8.
都市の朝は早い。
唯一残っていた酒場が明かりを落として数刻。暗く静まりかえった時間は、夜明けを合図に途切れる。都市の眠りは人間に比べれば短く、健康な暮らしを欠かさない内には認識できない。
大多数の住民が目覚める前にも、開店準備に追われる者が動き出している。
街灯に寄った夜警のあくび姿も目に留めず、荷車を引く集団が倉庫から各々の店までを最短に進み、あるいは出勤狙いや昼の客入り時を見こして、厨房のかまどに火を付ける。
一日が始まりは順々に進み、直接太陽を見る頃には、都市は喧騒に包まれる。雨日には少ない人通りも、晴れ続きの今日には適わず、人の往来は都市本来の多彩な音を繰り出していた。
そのような日々は、小さな変化の連続で成り立っている。
大通りを進む中、初老の男性を先頭にして歩く三人組は、慣れない道幅と自由の効かない歩みに苦労しながら、街並みを見回していた。
何度か訪れて迷わないだけ。日頃保っていた会話も今は難しく、一塊と見紛う景色に、住民と自身の暮らしとを比べてしまっていた。
どうにか足取りを保ち、石造りの街並みを進めた後には、ひとつの建物に入り込む。
昨日にも訪れており、受付の顔には揃った笑みがある。
依頼人と請負人の関係が遠く、仲介役でしかない受付に意識が偏る。
受付の反対側にたむろする実働の者には気付けない。腕自慢と直接交渉するなんて器量があれば、自力で解決しようとしただろう。
大部分は無関係な者であり、数多の依頼にあふれたこの都市で我先に殺到する者も現れないのだ。
「おはようございます」
女性の挨拶に応じるのは先頭の男性であった。
「サイショ村の者ですが、その、……どうにかなりませんか?」
「サイショ村ですね」
受付の女性は、確認のように村名を口ずさむと、受付台の中から必要な書類を見つけた。
関係する項目に目を通して、要点だけ覚えて視線を戻す。
「依頼の掲示は終わっています、昨日の内に選定も終えて、既に調査人が向かっていますよ」
時間帯の違いもあって、昨日対応した受付とは別人だが、仕事の情報は共有されている。
この件に関しても、緊急に記されずとも、状況を追って依頼人との連絡が必須になる。近日に再訪の可能性あり要注意という記し書きもあった。
「急げませんか?」
「今以上は難しいです。何にしても確認を終えてからでないと本格的な対処に動けないんです」
受付の女は申し訳なさげな表情を見せる。
村長も内心では分かっている。
無理を言っているのだ。依頼の処理は順番というわけでもなく、緊急性や依頼内容により入れ替わるものである。指名手配なんて時には、期限や関わる人数さえ選ばない場合もある。
もともと、村長程度が脅迫したところで従順になる業種でもない。
多数の人材を求める場合に慎重にならざるを得ないのも事実だろう。
「本当のことなんだ。夜に突然、大量の虫に襲われた。川が溢れたみたいに村を飲み込む数だったんだ……」
実際、調査員を向かっただけでも迅速な対応なのだ。
被害度は低い。一人の死者というのは害獣被害としては小規模であり、村の仕事中でも死亡事故は起こりうるものだ。
それよりは、異様な事態に対する住民の怯えが深刻だった。
都市へ避難してくる途中では、森歩きで負傷した者もいる。一人の喪失は確かだが、住民全体の心境が悪いのも大きな問題になっている。
今は住民同士で支えあっている様子だが、いざ安全が確保できたという時には、村への帰還を拒む者も現れるだろう。
もちろん、組合の調査に頼りきりにならず、自分たちでも組織した。
距離を取って落ち着いた昼頃に、気の進まない猟師たちに頼み込み、数人を村の確認に向かわせたのだ。
往復するくらいの資金と食料は持たせた。自分たちの移動に追いつかなかったようだが、到着次第、新たな情報を持ち込んでくれるはずだ。この組合にも後からきた連中に滞在先を伝えるよう頼んである。
組合の動向も、ひと晩を過ぎた報告には十分であり、村民を慰めるだけの情報にはなると村長も思っている。
それでも、住民の心配は尽きない。皆が集まった時には増々情報を請われるに違いない。
「そういわれましても、私どもでは判断しかねます。……本件に限れば規定通りの対応しかできず、調査を向かわせて正式な報告を通さないかぎり、街の支援金もあてにできません」
実のところ、村が最初に求めた依頼になると、手付け金すら足りていないのが現状である。
虫対策の専門家を呼び、虫を殺すか追い出してもらう。街道を移動する間の護衛もあれば、処理後の清掃に人手を借りることになる。
多くの人間を雇うには相応の費用が必要であり、荷車数台、大半が着の身着のまま、腕に抱える荷物しか持ち出せなかった村民に十分な金が準備できるはずもない。
都市での滞在費も考えなければならず、今回の件で収入を絶たれた住民にとって厳しい選択だ。百にも満たない小さな村では、いっそ危険を承知で住民を動かした方が安い可能性もある。
畑の復旧だけを優先して、他の場所の清掃は追々行っていけばいいのだが、住民の足は重たいだろう。
ようやく都市に逃げ延びてきたところである。身に降りかかった異常におびえているだけで、異常の原因まで考える余裕はないだろう。
村の方も、住民の心境も、現状では観察するしかない。
村長としても、この都市の支援制度がなければ、早々に村を放棄しただろう。現在、複数の宿で小分けに泊まらせているように、住民も離散させるしかなかった。
手持ちの資金も、閉じ込もるばかりでは尽きてしまう。貸倉庫を利用して節約しようと、少々の延命にしかならないと自覚していた。
残念ながら、都市が計上する復興費も無限ではない。
予算は毎年の積み立てであり、個々の事例に対処するにあたっては審査を通す必要が出てくる。都市の支援を頼るなら、領主の法令に背くわけにもいかない。
小規模なら個人的に傭兵を雇えば済むわけだが、今回は別である。
戦力保持には制限がある。狩猟などの用途を除けば、大量の武力を動かす時には許可がいる。
昔には農具の個人所有すら許されない時代もあったのだ。独自の裁量が成り立つ村では意識しない話題だが、それゆえに村々を束ねる都市は警戒していた。
「正直、虫というだけでは、脅威と呼ぶには弱いです」
「ですが、村を埋め尽くす数となると、我々に限らず、周辺にも届くのではありませんか?」
虫害は判断が難しい。
周知は中々に行われず、初期であれば被害範囲も予想できない。農作にとって致命的な問題でも、現地の住民しか知らなかったりする。
まだ、野盗や獣の方が周囲に脅威を伝えられる。
人が積極的に狙われると分かれば、対策を講じるしかなくない。
人為的であるなら、なおさら被害は局所に留まるだろう。
分からないままでは不安も強まるばかりだ。
もしかすると、村から避難するという、最初の対応が失敗だったのかもしれない。せめて、昼に襲われたなら対処も違ったかもしれない。
「そのための調査です。向かわせた人員も、専門家に届かずとも、教えを学んで、様々な知識を有しています。村の現状と大まかな原因さえ掴めば、有効な処置も見つかるでしょう」
その後、受付とは簡単な確認だけ済ませて、建物を離れる。
住民の様子見をするなら、常に留まるわけにもいかない。日に三度と決めているが、状況によっては一人を待機させるべきだろう。
大通りには、虫に負けず劣らずの人混みがあり、会話の声量を少し強めた。
「……やはり、皆を動かすのは難しいか?」
「正直、難しいです」
村長の質問に連れの男が答える。
「昨夜の内でも、宿で見かけた虫に、叫んで身を縮めていました」
そこらの虫にもおびえる。
これが侵入者というだけなら変化で済んだ。普段見かける存在によって行われたとなると崩壊の方を意識させてしまう。
備蓄をかじられる程度ならともかく、土地を追い出されたのは大きな衝撃だっただろう。
日常を見る目が変わる。
村長自身も、空の雲行きより、地面や物陰を見てしまっていた。
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「やっぱり、食料の有無は大きかったか……」
「どうしたの?」
「ほら、地図表示を見ろ。集落の方で大量に増えてる」
「え、……でも、森でも木や落ち葉は食べてたよね。備蓄があるからといって、こんなに増えるものなの?」
「備蓄は種類もあるだろ。食べ飽きたりしないんだ」
「うわ、グルメになっちゃた」