1話 祝福された聖域
「生きたいか?」
鏡の中からそう問いかけられた。聴きなれたような、だけれども久しく発していなかった自分の声。
――分からない。
心の中でそう答えた。耳障りで、聴こえたものとは少しズレた声で。
ああ、そうか。此処じゃ声を出せるんだ。ゲームの中。仮想現実の世界。まだ始まってはいないけれど。
電子の海を揺蕩う。プログラムの波は止まることなく無限に流れていく。0と1で構築されたそれは無機質で、なのに大きな希望と可能性を感じさせる。
ふと見上げれば、遥か頭上に浮かぶ変わった時計。12の男女と、彼等を指し示す短長それぞれの時針。中心には数字が並んでいて、カウンドダウン方式での減少を見せる。サービス開始までの残り時間だろう。
此処に来て40時間が経つ。出来ることは何もなく、けれども俺にとってはすごく楽しい時間だ。なんたって身体が動かせる。
「素晴らしい」
発声だって可能だ。なんて素敵なんだろうか。
だから、どれだけだって漂っていられる。此処に入れるようになった瞬間からずっと居るけれど、少しだって飽きを感じない。
「サービス開始まで8時間か」
色々を、漠然と思考していく。と言っても考えるべき事は少ない。思考が行く着くのはやはりこれからについて。
名前も知らないこのゲームは、バーチャルリアリティ技術を搭載した最新鋭のオンライン型ファンタジーゲームだ。フルダイブ型VRというやつである。
新世界創造だとか、技術にとって未踏の領域だとか、そんな謳い文句で売り出されているらしい。
確かに、これは未来の技術と言って良い。没入型端末を含めた全ては独占され、医療や軍事業界からの圧力は時と共に高まっている、らしい。
「なんでも良いんですけどね」
動かせる身体があって、病室の外を観られるのなら。
でも、期待感は高まるばかりだ。
「だって、本当に人間じゃんね」
目の前にある大きな鏡に言ってみる。そこに映るのは俺だ。健康的で、成長の余地を感じさせる筋肉を持ち、十代後半か二十歳そこいらの、今から十年も前の自分。
この自分をずっと脳内に描いて来た。ずっとずっと望んで来た。だから、鏡に映るそれはきっと、かつての俺よりも優れている。人間ってやつは見たいものを見るからだ。
まあ、これがどの様にしてゲームに繋がるのかは謎だけど。
「初期アバターは、どんなにしようかな」
作れるまでの時間は、遥か頭上で減少していく数字が教えてくれる。それまでは、このままで居ようか。
「何故でしょうか?」
背後から聴こえた女性の声は、福音のようにして響いた。見果てぬ空間を埋め尽くすだけの気高さと、澄み渡たる鐘の音色と、けれどもどこか不安定な儚さ。それ等が混在した心地よい声だった。
「何故でしょうか?」
背後から、再び。振り返れば、青色の0と1で構築された女性らしき姿。
胸が高鳴る。なんたって誰かと言葉を交わすのは随分と久しぶりだ。相手は数字の羅列だけれども。
「あー、俺の声は聴こえます?」
「はい」
表情が見えない彼女からは、困惑した様子が確実に伝わって来る。すごいな、たかだかプログラムなのに。
近年じゃAI技術も進歩しているらしいが、それにしたってこうまで人間らしいとは。それとも運営のアバターなのだろうか。
「すみません。声を出すのは何年かぶりで」
そうですか、と。今度はひどく無機質な気配。
「それで、なんでしたっけ?」
「これまで一万に及ぶ方がここを訪れ、しかし立ち去って行きました」
それはそうだ。まだアバター作成もできない。こんな数字の海に留まるのは変人か気狂いだろう。俺はどっちなのか、または両方だろうか。
「身体を動かせることが嬉しくて、楽しいからです」
疑問符を多分に覗かせて、彼女は舐めるようにこちらを見つめて来る。警戒させてしまったな。さて、どう説明したものか。
「ここに居るだけで幸せなのです」
「幸せ、ですか。ここに居ることが」
「ええ、幸せですねぇ。現実じゃ寝たきりで、妻や娘達との会話すらできない身体ですから。……ありがとうございます」
同情や哀れみを向けて来ない彼女に感謝を伝える。それをされるのはひどく嫌いだ。今じゃ娘達まで向けて来る。
「もしかして邪魔になってますか? 俺のせいでサービス開始が遅れるとか」
問いながらも、そんな馬鹿なと鼻を鳴らす。これだけの技術だ。気の狂った変人が漂っていたところで何の支障もないだろう。事実、彼女は首を左右に振って見せた。
「ただ、興味があったのです。何もなく、何も出来ないこの空間で、貴方はずうっと一人でいる。入った時にアナウンスがあった筈です。この場に留まったところで何も与えられないと」
「ありましたねぇ。けれども良いのですよ。素敵ですから、ここ」
「……約2時間です」
何が、だろうか。
「この場を訪れた方々の中で、留まった時間の最長が、です」
貴方を除いて、ですが。彼女はそう言いながら腕を伸ばす。指の先には大きな鏡。そこに映るのは若々しく楽しげな俺。
「何故でしょうか?」
質問の意味と意図が理解できず、けれども“何故この姿を思い描くのか”と読み解いてみる。
「強烈に憧れるんですよ、可能性を持つ昔の自分が。とても憎らしいんですよ、可能性を活かさないで生きていたかつての自分が」
だから、焦がれるほどに心の中に刻まれているのですよ。そう言ってみれば、彼女からやはり無機質な気配が発される。
「私の質問に対する答えとはなりませんが、なるほど、理解しました」
「あれ? どういった意味だったのでしょう?」
「良いのです。理解しました」
何を、かは聞かないでおこう。答えてはくれないだろうから。何となくだが、そんなふうに感じる。
「プレイヤー名は決めましたか?」
「いいえ、まだですね」
「ならば、決めましょう」
「……それはどういう?」
数字の彼女が身を翻す。海中でそうすようにひらりと一回転。しながら鏡の横へと漂う。
すごいな。あれ、俺にも出来るのだろうか。
「アバター作成に入りましょう」
「もうそんな時間に?」
頭上を見る。まだまだ残っていた筈の数字は、いつの間にか0の羅列に変わっていた。
「あれ? そうだっけ?」
「体感時間の操作を。……貴方にとって大切な時間を奪ってしまいましたか?」
「いいえ。素敵な時間には違いありませんが、新世界に飛び込める方が嬉しいですね」
特別扱いされているのか、それとも限定的なイベントや特典なのか。
このゲームは妻からのプレゼントだから後者かな。張り切った妻は金銭感覚が麻痺したりするから。負い目があれば特に。
何にせよ理解が及ばない技術力だ。恐ろしくすら感じる。まあ、今はどうでも良いか。
「これは、言うなれば感謝を示す対応です」
迂遠な言い回しに思わず笑いが漏れ出る。意味も分からないけれど。
「そうですか」
言いながら時計を見つめれば、60分からカウントが切られ始める。あれ? またカウントダウンか。なんだろう。
「サービス開始までの時間です」
「……ああ、キャラクター作成には決められた時間があるんですね」
「はい。正確に言えば、“最初の一人”になりたければ、になりますが」
俺の事前情報は無いに等しい。麻痺した肉体じゃ調べられないし、知りたくもなかった。
で、“最初の一人”になれば特典を得られる、と彼女は言う。つまりは、今ごろ誰もが必死になってキャラクターを作成しているのだろう。まあ、一人とは言っても数千人に及ぶだろうけど。
「私が一助に」
「ん?」
「キャラクター作成のお手伝いを。本来であればアナウンスに従って行うのですが、宜しければ私が導き手になりましょう」
「嬉しいし有り難いのですが、なぜです?」
「貴方はここを楽しいと、素敵だと言ってくださいました。故に、ほんの少しだけ特別扱いを」
まさかの特別扱いだったわけか。素敵な時間を楽しく過ごしていただけだが、まあ、貰えるものは貰っておこうか。
「ありがとうございます。宜しくお願いします。お名前は?」
「……ヘス、と……疑わないのですね。これが私の感謝によるものだと」
「ん? ヘスさんがそう言いましたから、ええ、疑ったりはしません」
疑うことには疲れている。愛した妻や愛する娘にまでそうしてしまう。新世界に居る時くらい、信じてみたい。
「お名前はどうしましょうか?」
「何でも良いのですが、そうですね。ヘラ、で」
「ヘラ?」
なんだそれは、と。ヘスさんから送られる怪訝な感情。
「ほら、神話の英雄ですよ。ヘラクレス。彼のように生きたくて」
「はぁ、そう、ですか」
ああ、やめてくれよ。そんなに呆れられると興奮してしまう。
もっと楽しみたいな、他人との交流をさ。
Blessed Sanctuary。祝福された聖域。
彼女はこのゲームのタイトルをそうだと教えてくれた。知る必要のない情報で、知りたくない情報だ。
俺はこのゲームを世界だと捉えている。廃人やガチ勢になりたいわけじゃないし、何なら攻略しようとも考えていない。俺は自分の脚で世界を観て回りたい。だから、これをゲームだと認識してしまう情報は邪魔でしかなかった。
「失礼しました。それでは説明をスキップし、プレイヤーアバターの編集及びキャラクターシートの作成に」
「お願いします」
決めるべきは5つだ。
まずは名前。次に容姿となるアバター。種族、先天的才能と職業。簡単そうに感じるが、とてもとても手間が必要になる作業だ。
職業は二百個もあって、先天的才能などは三百を越えている。種族こそ20と少ないが、組み合わせを考えるだけで混乱してしまう。醍醐味とも言うべきなのだろうけど。
何せそれ等の組み合わせは、スタート時の状態に大きく関わってくるのだ。つまりはスキルと装備に。
種族、先天的才能、職業の組み合わせを基にした上で、装備と4つのスキルがランダムに付与される。当然ながらこの二つは大きな意味を持つ。特に後者は。
組み合わせ次第じゃまともに戦闘すら出来ない、とはヘスさんの言葉だ。剣の才能を得た魔法士が、弓を持って採取スキルを与えられる。そんな事も有り得るのだそうだ。
極端な例ではあるが、バランスこそが重要なのだろう。
嬉しくない事に、スキルを確認できるのはスタート後で、アバターとキャラクターシートの修正変更は出来ない。別のアカウントすらも作れないとなれば慎重にならざるを得ない。
与えられるスキルに大きく関わるのは種族と職業の組み合わせ方。さらには、先天的才能と職業の相性。
何にせよ、ゲームに慣れていない俺にとっては苦痛だったりする。だから、現状に感謝したりして。
「何故、でしょう?」
そう問うたのは導き手である筈のヘスさんだ。俺に聞かれてもね。でもまぁ、こういう事だってあるのだろう。サービス開始直後だから尚のこと。
「アバターの編集ができない?」
先天的才能も選べない、と。
良いさ、才能なんて何でも。見た目にも、こだわるつもりはない。女性とかになったら嫌だけど……それはそれで楽しいかもしれない。
「まさか、……だから、なのか?」
そう言ったのはヘスさんだ。俺を食い入るように眺め、一つ頷く。
ヘスさんから発されるのは、期待だとか願望だとか、困惑だとか驚きだとか、そうした相反する気配。
「申し訳ありませんが、一度ログアウトを試して頂けますか?」
つまりは最初からやり直せ、と。
俺としては何も気にしていない。だってログアウトする必要なんて無いんだから。
「このまま行きます。残り時間もない」
「ですが――」
「良いのですよ、ヘスさん。俺は攻略したいわけでも戦いたいわけでもない。この世界を旅したいだけですから、スキルはなんだって構わない」
頭上を見る。カウントダウンがゼロに近づいて行く。胸が、ひどく、騒いでいる。いよいよ俺は、俺自身で活動する事になる。
「それに、もう待てません。これだけ此処に長く居たんだ。“最初の一人”になれないのは、少しばかり腹立たしい」
「……分かりました。であれば、お詫びの品をお受け取りください」
ふぅん、アイテムかね?
「それって口止め料が含まれていたり?」
「いいえ。不手際を隠すようでは先などありません」
「了解です」
さて。ヘスさんには悪いが、彼女を意識から外しておこう。代わりに五感のアンテナを張り巡らせて。
俺にとっての新世界誕生まで、残り1分だ。
さあ、行こう。俺が俺であり続けるための冒険へ。




