94話 極致へ至る
喉が渇いた。腹が減った。
清らかな水の音が聴こえる。脂を垂らして焼ける肉の香りがする。
幻聴で、幻嗅だ。水も肉もどこにもありはしない。
ゴクリと鳴る喉、味覚を求めて動く舌、ナニカを探して蠢めく眼球。感覚ばかりが鋭くなって、だからこそ渇きと空腹を過敏なまでに感じ取る。
思考するだけで精一杯だ。
「どうした。突っ立てってるだけじゃ殺しちまうぞ」
闇の中から響く男の声。ひどく冷たくて、命を踏みにじることに抵抗がない声。その声は痛みを引き連れて来る。その声は暴威を伴う。そして、命を奪おうとする。いつもいつもだ。
「行くぞ」
声が迫る。声の先端から刃が飛び出す。鋭いそれがこの身を削る。
躱す。受ける。そう、出来ているはずだ。だがまともに戦えているかどうかなんて分からない。さらに言うのなら、自分が立っているかどうかすら分からない。
なのに。
――行け!
別の声が聴こえる。
――戦え!
身体の中心。ずっとずっと深い場所から。
二つの声に混じって、ヒュ、ヒュとおかしな音が聴こえる。迫り来る刃が鳴らしているのかと思ったが、どうやら俺の口から異音が漏れているらしい。
鍛錬を始めてどれくらい経ったのだろうか。肉体は限界だった。精神も追い込まれていた。痛みと疲労、口渇と空腹に蝕まれている。今の現在もだ。
どうして動けているのだ、こんな状態で。活動限界ラインなんて越えてるはずだ。これだけ苦しまなきゃならないのなら、むしろ動けない方が良い。
もしかしたら夢か? そんな事を考える。そうして気を抜くと、全身に走る鋭い痛みが現実だと主張する。何度かのアップデートによる活動停止が意識の曖昧さに拍車をかけていた。
もう無理だと考えているのに。もう動きたくないと思っているのに。先へ進めと叫ぶ自分もいる。
――妻や娘達に誇れる人間になるんだろ?
ああ。ずっと前に、そう決めたかもな。
――苦しみには慣れてるだろ?
確かにな。何年も何年も苦しんだから。
過去が未来を象る、なんて言うけれど、あれは本当なのかもしれない。どれだけ嫌なことも、どれだけ辛いことも、結局は今の自分を確かなものにする一部だ。
だから、前へ。
無様でも情けなくても、そうすると決めたじゃないか。
「てめぇッ、どこまで成長しやがる⁉︎」
声が愉しげに叫んでいる。成長? してるのか、この状態で。
「よし、今日は終わりだ。……おい、聞いてんのか?」
終わり? それを決めるのは俺だ。行かなければ。前へ、前へ。止まらず、挫けず、とにかく突き進め。
斬って、斬って、切り開け。己の未来を。
「この、野朗! 調子に乗るんじゃねえ!」
衝撃。刃物によるものではない。硬いナニカだ。それも連続で。
これはアレだ。ボコボコにされるってやつだ。こんなのいつ以来だろうか。と言うかいつまで殴られるんだ、これ。そろそろ死ぬぞ?
てめぇの体、どうなってやがる? 声はそう言って、激しい呼吸をぶつけてくる。鼻面に当たるそれが、まだ生きていることを確認させる。
運ばれてきたパンをかじり水をすする。口を開ければ唇が裂け、飲み込もうとすれば喉が激しい拒絶反応を示す。だが、少しでも、身体に取り込まなければ。
そこから先は辛いだけの時間。闇の中でひたすら水と食べ物の幻覚に囚われる。そんな己を意識することで自我を保つ。
滑稽だ。でもそれで良い。ここまで随分と楽をして強くなってきた。本来あるべき姿に戻っているだけだ。
「始めるぞ」
声が来た。また戦いの時間だ。そうしてボロボロになって、パンと水を腹に入れ、闇の中で過ごし、また戦う。
時間の感覚はとっくに無くなっている。戦いが終わったと思ったらすぐに始まったり、闇の中で延々と過ごしたり。その内に痛覚も失い、漠然とした不安に襲われ始めた。小さな虫が心を犯していくような感覚だった。
いつしか自分を俯瞰するように見ていた。破綻しかけた精神が最後に施す逃避措置だと聞いたことがある。肉体から精神を分離させて守るのだとか。
当たっているかもな、と他人事のように考える。だが、そのおかげで思考できているのも事実だ。ただ、この思考が本当に自分のものか分からないのだけれど。
俯瞰して見る自分の肉体は思っていたより情けなく映る。地面を這ってナニカを探し、僅かなパンと水にむしゃぶりつく。なのに戦いの時には別の生き物のように苛烈で。
戦うことしかできないモンスター。そんな印象だった。しかし敵に向かって振るう二刀はひどく鋭い。
「二月しか経ってねぇわりに、なかなかやるようになったじゃねぇか」
声が言う。やはり愉しげに。彼は呼吸を乱し、全身から血を流している。我が肉体は順調に成長しているらしかった。
――なのにお前は何をしてるんだ?
さあね。戻り方、分からないし。
――このまま死ぬのか?
知らない。たぶんそうなんじゃないかな。肉体と精神の距離がどんどん遠ざかっている。
戦って、寝転んで、うめいて、また戦って。体はやせ細り、表情は死んでいる。気味が悪い。なぜ生きているのか不思議なほどに。
でもどうやら、そろそろ保たないらしい。戦いが終わった直後に倒れ込み、うめき声すら出せていない。
なのに時おり笑い出し、自らの肉に齧り付く。あれじゃまるで、狂った天使のようじゃないか。
――これで良いのか?
さあ? けどまぁ、死ぬのは怖くない。
――死を恐れない事と、実際に死ぬ事は別問題だ。
つまり?
――託された想いは? 果たすべき誓いは? 両肩に乗せられたものは、もう自分だけのものじゃない。
そう、かもな。いや。そうだな。自分が死ぬことになんか興味はない。そう思っていたけれど、本当は違うのかもな。ニヒルなふりをして、『死』という存在を見ていなかったのかもな。
現実に戻ったら、とか。見たことのない景色を求めたり、とか。今よりも強く、とか。
生き死にというものに無頓着なくせして、誰よりも未来に執着している。生きるという事は、死を拒絶するという事だ。死を簡単に受け容れるような奴は、結局のところ生きてはいないんだ。
死ぬことを恐れはしない。それはこの先も変わらない。
けど、だからと言って、生きることに全力を注がない言い訳にはならない。
俺はやれる事を全部やって来たか?
どこかで、死に対する恐怖心が薄いことに逃げていなかったか?
本当に、このまま死んでも良いのか?
現実に戻ってやりたい事は、やるべき事はないのか?
「むすめ、たちに、あいたい――ぁ……」
それが、本心なのか。とても普通で、ありきたりで、考えてみれば当たり前の願い。ずっとフタをして来た本心。
もう別の父親がいる。俺を怖がってる。もしかしたら嫌ってる。だから、本心から逃げてきた。俺って奴は、ほんとにダメだ。
「ほなみ、みお……うぅ、うぅぅ」
情けない。あまりにも情けないから涙が出て来るじゃないか。
けど、ああ、これが俺の本心だ。現実に還りたいんだ、一瞬間でも。娘達の顔を見て、抱きしめて、愛してると伝えたいんだ。
――だったら、こんな場所で終わって良いのか?
駄目だ。終わらない、こんな所では。
精神が肉体に戻った。活力も湧いた。なら、あとは超えるだけだ。
不思議な感覚だった。辛くて、苦しくて、水と食べ物を狂いそうなほど求めていて。
けど脳は凪いでいて、自分と周囲が透けて見えていて。
目を閉じ、あぐらをかく。己に深く潜り、臨み、周囲に溶け込ませる。
少しずつ世界が広がっていく。自分以外の色々を心で感じ取る。
――そうすれば、ほら。
視界が、一変する。
「……超えたか」
正面に、ザゲンさん。彼は透き通るような笑顔を浮かべて、良い塩梅だ、と呟いた。
「これが最後の立ち合い稽古になる」
結果がどうなろうとな。そう言って刀を抜く。あまりにも美しい所作。あまりにも堂々とした雰囲気。これが本物だと納得してしまう。
俺も、ああ成りたい。
よくやったぜ、お前は。そう続ける彼は、本当に満足そうだった。
「正直なところ、お前が恐ろしい。まともに飲み食いできず、傷を癒やすことすらできねぇ。なのに生き続け、刀技と体捌きは見る見る冴え渡り、精神も瀬戸際で保たせる――なかなか楽しかったぜ」
言い終わりと同時、彼の存在感が膨れ上がる。言葉の通り、これが最後らしい。正真正銘の全力だ。だから、こちらも全身全霊を込めなきゃならない。
強化されたザゲンさんと俺では身体能力に大きな開きがある。彼が扱うスキルによっては何もできずに殺される。いや、何かできると考えることが愚かだ。
「さて」
できない材料に目を向けるのは終わりにして――さあ、抜刀だ。
速さと膂力で全てが決まるのか? だったら、戦い自体が起こらず、また、人間なんて種族はとっくに滅びている。
意志が人間を前に進ませて来た。
戦いを。次に進むための闘いを。ここを超えて、俺は未来へ行く。
心は遮断しない。苦しみばかりを感じ取っているが、そう在るものとして置いておく。
心は細く長く。呼吸も同様に。自らの重心と相手との距離を見定め、視線はどこを見るともなく視る。
くく、とザゲンさんが笑う。とてもとても嬉しそうに。
「よくぞ至ったな、この短期間で、そこまでの域に」
行くぞ。何度も何度も聞いた宣言。それを発して彼が距離を詰めて来る。これまでの無造作な歩法や突進とは違い、にじり寄るように。
対するこちらも大きくは動かず、ひどく小さく前進する。可能な限り脱力し、けれど二刀に意志を込める。
限界まで張り詰めた緊張感。それに呑み込まれないよう、下っ腹に力を入れる。
汗が頬を伝う。この身体にはまだ水分が残されているらしい。そんな事を思う。
距離が縮まる。互いにほんの少しずつ詰めていく。とっくに間合いだ、俺にとっても彼にとっても。
彼の呼吸と視線に注意を払い、こちらも悟らせないようにする。息をするのがこれほど辛いとは。1センチを進むのがこれほど恐ろしいとは。俺は戦いについて何一つ知らなかったのだ。
――今を生きてる。だろ?
ああ、俺は今、最高に生きているぞ。
「うはは……」
今というものが、これほどまでに楽しいとはっ!
何を身構える必要があるんだ。何に怯えているんだ。だって、世界はこんなにも色濃く在るじゃないか。
前進を止め、二刀を納める。そうして、ザゲンさんに微笑みかける。
彼は虚をつかれたと言わんばかりに驚きを表し、一瞬間、動きを止めた。
フ、と。ほんの僅か、ひどく小さな呼気が漏れる。俺じゃない。ザゲンさんだ。彼が選んだのは突きであった。刀という刃物には不向きな、しかし最速の攻撃。それも神速だ。
けど、視えている。それを選ぶと分かってもいた。いや、選ばせた。
だから、こちらも準備は出来ている。刀に手をかけ、右肩を前にした前傾姿勢で、腰を落として。
俺が選択したのは抜刀術。
同時に半歩を退がる。右肩で突きを受け止め、そのせいで抜刀に力がない。当然に躱される。
ザゲンさんにしてみれば抜刀術が来ることは明確で、ゆえに上手い距離を保つために突きを選び、基点の一つである右肩を突いた。
だからこそ中る。第二の抜刀術が。
左の腰に残ったままの、二つ目の刀を逆手で引き抜く。いや、引き抜きと斬撃を一つにする。
時間の流れがやけに緩やかで、全てが視えていた。直視しているわけでもないのに、左の刀が彼の腹を斬り裂いていく瞬間が明確に視えていた。
肉体も最適解へと勝手に進んでいた。刀が突き刺さった右肩を、左の振り込みを利用して外へと開く。そうすることで彼から攻撃手段を奪いつつ、同時にこちらの右の刀に活動のきっかけを与える。つまり、中途半端なままで止まっていた所からの振り上げだ。
左を振り切り、右も振り切る。左はザゲンさんの腹を深く斬り裂き、右は胸を斬り裂いた。
彼が倒れ込む。そうして、時間が通常の流れに戻っていく。
「本当に、よく、成長しやがった」
胸から血を吹き出し、腹から溢れかける臓腑を押さえつけ、ザゲンさんは愉快そうに言った。
対するこちらは恥じるばかりであった。彼はスキルを使わず、刀技だけで真っ正面から立ち合ってくれた。なのにハメ手のようなものを使って。
「いいや、それで良い」
お前はとっくに俺を超えてやがったぜ。そう、彼は言った。そうして、覚えてねーのか? と続けた。
「刀技じゃ何日も前から負けてた。悔しかったぜ。俺が何百年、いや、もっと時間をかけて習得したもんを、お前は二月やそこいらで抜いて行きやがる」
最初の動き出しはつられちまった。俺の負けだ、バケモンが。そう、笑って言った。どこか晴れ晴れしく響く声だった。
「時間、引き延ばされてたなぁ」
ザゲンさんとの攻防を振り返り、そんな事を言ってみる。まるで“竜人特化”の世界のようだった。比べるにしちゃ短い時間だったし曖昧な感覚だったが、それでも濃密かつ凝縮された一瞬間だった。
と、それよりも。
「此処から出る許可をください」
ザゲンさんを治療しなければ。
「助かるわけねぇだろ、こんな傷で」
「……随分と余裕じゃないですか」
そう、初対面の時に言われた言葉を言ってみれば、彼は一瞬だけ真顔になり、くつくつと笑った。
「言われちまったな」
「とにかく外へ。まだ間に合います」
洞窟の外へ出る。途端に、全身に活力が満ちた。色々なものが戻って来た。
入った時は逆だったのだろう。そんな事に気付けないほど、俺は鈍感になっていたのだ。力にあぐらをかいて、己を過信していのだ。
枯渇したスタミナをポーションで回復させ、ザゲンさんを神聖魔法で癒やす。彼はもう何度目になるのか驚きの表情を浮かべて、信じられねぇ、と言った。
天使族は治癒魔法を持っていないのだろうか?
「そうじゃねぇ……いや、ここまでの治癒力はセラしか持ってねぇが、お前、なんだ、いきなりめちゃくちゃ強くなりやがったな」
ああ、そっちか。洞窟の中じゃスキルと称号の力が封印されていたから、突然強くなったように感じたのだろう。
「……そういうことはよ、最初に言っとけや」
「……言ってませんでしたっけ?」
「言ってねーよ!」
言ってなかったらしい。それを自分らしいとも、とんだ不義理だとも考えるが、まあ、俺なんてこんなものでしょう。
「邪神の一柱を殺したって言葉は嘘じゃなかったが、そうかよ……」
本当に勝てるかもな、邪神どもに。ザゲンさんは期待感を隠しもせずにそう言った。
勝てるかもしれませんね、奴等に。俺は期待感を込めてそう言った。
だって、馬鹿らしいほどに成長しているもの。
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ヘラ:否人Lv.⁇:先導者Lv.20/歪士Lv.20/守護者Lv.4
スキル:【双刃技Lv.58】【刃技Lv.58】
【急襲Lv.20】【魔の深淵Lv.3】【魔闘Lv.3】
【戦鬼君臨Lv.3】【未知への挑戦Lv.20】
【神聖魔法Lv.2】【肉体奏者Lv.20】
【光輝永劫Lv.4】
【マッピング】【薄刃伸刀】【原始の細胞】
【金剛髄】【竜狩り】【明鏡止水】【残響】
固有スキル:【先見の眼Lv.17】【迅雷Lv.16】
【竜人特化Lv.1】【竜咆Lv.1】【竜紋Lv.1】
【空間掌握Lv.15】
???:【ポート】
称号:【闇に生きる者】【逸脱者】【残忍なる者】
【刃神の奥伝】【制者】【退魔者】【違背者】
【魔を覗く者】【魔の求道者】【死者を照らす者】
【野性への暴虐】【魂の守護者】【魂の殺戮者】
【森の覇者】【遺林の覇者】【慈悲なき者】
【竜狩り】
先天:【竜の因子】
加護:【ΔΗΜΗΤΗΡ】
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ステータス自体は大きな変化を見せていない。“双刃技”と“刃技”がおかしなレベルに達しているとか、“否人”のレベルがバグっているとか、職業のレベルが上がった謎とか、増やしたり増えたスキルは無視。
とにかくステータス上には表れない俺自身の成長が大きい。
何よりも証明になった。アバターも自らを鍛えることで成長できるのだと。ゲームシステムに則った行動以外の成長法があり、やり方は自在なのだと。
敵から得た経験値に頼らずとも、プレイヤーはいくらでも成長できる。この事実は引きこもっている人々の希望になるかもしれない。
「……還るぞ、あの世界に」
口に出せばストンと胸の奥に落ちた。これが本当の願望なのだと理解できた。
べつに、今までの目標だって嘘じゃない。見たことの景色に出会いたいし、強くも成りたい。ただ、そこにもう一つ追加されただけだ。
穂波と澪に会いたいのだ。可能であれば、妻にも。娘達に会って、抱きしめたい。愛していると伝えたい。
「また、戦う理由が増えちゃったなぁ」
少し恥ずかしくなって、ごまかすようにそう言ってみた。
空はどこまでも青くて、広くて、自分が何にでも成れると言ってくれている気がした。




