2話 生への実感
電子の海を漂って、前方にある光へと向かっていく。抜けた先には、まさしく“世界”が広がっていた。
「うわぁ。素敵だなあ」
ぐるり、と視線を一周させる。辺りにはログインした多くのプレイヤーたち。様々な姿形で、様々な反応を見せている。
飛び跳ね、叫び、抱擁し、ハイタッチを交わす。色とりどりの髪、多様な種族。人種として明らかに違った人々が、一つの事実に喜びを共感しあっている。
「サービス開始か。お祭りだ」
彼らの熱気によって、夜の街は騒々しい事この上ない。
それを遠くに眺めて。
「すごいゲームなんだな」
改めてそんな事を思う。彼等彼女等は、どう見たって実在していて、本物だ。そうとしか感じない。
ニュース番組はこのゲームの話題ばかりで、それはネットニュースも同じだったらしい。妻が知ってるくらいなんだから当然だろう。
ああ、妻に感謝だ。俺のせいで苦労ばかりをかけてきた。彼女にとって、この数年は地獄そのものだったろう。
思いやりが強くて、優しくて、娘たちを愛していて、家事が苦手な妻。どういう気持ちでこのゲームと端末を買ったのだろう。
「洗濯、上手くなったかな?」
家じゃ洗濯は俺の役割だった。妻は整理整頓というものが苦手だから。じゃあ俺はどうかと言えば、好きでも得意でもない。ただ、雑多に干された衣服を見るのが嫌いだった。
整理は良い。機能的かつ効率的に。そういうのが好きだ。
けれども、無秩序なのも好きだったりする。だからこそ美しい物事もあるから。その代表は星だろう。
「すんごい……」
夜空を見上げて言ってみる。煌めきでもって地上を照らす星々の美しさに鳥肌が立つ。
星ってやつは素晴らしく良い。どこまで行ってもランダムで、だからこそ法則性や規則性を探したくなる。見つめていると吸い込まれそうで、なのに離れて行くようで。とてもとても不思議めいた感覚に囚われる。これが好きだったりする。
「森羅万象で、三次元空間で、天地創造だなぁ」
これが仮想現実? または拡張現実。若しくは複合現実。或いは異世界。なんでも良いけど、人間って奴はとうとう世界創造に成功したらしい。
リアルだとかアンリアルだとか、そういった事はどうでもよくなる程に、ただひたすらに美しい。
空だけじゃない。肌に触れる空気感だって夜そのものだ。
「とりあえず、行ってみますか」
探検、冒険、つまりは旅に。
せっかく五体満足で動けるんだ。使ってやらなきゃもったいない。試したい事だってたくさんある。
「まずは身体能力。次に精神。そんで、世界」
言葉にすればこれほど簡単なのに、確認手段を整理できない。踏むべき手順は見えているのに、辿るべき道筋が明確じゃない。
「くふふ、良いね」
ワクワクする。要介護者になってからは感じなかった高揚。だからこそ、どのように把握すべきか分からない。当然か。スポーツマンでも無ければそんなこと意識すらしないだろう。
「スポーツマンか……らしくないね」
だから、俺は俺らしく行こう。じゃなきゃ妻に申し訳が立たない。
目の前にある門へ。ファンタジーを隠しもしない造りと、その前に仁王立ちする数人の門番。
外へ出る旨を伝えれば、幾つかの忠告が返ってくる。夜は生き物が凶暴化するだとか、夜間は割符を所持しなきゃならないだとか。それ等を聞き流して、外へ。
目の前には広大な草原。恐らくは誰も居ないであろうそこを、一人であてもなく歩いて行く。
靴底に伝わる感触は草そのものであり、僅かに残った記憶を強烈に刺激するものでもある。
「ほんとに、これ、仮想現実なん?」
流れる風、なびく草、奏でられる音、青々とした匂い、何処か遠くから発される生き物の気配。どれを取っても現実以外の何物にも感じられない。
とんでもない技術だ。
「――と、感嘆するのはここまでにしよう」
世界が、より世界らしくある。俺にとって重要なのはそれだけだ。ポリゴンチックな世界を旅したって興醒めしてしまう。
「で、俺はどんな奴かな?」
自分を見つめてみる。防具らしきものは無く、野暮ったい革の衣服に、革手袋と革靴。左の腰には、刀。
「うわぁ、嫌だな」
近接武器は避けたかった。弓か、最悪でも槍が良い。名前としても弓だろうに。
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ヘラ:人間Lv.1:開拓者Lv.1
スキル:【刃物の心得Lv.1】【空間認識Lv.1】
【肉体操作Lv.1】【洞察Lv.1】
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「先天的才能は見られないのか」
さて。ランダムに選択されたスキルにしては上等だ。能力についての説明文から受ける印象としては悪くはない。最高とも言える。何よりも職業が素晴らしい。
開拓者。世界を旅するには最高じゃなかろうか。他にも魅力的な職業があったけれど、俺の目的に沿うものとしては一級だ。
まあ良い。走ろう。
音を立てて草原を駆ける。飛び跳ねるようにして、または転がるようにして。
身体を駆使することが楽しい。息苦しさを感じることが嬉しい。俺は今、生きている。
「暗、いな」
乱れた呼吸をさらに乱すべく、言葉を吐き出していく。来い来い、生きている実感。
「見え、ない、なぁ」
視界が効かない。当然だ。街からは随分と離れたし、光源は夜空に浮かぶ星の煌めきだけ。
でも、だからこそ、その気配を明確に感じとる。
敵だろう。戦いは嫌だ。戦える自信もないし、強くなりたいとも思わない。
けれども世界を旅するための力は必要になる。だったら早めに慣れてしまおうか。
停止。目を閉じる。どうせ見えやしないんだ。スキルの一つである“空間認識”へと語りかけるようにして。
ザ、と。右側から気配が飛び出して来る。自分の周囲をぼんやりと、けれども逸脱した感覚にて捉える。
抜刀、難しい、硬い。鯉口を切るのにはコツが要ると聞いた記憶がある。リアルだね、さすがだ。新世界創造を謳うだけはある。
「えぇと、確か親指で押すように――」
「グラァアア!」
顔のすぐ横に、涎を撒き散らす大きな口。敵はどうやら狼らしい。
「――あっ、ぶないッ」
すっ転ぶようにして躱してみる。上手くいったのか、どうなのか。
攻撃はあたらなかったけど、体勢としちゃ最悪に近い。尻餅をついてるなんて、敵からすれば格好の的だろう。
「ガァアア!」
ほら、すぐに飛び掛かって来る。
「抜けてくれない?」
刀に言ってみる。応えてくれる筈もないけれど。
なら、腕くらいは差し出そうか。
「ガブリッ!」
敢えて左腕を前に出し、咬まれる瞬間に自分から叫ぶ。言葉にすれば精神を安定させ、事態へ臨む覚悟を持てたりする。
「――いっ、てぇ!」
まあ、痛いことに変わりないんですが。だから、かなり、むかついたぞ!
感じる重さに脚が震える。狼の毛は一本一本が繊細なまでに描写され、逆立ち、風に揺らぎ、野性の匂いを発している。牙の黄ばみや出血の表現まであまりにもリアルだ。ついでに痛みも。
繰り返しになるけれど、すごいな、仮想現実。
「とう!」
がつり、と敵の喉らしき場所を殴り付ける。おまけで腹への膝蹴り。のし掛かる重量から解放され、敵との距離が生まれる。
「で、視えるかな?」
スキルの“洞察”さんに聞いてみれば、突き刺さるような刺激が全身の皮膚に走る。
ふん? やはり敵を見抜くには看破スキルが必要になるか。でもまあ、この感覚。確実に格上だろう。
「だよな、狼さん?」
5メートルほどの距離を置いて唸る黒の狼。大型犬より少しばかり大きいだろうか。はっきりとは見えないけれど“空間認識”がそう言っている。
左手から走る猛烈な痛みに、どうしてか笑いが漏れる。ああ、しまった。痛覚レベルを落としてない。
「いや、100パーでいこう」
じゃなきゃ身体を駆使する意味もなく、十全に扱う意思力も生まれない。
ふぅ、と。目を閉じたままで深呼吸。この際どうだって良いんだ、敵がどう動くかなんて。
初動は“空間認識”が教えてくれるし、暗闇の中で対処できる速度じゃない。先に動かれたら死ぬだけ。だったら、自分に潜って、自分を研ぎ澄ませた方が良い。
「次こそ抜こうか」
右手で柄を握り込み、鍔に左手の親指を強くあて、押し出す。左腕から血が流れ出るけど、それも楽しむようにして。
音もなく、抜刀。
「おお?」
こんなだっけか? 抜刀って、音が鳴るイメージだけれども。
「いや、これが正しい」
スキルである“刃物の心得”がそう告げている。なら――。
「行こうか」
前進。肉迫。姿勢を低く。左手に持った鞘を突き出す。速さは求めず、視界を塞ぐようにして。
同時に右手の刀を軽く振るう。狙いは前脚。右を狙ったつもりだが、そう上手く振るえる筈がない。この際どちらでも良いさ、中ってくれれば。
草原に響く弱気な悲鳴。狼くんの前脚二本から血が流れている。手に残る軽い痺れから、腱のようなものを切断できたと判断。だとしたらラッキーだ。
実際に転がっているしね。
「さてさて、動けなきゃただの肉塊だ」
刃毀れに注意しつつ、ざくりと。連続で。ひたすらに。
なんと言うべきか、浴びる熱い飛沫に感じるものがない。届く臭いに不快感が生まれない。
心のどこかでゲームだと割り切っているのか、長い寝たきり生活で心のどこかが壊れたのか。
ま、良いでしょう。まずは勝たなきゃ始まらない。一戦目で死に戻るのは楽しくない。
だから。
「きみが死んでくれ、狼くん」




