取れた。
俺は恥ずべき人間だ。
自分で思ってるほど立派じゃなかった。
所詮は動物。
自分たちより知的な動物がいないのをいいことに、まるで頂点に立ったと錯覚したサルだ。なにが万物の霊長だ。
俺はいままで、ハシタ金に負けるヤツをバカにしていた。
盗みをするヤツをバカにしていた。
たかだか数万で人生を棒に振る人間を見て、サルかよと思っていた。
そういう連中には、人として最低限の資質さえ備わっていないのだと。
だが、俺は女に負けた。
誘惑に負けたという意味では同じだ。
快楽、金、虚栄心、承認欲求、マウント……。
なんでもいい。
感情のコントロールに失敗した。
ただ失敗しただけならまだいい。
俺は、仲間にウソをつくハメになった。
*
数日後、俺たちの戦いの日が来た。
雰囲気は最悪だ。
伊東健作は相変わらず俺を睨みつけてくるし、大杉一も俺のフォローに入ってはくれなかった。いまだに口を閉ざしている俺が悪いのだが……。
もちろん愚神は介入しない。自分のチームなのに、状況を改善しようという態度すら見られない。人間ちゃんが勝手に頑張ると思っている。
「今日も重力がキツいわね……」
転移門でやってきたグレイゴーストも、この雰囲気には渋い顔を見せた。
だが、こういうときに、空気を変えるものがいる。
「和田さん、こないだはごめん」
五味綺羅星だ。
うつむいてベンチに座っている俺のところへ来て、いきなりそんなことを言い出した。
「えっ? いや……」
俺はついしどろもどろになってしまった。
どの件かは分かってる。
俺は彼に火薬を使わせなかった。
理解できないような小賢しい説明で、けむに巻いた。
「僕、よく考えたんだ。そしたら、和田さんの言ってることが正しいって思って」
「いや、俺もよくなかったよ。もっと分かりやすく対応すべきだった」
すると彼は、ぱっと表情を明るくした。
「よかった。僕、嫌われてるのかと思っちゃった」
「そんなことないよ。ずっと悪いことしたなって思ってたんだ。本当はこっちから謝るべきだった」
「じゃあ、仲直りでいい?」
「いいよ。これからもよろしくね」
「うん」
まっすぐでいい子だ。
いまの俺には眩しすぎる。
自分という人間の恥ずかしさが際立ってしまう。
ところで、今回、俺は特別な準備をしていなかった。
前回と同じ装備だ。
いや、罠を設置していない分、前回より弱くなっている。
このまま戦いが始まったら、また負けることになると思うのだが……。
*
それでも日は暮れてしまう。
「春はいい。普通、誰もがそう考える。花粉症でない限り。ただ永遠に続くとなると、話は別だ。人は季節にすら飽いてしまう。すなわち、地球が太陽に振り回されることを前提として、この体はできていると言っていい」
今日もまた大杉一が意味不明な言葉をつぶやきながら、指差し確認する。
俺はある種の後ろめたさから、彼に声をかけられずにいた。
チームワークにとってマイナスでしかないのだが。
すると、そんな彼のもとへ、東雲藍がじりじりと近づいていった。
「あ、あの、ごめんなさい。ちょっといいですか?」
「どうした? 珍しいな」
「ごめんなさい。その……このままやったら、私たち、また前みたいに負けちゃうかもって思って、どうしても不安になっちゃって……」
その不安を口にできるのは勇気だ。
いまの俺に欠けているもの。
大杉一はにこりと笑みを浮かべた。
「じつは、策があるんだ」
「え、ホントですか?」
「もしよければ、みんなにも手伝ってもらいたいんだけど、いいかな?」
「は、はい! 私にできることなら、なんでも!」
*
大杉一の提示した作戦は、悪くない内容だった。
敵の人影は足が遅い。
だから火を使う。
火をつけても、こちらへ突っ込んでくることがない。
具体的にはこうだ。
敵の侵入ルートは分かっているから、ガソリンをタンクに満たし、しかるべき場所に設置しておく。
これに引火させて一網打尽にするわけだが……。
着火の方法が少々派手だ。
道端にある自動車を借りて、サイドブレーキを外し、敵陣へぶっ込ませる。もちろんこれにもガソリンを積んでおく。
よきところで火矢を放つ。
敵への足止めとして、前回俺が用意した罠も使う。
つまりプランターなどで道に傾斜をつけて、一か所に集まりやすくする。
いや、きっとこの作戦に俺の罠はいらない。
だが、俺の顔を立てるために、あえて作戦に組み込んでくれたのだろう。
前回、敗北したこともあり、みんな作戦には協力的だった。
死ぬのは本当にイヤな経験だが、こうして誘導しやすくなるなら、戦術に組み込むのもアリかもしれない。
今回、肉弾戦はない。
俺の役割は、五味綺羅星と一緒に自動車を押すことだけ。
「人間は火を使うのね……」
せっかく参加したグレイゴーストも、特に出番はない。
すねているのか、足元でビチビチ跳ねている。
まるで魚だ。
人間でも神でもない。
「グレイゴーストさんよ、人間やめたっていうのネタかと思ったら、ハナから人間じゃなかったんですね」
俺がそう言うと、彼女はピタッと動きをとめ、ねっとりとした視線でこちらを見つめてきた。
「ネタ? かなり悩んで出した結論なのに?」
「えっ?」
「あなた、もし同じ境遇だったら、自分をなんだと考えるワケ? 神からは神じゃないと言われて、人間からは人間じゃないと言われる……。だったらなんなの? 言ってみなさい! あんまりカマしてると重力で縛るわよ」
「ごめんなさい」
ネタじゃなかったらしい。
暇つぶしにする話じゃなかった。
彼女はのけぞってブリッジをした。
「この手の傲慢には怒りをおぼえるわね……。自分が何者なのかを考える必要がないっていうのは、もうほとんど暴力よ。悔い改めなさい」
「ホントにごめんなさい」
「ついでに人間もやめなさい」
「それはムリだけど……」
どうやってやめるのか知りたいくらいだ。
いや知りたくない。
どうせロクな方法じゃないだろう。
*
戦いは圧勝だった。
というより、燃え盛る炎を眺めているうちにすべてが終わった。
「ちょっと火力が高すぎたかな」
大杉一はそう言って笑った。
赤々とした炎が街を焼く。
高熱にあぶられたビルは内部にまで引火して、炉のように火を噴いている。
朝まで消えそうにない。
それにしても――。
この「演習」で使った方法が、「実戦」で役に立つのだろうか?
なんなら第三の試練で通じるのかさえ怪しい。
なにかがズレている気がする。
俺たちはまだ、戦うべき敵をこの目で見ていない。
偽物の敵に、偽物の戦術で応戦している。
日々、精神だけが削られてゆく。
俺たちは、いったいなにをさせられているのだろうか?
戦の神は、おそらくなにも分かっていないだろう。
我らの女神は……じつはなにやら考えがあるらしいが、真意は不明。
長老会議とやらは?
神にもいろいろいる。
きっと賢いヤツがいて、なにかプランを考えているはずだ。
協力し合えればいいのだが、ヤツらは俺たちを駒としか見ていない。
ゆえに上から下へ、組織はトップダウンでしか機能しない。
俺たちの知見などどうでもいいのだ。
どうせ使われるなら、頭のいいヤツに使われたい。
ノープランで振り回されるのだけはごめんだ。
(続く)




