第七章 二幕 『仮面教団』
その場に気を失ったラヴェルナを寝かせ、一行は消えたサブリナを追った。
天守の上は屋上である。通常はそこまで登る人間も滅多に無いが、追い詰められたサブリナはそこに逃げ込んだようだった。
「――感じやがる。だが何でだ? 何でアイツはすぐにもトンペイを離れようとしねぇ?」
「宰相様は…刀を欲しがっていただけではないと…?」
廊下を早足で進みながら、ユミコがそう自問自答する。勿論、理由など解る筈もない。
「とにかく急ごう。アイツを逃してなるもんか…!」
ジョージが力強く言い放ち、ユミコ、ディアーダ、イリューンがそれに同意した。
外からラッパの音がする。ジェイムズが先にペガサスで屋根上に昇ったようだった。
屋上に続く梯子に足を掛け、頭上の扉を一息に押し開けた。夕暮れ間近の爽やかな空気が、そしてそれと相容れない邪悪な気配が一面に感じられた。
屋上入り口から奥へ数メートル。屋根の端。宙にサブリナが浮いている。
手には鞘に収められた暗黒刀。それを頭上高く掲げると、やがて暗黒刀は彼女の手を離れ、更に空高く浮上していった。
四人が屋根上に登り切るのとほぼ同時に、暗黒刀が空中で静止する。まるで何者かをそこで待つかのように、刀はその場で黒い魔力を静かに打ち放っていた。
「サブリナぁァッ!」
堪らずイリューンが叫ぶ。フフ、と笑うと、サブリナは魔剣を手にしていたのとは逆の手を此方に向け、
「来たわ。」
と、一言だけを呟いた。
その声に後ろを振り返った。信じがたい物が四人の目に飛び込んできた。
太陽が隠され、辺りが突然暗くなる。巨大な物体が空を覆い、トンペイ市内をスッポリと闇に包み込んでいった。
その大きさ。ゆうに町一つはあるであろう横長のバルーン下部には、同じぐらいのサイズをした船体が取り付けられている。
巨大な空飛ぶ船――飛行船。
見たことも、聞いたことすら無い――形容し難い物体が、空をゆっくりと飛んで来る。否、ゆっくりではない。あまりにも巨大なので、そうとしか見えないのだ。
市街地からは、恐怖とも感嘆とも取れる声が上がり始めた。尋常ではない様子だった。
「な、何だありゃあ!?」
「飛行船…! 馬鹿な! ど、どれだけの理力を使えばこんなものが…!」
イリューン、ディアーダは言葉も無い。ジョージは口をあんぐりと開け、ユミコは呆然とするばかり。船体には紋章が刻まれていた。竜と交差する巨大な剣。それはジョージの目にも留まる。見覚えのある紋章だった。
「あれは――そんな、あれは…!?」
全員が言葉を無くし立ち尽くした。唯一違ったのは、ジェイムズとペガサス騎士団だけだった。一匹のペガサスが旋回しながら飛行船に向かって特攻した。ジェイムズだった。
「舐めるなァッ! 奇怪な船ごときで我らペガサス騎士団を止められると思うてかぁッ!」
「隊長に続けぇッ!」
空を舞う騎士団が次々と旋回し、飛行船の船体――甲板部へと向かって行く。
「や…やめろ、やめろジジィ―――ッ!」
見上げながらイリューンは叫んだ。
見えたのだ。
そう、最悪の結末が――
光、闇。
黒い閃光とでも言おうか。光線のような黒い帯が、一直線に飛行船から放たれた。瞬間、ペガサスが嘶いた。苦しげに体勢を崩し、そのまま乗り手を振り落とそうと暴れ始めた。
「ぐ、うわぁァァァッ!」
「ど、どうした! 言うことを聞かんかッ!? うわぁァッ!」
――獣の咆吼。絶叫。そして風切音。
錐揉み状に回転し、数匹のペガサスがジェイムズ以下、騎士達を振り落としながら遙か数十メートル真下の地面に向かって落下した。
連なる激突音。ジョージは目を逸らし、口惜しげに歯噛みした。
「アッハハハ! まるで死にかけの蝿のよう! 中々に壮観ね…ハハハハハ!」
サブリナが笑う。向き直り、ジョージは睨め付けつつ言い放った。
「何処まで…! 何処まで腐ってやがる…っ!」
「あら、随分なご意見ね。折角、感動の再会を演出してあげようっていうのに。フフフ」
「何だって…?」
嫌な予感がジョージの背筋を駆け上った。ゾッとする、それでいて口の中が渇いていく感覚。ユミコが自ら両肩を抱え、身震いをした。恐らくはジョージと同じものを感じているに違いなかった。
ぐるりと全員を見やり、サブリナが再び天に向かって手をかざす。飛行船に合図を送るかのように。サブリナはそのまま、全員の手が届かぬほど高く宙に浮かび上がった。
次の瞬間、頭上の飛行船から二つの影が屋根上の両端に降り立った。
仮面を着けた男が二人。一方は緑の風を孕み、もう一方は蒼白い冷気を放っている。
一人はド・ゴール武闘大会で見た姿。ずんぐりとした体格に、手にはエメラルドの埋め込まれた魔斧――セイクリッド・リーヴァが鈍く輝く。
そしてもう一人は――
見覚えのある風体。鎧に描かれた獅子の紋章。手にした槍は氷の結晶を舞い散らし、柄部には青い宝石――サファイアが埋め込まれていた。
白髪交じりの散切り髪。そして、長く特徴的な赤いマント。
一瞬、ジョージの背中に電流が走った。気が付いた。刹那、ジョージは眼を見開き、同時に現実を疑った。
「そんな…! ま、まさか…!?」
「ゴ、ゴードンッッ!?」
躊躇い声と同時にイリューンが叫んだ。が、ジョージは続く声が出せなかった。酸欠の金魚のように、パクパクと口を開け閉めするしかなかった。
やがて、まるで悲鳴の如く――息を吐くや、次の言葉が飛び出していた。
「――ち、父上ぇっっッッ!?」
イリューンが。ディアーダが。ユミコが。
全員がジョージを振り返った。
サブリナが高らかに嗤った。その様は、まさに悪魔そのものだった。
「…その通り。かつて世界に名を連ねた四聖人。斧戦ゴードン、そして竜槍アレス。魔剣の触媒にさせてもらったわ。二人とも、いい体してたわよ? ウフフ、アッハハハハ!」
ジョージは奥歯よ削れよ、とばかりに口元を噛み締めた。気が付けば叫んでいた。大上段からサブリナ目掛けて飛び掛かり、その手に剣を振り上げていた。
「この――人でなしがぁぁぁッ!」「待て、ジョージぃッ!」
止めるイリューンの声すら届かない。ジョージは今、生まれて初めて敵を知った。
数メートル、怒りのままに振り下ろす剣。
しかし、それは届かない。寸前で紫の霧がそれを逸らしてしまう。着地、振り返り次の一撃を打ち放たんとした刹那、突然その切っ先が静止した。
氷が、ジョージの腕を取り囲む。
「…な、なんだ!? 身体が…! 動か…な…!」
「ま、魔法の氷…!? そんな!?」
ジョージを取り囲む煌めきに、ユミコが驚声を上げた。見れば、腕だけではない。剣の周りにも、足にも氷の結晶が散っていた。サブリナが含み笑いしつつ、小さく呟いた。
「…氷槍ペイル・フェイス。近付く者は皆、凍り付く…!」
氷の結晶は数を増す。遅れて、凄まじい冷気が切っ先から両の腕まで伝わった。一瞬の内にジョージの腕は完全に剣ごと凍り付いた。
足元にも続けて氷は浸食する。敵はすぐ目の前だというのに、身体は全く動かない。剣を持つ腕からは感覚が消えていく。怒りに燃えていた筈のジョージの顔に、恐怖の影が差し込み始めた。
蒼い槍を持つ仮面の男――アレスがずちゃ、と一歩を踏み出した。
止めを刺そうというのか。ジョージは同じ体勢のまま動けない。かつてない巨大な力の前に、言葉の一つも出せなかった。
「今行きますッ!」
堪らずディアーダがジョージの傍に向かって駆け出す。その後ろで、嫌な気配がイリューンのうなじをチリつかせた。
瞬間的にイリューンはそれを追い掛け、ディアーダの頭を片手で掴み、叩き付けるように屋根に伏せさせた。
ガシュン、と空を斬る音が響く。ジョージの手前数メートル、刃の如き風が屋上に敷き詰められた鱗状のタイルを尽く切断する。
深緑の斧を持つ仮面の男――ゴードンがすぐ後ろまで迫っていた。
「…ちッ…ゴードン…ッ! しっかりしろぉッ! 正気に戻れぇッ!」
イリューンの叫びは届かない。ゴードンは一歩、また一歩と伏せた三人に近付いて来る。
ジョージは動けぬまま、それを恐怖の目で見つめていた。絶対絶命だった。
「…世に聖人君主××あれど世俗の妙××身上に返×たり…『Manta−Ray』!」
響き渡るユミコの声。光の球体が頭上に輝き、次の瞬間マントの如く大きく広がった。そのまま法術がジョージを包み込むや、一瞬で身体を囲む氷は溶け去った。
転がるようにしてジョージはどうにかその場を離れる。反射的に肩で息をした。
「た…助かった…っ」
「礼はいりません。それよりこれは…! まるで悪い夢を見ているよう…」
ユミコの言う通り、目の前で展開する全てがあまりにも現実離れしていた。信じられぬのも無理もなかった。
言葉も無く、アレスが近付いて来る。手にした槍が氷を取り巻いて煌めいた。
ジョージとユミコ。二人の前に立ちはだかる蒼き悪魔。それは疑う余地もなく、厳しかった父の成れの果て。氷の魔人――氷魔だった。
「ちっ…父上と戦える訳が…! 戦える訳が無いだろぉぉぉッッ!」
勝てるかどうかではない。そもそも考えもしなかった。頭を何度も左右に振り、慟哭にも近い叫びを上げるジョージ。無論、アレスは歩みを止めようとはしない。
吹き上がるように、氷の結晶が舞い散る。凍えるほどの冷気が再び槍から発せられる。足元に氷柱が走り、パキパキと空気との温度差で弾けた音を立てていった。
(どうする、どうする、どうする!?)
脳裏で自問自答を繰り返す。ジョージの手が震える。冷たさからではない。怒り、恐怖、そして戸惑い。幾多の感情が綯い交ぜになり、ジョージは言葉を失うしかない。
「私が…サポートします…っ!」
後ろでユミコが声を振り絞った。彼女の気持ちが背中に暖かった。ジョージは一瞥し、少しだけ唾を呑みながら頷き返した。
瞬間、今までの緩慢な動作が嘘のように、アレスがタイル張りの屋根を蹴った。
割れた屋根までもが凍る。雪のような粉を吹き、大上段からアレスが槍を振るった。
一撃、ジョージの髪を斬った。斬った先から髪が凍った。霜が額に降り、睫毛さえも凍結させる。視界が遮られる。怯んだジョージの左足をアレスが払った。脚絆が凍り、そのまま宙を一回転。肩口から激突すると同時に槍が飛ぶ。転がって逃げるジョージだが、足元から破滅の音が聞こえた。目を落とした。凍った足に黒い亀裂が奔り始めていた。
「…う、わぁぁぁぁぁぁあああああ!?」
――絶叫。
痛みは無い。無いだけに、恐ろしかった。片足が砕け散ろうとしている。氷が脆くも脚絆を崩壊させ、その下の生身までをも破砕せんと猛威を振るう。
足を踏み出しユミコが前に出る。口中で呪文を唱えていた。
「…在りし物の生命を××させ××になりし一部を××よ! 『Pranaria』!」
瞬く間に光がジョージの左足を包み込んだ。微粒子が集まり、凍り付いた足は一瞬にして解凍された。恐るべき回復術だった。
「あぁぁぁぁ…って、おぉぉ!? す、すげぇ……っ!」
「こんな形で法術を使うのは不本意でしたが…、仕方ありません…!」
ユミコが強い視線を返す。ジョージは立ち上がり、破砕寸前で使い物にならない脚絆を外すと空へ放り投げた。そして、再び剣を構えアレスに向かい合った。
恐怖はあった。が、女を前に弱さを見せられなかった。
意地があった。適わないと知っていた。それでも、立ち向かわねばならない時があると知っていた。
「く、くそぉぉ…っ! …に、逃げて、逃げてたまるかぁぁぁッッ!」
大声を上げ、両の足を踏み鳴らした。心底からの叫びだった。
一方、イリューンの眼前には深緑の悪魔――ゴードンが迫る。
手にした斧を中心に緑の風がとぐろを巻く。目に見える台風。邪悪な鎌鼬が周囲を薙ぎ倒さんと吹き荒れていた。
「…ディアーダ、数秒ばかり防御呪文で止められっか?」
「何とか。ですが、貴方の場合、自分で出来ないんですか?」
「魔法を使いながら攻撃なんてしてられっかよ! ジョージも言ってたが、そんな簡単じゃぁねぇーんだよッ!」
悪態を吐きながらも信頼はしている。それがディアーダにも伝わった。二人は互いに頷き、息を合わせ、二手に分かれて走り出した。
風が猛威を増す。ゴードンの姿を深緑の風が巻き込み、その様はまさに台風の如くだった。
「いくぞ、ディアーダぁッ! カバーしろいッ!」
「了解です。」
冷静に呟き、続けて呪文を口ずさむディアーダ。背中に詠唱を受けながらイリューンが駆ける。屋根を蹴った。
頭上が弱点なのは実践済みだ。ハルバードを大上段に振り被り、イリューンは一撃、仮面を打ち砕かんと両の腕に力を込めた。
「――『Eagle』ッ!」
同時に、ディアーダの理力。光弾が次々とゴードンの立ち位置を狙う。
まるで団扇のようにゴードンが精霊斧を振るう。幾弾もの理力が風の壁に打ち落とされた。が、ディアーダは怯まない。自らの力の続く限り光弾を撃つ。刹那、イリューンの一撃がゴードンの仮面を捉えた。
――が。
次の瞬間、イリューンが激しく弾き飛ばされた。上下どころではない。前後左右さえ判らなくなるほどの大回転。吸う息が叫びと共に吐き出され、そのまま屋根下へと落下する。
「――捕まってくださいッ!」
咄嗟にディアーダが手を伸ばした。その手を掴んだ。
体ごと持っていかれそうになる。敷かれたタイル状の板を粉々にしながら、ディアーダは足を踏ん張り堪える。
あと一歩、ギリギリのところでイリューンとディアーダは落下を免れた。ドッと互いの額からは冷や汗が吹き出した。
「…っ! ど、どうなってやがる…ッ! 弱点は頭上だったろうが…!」
「見てください…それどころではないようです…!」
ディアーダが歯を食いしばりながら言った。見れば、ゴードンから吹き出す風はその様を明らかに変えていた。
喩えるならば緑の対流。流れは足元から昇り上がり、まるで竜が舞い上がるかのように緑の雲を創り、その身体を包み込んでいる。
風向きが幾多へと向かう様が見える。それは、まさに風の魔人――風魔だった。
「仮面を…ッ! あの仮面を割りさえすればァッ!」
ディアーダの手を振り解き、再びイリューンがハルバードを手に立ち向かう。右、左と残像を残しながらゴードンへと近付く。
その場に唾棄し、ディアーダが呪文を唱えた。イリューンをサポートすべく必死だった。
「――浄化されよ! 『Salamander』ァッッ!」
中空で火蜥蜴が燃え上がった。イリューンの一撃に合わせ、ゴードンを狙い火球が飛ぶ。
イリューンがハルバードを手中で一回転。バランスを崩させんとゴードンの足を狙う。
が、攻撃は届かない。炎は直前で風に掻き消された。ハルバードの一撃は風に巻き込まれ、見当違いの方向に逸らされた。
「んな…!」
吹き飛ばされん程の力。バランスを崩したのはイリューンの方だった。がら空きの横腹に向かって、ゴードンの蹴りが飛んだ。
重爆、炸裂。
身体をくの字に折り曲げ、その場に膝を付くイリューン。間髪入れず、頭上に迫る緑の斧。落ちる力に逆らわず咄嗟にその場で転がると、寸での所でイリューンはそれをかわした。
風埃。破砕音。
距離を取り、流れるように跳ね起きると、イリューンはゴードンに向き直った。
見れば、振り下ろした一直線上に鎌鼬による亀裂が走っていた。
「…か、風を自在に操りやがるのか…ッ!」
「じょ、冗談でしょう…!?」
信じられない、と珍しくディアーダが弱音を吐いた。相当の理力使いである彼からしても想像以上の力量差。勝てる要素が見当たらなかった。
それはイリューンにとっても同じだった。人間離れした身体能力を持つイリューンでさえ、魔剣の力の前には一歩譲らざるを得なかった。
「ウフフ。中々いい見世物じゃない? 親友が友と――父が我が子と。そして…姉が弟と憎しみ合う様はこの上もなく面白いわァ。ウフフフフ…!」
上空高く、サブリナはその場の全員を見回すとそう言い放つ。
それを聞き、ディアーダは眉を顰め、訝んだ。
――『姉』?
嫌な予感が身体をヤスリ掛けするようで――
ディアーダは次に起こる出来事を、ただ呆然と見ているしかなかった。
それは最悪の始まり。
そして、全ての元凶の降臨。
――――