第一章 三幕 『姉を捜して三千里』
――イリューンがガルガライズを出た数日後。
「…眼の裏へと映さん事を――『Tarsius』…!」
嗄れた老人の声。呪文を唱えるその口が開かれるや、かざされた掌から光の矢が飛び、目の前に跪く少年の額を貫いた。
金髪碧眼、女と見紛うほどの美少年――ディアーダ・エントラーダ。彼は今、エレミアの魔術師ギルドへ戻り、ギルドマスターへの報告を行っている真っ最中だった。
エレミア――ラキシア大陸の東端に位置する魔法大国。
かつて、竜によって魔法を授けられた王が、一代で建国したと伝えられるこの地は、理力の研究において最先端の技術を誇る場所として栄えていた。
伝説では、ハルギスに憑依された王は悪逆の限りをつくし、竜によって滅ぼされる事となった。そしてそれ以降、エレミアから王制は消滅したのだという。
現在のエレミアの政治は、ギルドと各種機関の連係によって行われている。
人々は、理力研究とそれに付随する政治・経済・法務機関の全てを『魔術師ギルド』と呼称し、その研究員達を太古の魔法を研究する術士、即ち『魔術師』と呼んで、尊敬と崇拝の眼差しを送った。
そして、ディアーダもまたその一員だったのである。
――少しの沈黙。
ディアーダの眼前で輝いていた光が弾け飛び、やがて老人はゆっくりと口を開いた。
「…成る程のう。何が起こったかは、ディアーダよ。主の頭の中をダイブさせてもろうたおかげで良う判ったわ。思った通り、ちと騒がしいことになってきたのぅ。しかし、市を崩壊させるわ、密航するわ、無断でダイブするわ…主もイリューンも相当の豪胆さじゃわい。旅証を用意したワシの面目も形無しじゃの。ほっほっほっ!」
そう言い、白髪の老人は言葉とは裏腹に楽しそうに嗤った。全てお見通しといった所か。しかし、ディアーダにとって、それは決して笑い事ではなかった。
邪教の祠に置かれた姉の写真。
邪教と関わりがあるという、クラメシアの暗殺者が口にした姉の名。
そして、魔剣を奪った――イリューンの知り合いらしき者が着けていた、故郷の仮面。
愛する姉の身に、得体の知れぬ何かが迫っていることは間違いない。黙っていられる筈もなかった。
事の重大さを嘲笑されたように感じ、ディアーダは跪いたまま老人を睨め上げ、言った。
「マナ・ライ様、あなたは…ッ!」
「落ち着け、ディアーダ。まさか、あの仮面が主の故郷の物だとは思わなんだが…確かに、こうなること自体は星見をやって知っておった。」
絶句した。そこまで解っていながら何故、と言葉を失った。
ディアーダは奥歯を噛み締めた。感情を滅多として面に出さない彼だったが、この時ばかりは流石に我慢ならなかった。
不意に、マナ・ライと呼ばれた老人は小さく鼻で笑った。そして、
「わかっておるよ。『何故話してくれなかった。ケチケチするな、このクソジジイ』とでも言いたいんじゃろう?」
その言葉に、ディアーダはぎょっとした。
心の内を見透かされたかのようだった。心象投影の呪文によって、過去の出来事を見せたのは確かだが、今思ったことさえ通じてしまうというのか。
背中に冷たい物を感じ、慌ててディアーダはマナ・ライの言葉を否定した。
「そ、そんな事は…」
「ほっほっほ! 遠慮をするな。流石にこの歳まで生きとるとの、周りはスノーやらフレイムのような堅物ばかりでつまらんのじゃ。主やイリューンのような変わり種がおらんと、人生にも飽きが来てしまうものじゃて、のぅ?」
マナ・ライはそう言い、また大きく高笑いをする。
少しの後、咳払いを一つ。そして、気を取り直したように真面目な顔をして見せると、
「質問に答えようかの。…ワシはの、決して試練を与える為や、嫌がらせの為に主に未来を話さんのではない。」
そう話を切り出した。
その言葉にそっと顔を上げ、ディアーダはもう一度、マナ・ライを見つめた。
澄んだ眼をしていた。偽りのない顔だった。
やがて、マナ・ライは深い溜息を吐く。そして、訊いた。
「ディアーダよ、理力とはなんじゃ?」
「――フォース・マターを動かす為の技術…ではないのですか?」
マナ・ライは大きくそれに頷き、
「そうじゃ。しかし、それだけではない。万物の根元はフォース・マターじゃ。つまり、理力を使うということは即ち、万物の運命をも操っているということよ。」
「――?」
ディアーダは首を傾げた。マナ・ライは構わず続けた。
「ワシが知り得る運命は、星の動きから得る細波のような物。水面の揺らぎは、僅かな波紋で如何様にも変化する。いたずらにワシがもしそれを伝え、悪い方向に未来が向かった場合、それは神の意志に背く行為に他ならん。…解るかの。」
そこまでを一息に語り終え、マナ・ライはディアーダをじっと見据えた。言葉よりもその目が、全てを物語っているようだった。
しかし、今のディアーダにとって、それは到底納得できるような話ではなかった。
何故、知っていたのに、ハッキリと運命を教えてくれなかったのか。
例え悪い方向に向かったとて、知っているのと知らないのとでは、物事の対処が変わってくる筈ではないのか。
まさか過去、『姉の行方は解らない』と言ったことすら、嘘なのではないか。
考えれば考える程に疑心暗鬼に陥り、ディアーダは一人憤った。
しかし、命の恩人であり、恩師でもあるが故に反論することさえ適わない。唯々、言いたいことを咀嚼し、呑み込む事しかディアーダには出来なかった。
と、その時。
「放しやがれッ! てめぇっ! ぶっ殺すぞこのヤロウっ!」
野太い声。粗野で粗暴で、デリカシーの欠片もない怒鳴り声。
まさか、とディアーダは思った。聞き覚えのある声だった。
「騒がしいの…これも想像通りの顔か、もしや。」
マナ・ライが呟く。続けて衝撃、打撃、衝突音。
「――ジジィっ! いるかっ!? いやがるかぁっ!?」
現れたのは、巨大なハルバードを背負い、黒い鎧に銀髪の大男――イリューンだった。
その両腕に引き擦られるは屈強な二人の男の姿。ギルドの衛兵であろうか。顔はボコボコ、鎧はヘコミ放題。襟首を掴まれ、ごろん、と床に放り転がされる。不審人物を止めようとしたのだろうが、相手が悪かったとしか言いようがなかった。
部屋に入るや、イリューンは跪いたままのディアーダに一瞥をくれ、
「――ん? …ディアーダじゃねぇか? そうか、おめぇはここに戻ってたんだっけな。」
キョトンとした顔でそう言った。意外な顔に会った、とでも言いたげな様子だった。
返答代わりにディアーダは見知った顔に小さく会釈をする。しかし、それ以上を語る必要もない。すぐさま顔を逸らし、再びディアーダはマナ・ライに向き直った。
正直、ディアーダにとっては、誰が現れようとどうでもよかった。マナ・ライの真意だけが知りたかった。
本当に姉の居場所を知らないのか。姉は今、何をしているのか。それだけが頭の中をグルグルと駆け巡るばかりだった。
そんなディアーダの性格は理解しているのか、特に気にする風もなく、イリューンもまたすぐにマナ・ライに顔を向け、
「ま、さておき――ジジィ、頼みがある。ちょうどいいぜ。今日はうるせぇヤツもいねぇようだしな?」
そう言って確認するように、ぐるりと室内を見回した。
溜息を吐き、しかしそれでも楽しそうに、マナ・ライは未だイリューンを止めようとする衛兵に「もうよい」と片手で合図を送る。すぐさま衛兵はイリューンの側を離れ、納得できない表情ではあるものの敬礼をした。そして、ふらつく足取りのまま部屋を出ていった。
やがて、辺りは静かになった。
イリューンはマナ・ライに目配せた。マナ・ライもまた、それに併せて切り出した。
「…フレイムの事か。あやつはちぃと野暮用での。つい先日、先に派遣したスノーを追って、砂漠の帝国ダバイに向かってもろうたわ。」
「ふ――ん…まぁ、いいぜ。…水晶だ。ちょっくら水晶を貸してくれねぇか?」
言うや、無遠慮にずい、とイリューンは片手を出す。その行動に一切の躊躇はなかった。
やれやれ、と首を左右に振り、側に跪くディアーダを置き去りに、マナ・ライは一繋がりになった奥の部屋へと足を進めた。そして、壁際の棚から小さな水晶玉を取り出すと戻り、イリューンにそっと手渡した。
ちょうどボール大のそれに、すぐさまイリューンは目を落とした。
少しの沈黙。
呪文すら唱えず、イリューンはただ水晶を凝視するばかり。が、それだけのことなのに、水晶はぼんやりとした青白い炎をその中に灯し、光り輝き始めた。
ディアーダは驚きに目を見開いた。目の前で起こった出来事が信じられなかった。
同時に、心の中にどす黒い何かが浮かび上がるのを感じていた。
負の感情。憎しみの感覚。――それは、嫉妬だった。
かつて自らも挑んだ最終試練。しかし、ディアーダの力をもってしても、姉の行方は僅かながら――手掛かりが、ド・ゴールにあるということしか判らなかった。
たったそれだけの為に五年を費やした。それが故に旅に出た。それをこの男は一瞬で、まるで蝋燭に火を付けるかの如く、簡単にやってのけたのだ。
「…驚いたかの? ディアーダや。」
「え。…え、ええ。」
突如、マナ・ライに話し掛けられ、ディアーダは我に返った。心を読まれたのかと一瞬身構えたが、どうやらそんな心配もなく、マナ・ライは昔を懐かしむように続けた。
「――そう。数年前、イリューンがギルドを飛び出したのは、決して理力を扱う力が無かったからではない。…むしろ、逆じゃ。」
「…逆?」
「うむ。あやつはの…理力を自らの意志で操れるんじゃ。詠唱なぞ無くとものぅ。言霊を繰り、精神を統一せねば理力を扱えぬワシ等とは違う。あやつにとって、ギルドの慣習は全てが堅苦しい、意味のないものにしか感じられなかったんじゃ。」
「…ば…! そ、それでは何故…っ!」
膝を叩き、立ち上がり、殊更に強い口調でディアーダは訊いた。
真意を話さないマナ・ライに対する怒り。自分以上の力を持つ者に対する悔しさ。そしてその者の、力を否定しているかのような行動に我慢がならなかった。
マナ・ライは答えた。
「どうして、あやつが理力を使わんのか…ということじゃろ? あやつもな、全ての理力を使いこなせる訳ではない。数の多さだけならディアーダよ、主の方が余程扱えるわ。――忘れているんじゃよ。記憶の彼方にな。」
「忘…れて…?」
「いや、忘れさせられた、というべきかの。…じゃが、それを思い出すには、自ら求めねばならん。ディアーダよ、主が姉の姿を追い求めるようにな。」
ぐ、とディアーダは言葉を詰まらせた。文句の一つも口をついて出そうだった。
しかし――『自ら求めねばならん』というマナ・ライのその言葉。それがディアーダの胸の内で、幾度も繰り返されて止まなかった。
聞いたことがある。どこかで。いつの頃だったか。
瞬間、まるで雷に打たれたように、鮮やかな記憶がディアーダの脳裏に蘇った。
幼い日の姉の姿。泣いている少年の傍に寄り、姉は優しく語り掛けた。
「ディアーダ、泣いては駄目。人を頼っては駄目。あなたは一人で出来る子でしょう?」
「でも、でも姉さんっ…僕は、僕だけじゃ…っ」
愚図り、何度も頭を左右に振る少年。しかし、変わらぬ柔らかな微笑みを浮かべ、彼女は少年の肩にそっと手を置くと言った。
「…そうじゃないわ。どうしても辛いときは、頼らなくちゃいけないかもしれない。でも、今はその時ではないでしょう? 頼るという事は、そこで成長を止めるという事。だから立ちなさい。自分の足で。…自ら求めないと。…ね?」
暖かい日溜まりのような匂いがした。あの日――彼女は何物にも代え難い、あまりにも神々しい存在として少年の目に映った。
まるで過去の姉が、今、ディアーダに諭しているかのようだった。言葉に表せない懐かしい感覚がその胸の内に沸き上がった。
そっと、ディアーダはマナ・ライを伺った。そして、バツが悪そうにその名を呼んだ。
「…マナ…ライ様…」
何かに気付いた――そんな顔をしたディアーダに、マナ・ライは微笑みを浮かべた。気のせいか、その微笑みからは姉と同じ匂いが感じられた。
「クラメシアに行こうとしておるのじゃろ? 止めはせぬ…いや、止められぬよ。」
「それも…解っておいでなのですね。」
「ディアーダよ。主がワシを恨むのも解る。じゃがな、ワシは神ではない。こうなる筈、と助言をするのは簡単かもしれん。しかし、それで間違いが起きたならば、ワシは神に対する責を負う。…人には、人の限界がある。ワシに出来るのは、僅かばかりの予言をその身に預け、運命に祈る事のみなんじゃ。」
達観したようにディアーダは頷いた。それは、納得したからでも、諦めたわけでも、引き下がったからでもなかった。
姉が側にいたならば、きっと――自ら、動け、と。
そう考えたからに他ならなかった。
一方、イリューンの眼前では、手にした水晶に映像が揺らめいていた。
双頭の獅子。剣の紋章。それは以前にも見たことのある――
「…コーラス!? コーラスの紋章か!? そこにラヴェルナが…ッ!」
続いて水晶は、別の影をその球面上へと映し出す。
黒のチェックと白色に彩られた仮面。目の部分が細く切り込まれた、ゴードンが着けていたあの仮面が、ぼんやりとそこに浮かび上がった。
今にも怒りという名の炎が口から吐き出されそうだった。それを噛み潰し、耐えるようにイリューンは一人呟いた。
「コイツは…ッ!」
が、次の瞬間――球面に無数の亀裂が走った。
透き通った音が耳を刺す。突如として遠見の水晶は粉々に砕け散った。
「…んなッ!?」「――!?」「なんじゃと…っ!?」
三人は同時に絶句した。呆然と、直ぐに次の言葉が出てこなかった。
砂礫の如き水晶の破片に目を落とし、やがてマナ・ライは震える口調でゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「遠見の水晶が割れるなんぞ…! 尋常ではない悪意が満ちておる…! これは…ッ!?」
言いながら、ゴクリと大きく唾を呑み込んだ。その顔は怯えていた。有り得ない出来事に危機感を募らせていた。
ディアーダはイリューンの顔を覗き込んだ。そして、その目の奥を伺うように訊いた。
「水晶に…何を見たんですか?」
間髪入れず、イリューンは答えた。
「…コーラスの紋章。それに、あの仮面だ。…ディアーダ、てめぇ、目の色が違うな。…何か知ってやがるのか? えぇ?」
「わかりません。…しかし、何か大事が起きている事だけは解ります。」
冷静を装ってはいるが、内心穏やかではなかった。邪教と姉との関係。姉の行方。そして何故故郷の仮面が使われたのか。何れにせよ、調べねばならぬ事は山積みだった。
先ずクラメシアに行くべきか。それとも、水晶の指し示したコーラスへ向かうべきか。
ディアーダは悩んだ。真剣に考え込んだ。と、その時、
「ディアーダよ。一つ頼まれ事をしてもらえぬか。」
ここぞとばかり、マナ・ライはディアーダに向けて問い掛けた。そして、
「主もコーラスへ行くがよい。そして急ぎ、書状を王に手渡すんじゃ。よいな?」
そう一方的に頼み事を締め括った。
あまりにも急な展開に戸惑った。が、是非もない。ディアーダの答えを待たずして、マナ・ライは再びイリューンに向き直ると言った。
「イリューンよ。馬車を用意しよう。手数じゃが、共に行って貰えぬかの?」
「へっ…まぁ、知らねぇ顔じゃねぇしな。…腐れ縁だぁな、おぃ、ディアーダ?」
「…そうですね。」
一瞬、ディアーダは言い淀んだ。勝手に選択肢を選ばれた気分。しかしこれも運命、と込み上げる反論を呑み込んだ。全てを知り得るマナ・ライだからこそ、そのように仕向けたに違いない――無理にでもそう自分を納得させたのだ。
背を向け、無言のままディアーダはギルドを後にした。追ってイリューンも外へ出た。
小さくなる後ろ姿に何も言わず、何を思うか、マナ・ライはじっと二人の背を見つめるばかりだった。
既に、馬車は門前に用意されていた。
従者席に飛び乗り、ディアーダは早速手綱を握った。それを見上げイリューンは言った。
「俺は馬車を扱えねぇ…頼んでいいか?」
「私しかいないですしね。」
相変わらずの調子に、イリューンはニヤリと嗤った。そして、幌の掛かった荷台に手を掛けると、豪快に飛び乗った。
同時に、高らかに嘶きを挙げ、馬車はコーラスに向けて走り始めた。
――――
「…と、言う訳よ。」
鼻っ柱を人差し指で擦り、イリューンは自慢げにそう語った。まるで手柄話をするオッサンのような、そんな満面の笑みだった。
ジョージは深く溜息を吐き、
「…大体、解った。…はぁ。」
そう言って俯いた。まさかまた、この二人と旅をする羽目になるとは思いもしなかった。
しかし、一方で心強かったのも事実だった。コーラス城で何が起きているのか、それを確かめねばならなかった。
気を取り直し、ふ――っ、と軽く深呼吸。決意も新たに立ち上がり、ジョージは二人に向かって胸を叩きつつ、
「とりあえず…城へ行こう。ディアーダもそれが目的なんだろう?」
「…そうですね。馬車は向こうに停めてあります。行きましょう。」
顎で路外れの藪を指し、ディアーダはさっさとその方向へ向けて歩き始めた。追って、ジョージ、イリューンもまたその後に続いた。
停めてあった馬車の荷台へ二人が乗り、併せて従者席のディアーダは大きく手綱を振るう。
土を蹴る音を立て、馬が嘶いた。馬車は風を切り、颯爽と動き出した。
運命という名の下に。三人の旅は、新たな幕を開けようとしていた。