第一章 一幕 『再び冒険の舞台へ』
――ダバイへの道程から遡ること一週間。
馬車が揺れる。景色が後ろへと遠ざかる。
遠くでは朝を報せる野鳥の鳴き声。がたん、ごとん、と車輪の音を響かせながら、ジョージは独りコーラスへの道程を急いでいた。
神殿国家コーラス。
ラキシア大陸一の王国であり、クラメシア共和国に並ぶ大帝国。第二次ラキシア大戦ではその見事な攻城戦によりクラメシア防衛陣を中部戦線まで陥落させるものの、冬将軍の到来により結果として攻め落とすことは叶わず、今では隣国との緊張を保ちながら大陸を監視する中央国家の一つとなっている。
主神アーリアを祭る者が多いこの国の原則は『神に忠実な民』である。従って、神の為に行う戦いはそれ全て聖戦であり、逃げることは許されない。
ジョージは、かつてその戦いの一つから逃げ出したことがあった。それが故に、逃亡兵となり、追われる身となった。
実際には逃亡兵としては認知されておらず、本人の早とちりに他ならなかったのだが、それでもジョージは、一度は騎士としての身分を諦めざるを得なかった。
生きる為に身分を偽り、生きる為に身分を捨てる。身分という名の主君に仕える奴隷。
ジョージはそんな旅路の中で、イリューンとディアーダに出会った。
二人の生き様はジョージとは全くの正反対だった。その姿に憧れを抱きつつも、自分の道とは相容れぬものとジョージは考えた。
しかし、そんな中、一つの転換期が訪れた。
解けた逃亡兵としての誤解。そして、俄に湧いた再仕官への道。
それはジョージにとって、闇に射し込んだ一条の光だった。全てを賭けてでも掴まねばならない蜘蛛の糸であった。
馬車に揺られながら、ジョージは今までのことを思い返し、溜息を吐いた。
今まで乗っていたような荷造り用の馬車ではない。貴族仕様の赤革椅子。従者付きのそれは乗り心地もそれまでとは雲泥の差。
静かな、本当に静かな――贅沢な旅路だった。
平和そのもの。一人旅というものが、これ程までに気楽なものだとは思っても居なかった。
ジョージはうーん、と大きく背伸びをする。その顔には開放感が満ちていた。
「…平和、か。こうして噛みしめられるのも、運命、だよなぁ…」
数日前までは、そんな事など考えもしなかった。数奇な運命によって様々な出来事にジョージは巻き込まれてきた。
ヴェルダインでの盗賊団との戦闘。ゲオルグとの別れ。イリューンとの出会い。旅立ちの始まり。ディアーダとの出会い。邪教徒との闘い。――そして、武闘会。
しかし、今、こうして自分は我が国へ凱旋しようとしている。
帝都ド・ゴールから馬車で二週間が経とうとしていた。あと数時間もすればコーラス領地に入るであろう。そうなれば、再仕官の道はもう目前だった。
父、アレス・フラットの怒り顔が目の裏でちらついたが、それはそれ、と無理に頭を振り、ジョージは不安を掻き消した。
「ジョージ様。今しばらく致しますと、コーラス領地最初の検問、サルタ・デル・ソルでございます。無ければ紋章を掲げる必要がございますが、旅証をご用意下さればお手間が省けます。どうぞご協力くださいませ。」
馬車を動かす従者が、そう報告を入れた。小さな窓を覗き込めば、懐かしい故郷の風景が見えてきた。
「…旅証はある。気にせず行ってくれ。」
「は、有難うございます。」
見えずとも、声だけで畏まっているのが判る。ジョージは深く椅子に腰掛け、
「そろそろか…また、あの貴族暮らしが待ってるんだなぁ…」
そう呟き、大きく伸びをした。良く言えば理想であり、悪く言えば退屈だった。
腕を組み、足を組むと――そっと目を閉じる。
一眠りすれば、すぐに検問に着くだろう。次に目を覚ますときは、きっと故郷に違いない。
そんな事を思い、うたた寝を始めるや、直ぐさま睡魔が襲ってきた。
安心と退屈と。そして、暖かい陽の光が全てを包み込んでいた。
夢を見ていた。
夢の中では、騎士団の栄誉を受け、勲章を得て――
側には何故か知った顔。
ガルガライズの港町で出会った少女――メリアの姿。
笑うメリア。隣に立つ笑顔のジョージ。後ろには満足げな父の顔。
そして、コーラス王の手には、騎士団垂涎の栄光の剣が――
ドグアッシャァァァァァァン――!
突然の凄まじい衝撃音。飛んでいた意識を無理矢理身体に叩き戻され、ジョージは前のめりに椅子から思い切り転げ落ちた。
「な、ななななななんだぁぁぁっ!?」
天地逆。逆さになったまま素っ頓狂な声を挙げる。
狼狽えながらも起きあがり、左右をキョロキョロと見渡しつつ、辺りの状況を見渡した。
馬車は横転しているようだった。下になった窓からは土塊しか見えない。従者の声も聞こえない。何がなんだか解らない。
天井にもう一つ窓がついている。それを無理に押し開ける。ツンとした焦げ臭い臭いが鼻を突き、ジョージは思わず眉を顰めた。
天井から見える空はまだ明るい。しかし、何やら灰色の煙が橋のように架かっている。
こんな時はいつだってロクな事はない。今までの経験からか、ジョージの脳裏に嫌な予感がビシバシと駆け巡る。
しかし、こうしていてもどうなるものでもない。意を決し、ジョージは左右の椅子に足を掛け、天井の窓に手を伸ばすと懸垂の要領でそこから顔を出した。
目の前に広がったのは、信じられない光景だった。
「な…なんじゃ…なんじゃぁこりゃぁぁっ!?」
そこにあったのは。
――確かに見覚えのある橋。
――確かに見覚えのある家屋。
――確かに見覚えのある城壁。
しかし、そのどれもが崩れ去り、倒壊し、跡形もないほどの荒廃ぶりを現していた。
馬車の上部窓から上体を出し、這いずるようにして外へ出た。たたらを踏み、横転した馬車から転げ落ち、そのままジョージは尻餅を付く。
が、痛がっている場合ではない。ジョージは改めて辺りを見渡した。無事な建物は一つもない。そのどれもがまるで戦にでも巻き込まれたかのようだった。
そういえば、従者はどうしたのか。慌てて後ろを見る。繋がった馬具によって、馬車と同時に馬も横転し、苦しげに嘶いていた。
見れば、馬車と馬との間に、従者は倒れ込んでいた。近付き、覗き込むようにしつつ、ジョージは側へと歩み寄った。
「――うっ…!?」
瞬間、ジョージは言葉を呑んだ。いや、正確には同時に、吐き気をも呑み込んだのだ。
まるでそこだけ雨が降ったかのように――赤い水溜まりが出来ていた。
その目は、天を見つめたまま。その口はポカンと開かれたまま。二度と動きはしなかった。
右の耳から左の耳へと、鈍い光を放つ矢が貫いていた。
ジョージの背筋を冷たい物が走った。ぞっとした。冗談じゃない。
誰かがたった今、矢を放ったのだ。その誰かは今も自分を狙っているかもしれないのだ。
右、左、と素早く様子を伺い、ジョージは走り出した。取り敢えず、知り得る限りの情報を総動員し、考えた。
見覚えのある路地。見覚えのある丘。
記憶さえ確かならば、既にコーラス領地最初の検問、サルタ・デル・ソルには着いている。
一つ角を越えさえすれば、検問所はすぐそこだ。そこまでいけば、そこまで辿り着けば、コーラスの兵士が出迎えてくれるに違いない。
息が切れるのもお構いなしに、ジョージは走り続けた。後ろを二度、三度と振り向きながらも走り続けた。
空気が生暖かい。気持ちの悪い、嫌な風が頬をゆっくりと撫でて通り抜けていく。
あと二メートル。あと一メートル。そして、角を曲がる――
「……は…?」
ぽかんと開いた口からは、素っ頓狂な声しか出てこなかった。
関所はあった。見慣れた城壁が、ジョージの眼前に立ちはだかっていた。
しかし、そこから覗く兵士の姿は――
【ギャギャギャギャギャ!】
【グェッグエッグエ!】
【グキャーキャッキャ!】
飛び跳ねる犬のような顔。手には質素な木弓。爛々とした赤い目が、あちこちの窓から覗いては消える。何十という獣の鳴き声が、検問所の中へ、外へと響き渡っている。
人間に敵対する一族。森の邪悪な妖精――コボルドの姿。
壁の上に立たされた幾人もの衛兵達。その身体は血で染まり、剥ぎ取られた鎧はまるで墓標のように打ち捨てられていた。
辺りに充満するのは陰鬱な血の臭い。それはまさしく――死の臭い。
へなへなとジョージの足から力が抜けていった。目の前の風景が信じられなかった。
「な…んで…?」
そう絞り出すように呟くしかできない。立ち上がる気力さえ湧いてこない。
そんなジョージを後目に、コボルド達は何事かを叫び合っていた。獲物が来たとでも言っているのか。それとも、誰が仕留める、とでも賭けでもしているのだろうか。
城壁の上に立つコボルドの一匹が天高く弓を掲げた。
【ギャギャギャァァァァァァァッッッ!】
獣のような雄叫びが響く。
弓を引き絞る。
鏃の先端は、ジョージの喉元にピタリと照準を絞っていた。
(…こ、こんな簡単に…終わっちまう、のか…?)
ジョージの脳裏に、たった一言。その言葉だけが浮かんだ。
それ程までに衝撃だった。故郷が、全てが、人外の者に蹂躙され尽くされた姿は、絶望を呼ぶに充分過ぎた。
矢が一直線に飛んだ。
銀色に光る鏃が目に眩しかった。
眼前に広がるスローモーションのような光景の中、ジョージはギュッと目を瞑るしかなかった。
死を、覚悟した。
衝撃。耳をつんざく金属音。そして、静寂。
じゃり、と土を蹴る音がする。いつの間にか、誰かがそこに立っていた。
「――なんだ? やぁっぱ、ジョージじゃねぇか。なにしてやがんだ、こんな所でよ?」
聞き覚えのある声。ひょうきんな、それでいて頼り甲斐のある野太い声。
「…どうやら、マナ・ライ様の言うとおりですね。」
そしてもう一つ。やはり記憶に新しい、艶のある少年の声。
恐る恐る顔を上げる。信じられなかった。
そんな筈はない。あの二人が、ここに居るわけがない。
次の瞬間! ジョージは突如、胸座を掴まれ、軽々と後ろに向かって放り投げられた。
「な、なななァ――っ!?」
宙を舞う感覚。そして、地面に激突する痛みが間髪入れずに襲い掛かる。
「…うげぇっ!」
蛙の潰れたような声を挙げるジョージ。否や、その場に大量の矢が飛んできた。雨の如く降り注がんとする殺意を前に、凛とした少年の声が轟いた。
「神の御名において盾をかざし給え! 『Turtle』!」
刹那、光り輝く円盤が眼前に立ちはだかり、飛び掛かる矢を次から次へと弾き返していく。
見紛うことはない。尻餅をついたままの体勢で、ジョージはその目を見開き言った。
「…お、お、お、お前らぁぁっ!? な、なんでここにっ!?」
そこにいたのは。
ド・ゴールで別れた筈の仲間達。
常識知らずの狂戦士イリューン。そして、我が侭魔術師ディアーダの二人だった。
「おう。まぁ、話せば長くなるんだけどよ。言うなら、野暮用ってぇヤツだわな。」
なぁ? とイリューンは隣に立つディアーダにアイコンタクトを送る。一瞥をくれ、
「大変な事が起きているようです。一刻も早く城まで向かわねばなりません。」
相も変わらず冷静にディアーダはそう言った。
「ま、取り敢えず…野良犬どもを成敗すんのが先だわな。…いっくぞぉぉぉぉッッ!」
頭上で二度、三度とハルバードを振り回すや、イリューンは腰元でそれを構え、雄叫びと共に駆け出した。
否や、凄まじい数の矢が飛んできた。しかし、それを次々と打ち落としながら、イリューンは無数の攻撃を物ともせず、検問所へと突っ込んだ。
激しい激突音。そして人の物とも獣の物とも思えぬ凄まじい叫び声。
後を追い、ディアーダもまた駆け出した。追って射掛けられた矢は、ことごとくディアーダの眼前で弾き飛ばされていく。理力の盾に違いなかった。
ジョージは勿論、危ないので物陰に隠れ、遠くから事の成り行きを見物する。
やがて、金属がぶつかり合う音が連続して聞こえたかと思うと、爆音が検問所の奥深くで鳴り響いた。さながら、活火山が噴火する直前のような音だった。
ディアーダが理力を使ったのだろうか? その音を最後に周囲に満ちていた獣の叫び声は小さくなり、辺りの無数の敵意は、やがて波が退くように消え去っていった。
ぱた、と音が消えた。静かになった。
恐る恐るジョージは立ち上がる。そして、忍び足で検問所へと近づいていった。
辺りは死屍累々。積み重なるコボルドの死体が紫の血を流し、煉瓦造りの床にペンキを零したかのような血溜まりを作っていた。
遠くに立ち尽くすのは、まるで鬼神の如き様相のイリューン。そして、それとは正反対に汚れ一つない美少年――ディアーダの姿。
ジョージは呆気に取られていた。
いかに普通の兵士達に比べ戦闘力のないコボルド共とはいえ、群れで砦を占拠すれば相応の脅威には違いない。それを、この二人はいとも容易く退けてしまった。
相変わらず、敵には回したくない奴等だ。そうジョージは思った。
ハルバードに付いた血を振り払い、イリューンは吐き捨てるように呟く。
「…コイツら、ただの火事場泥棒のようだわな。ヤバそうと見るや、さっさと逃げ出しちまった所を見ても、このクソ犬どもがここを襲った訳じゃぁなさそうだぜ?」
「それは、私も同感です。コボルド如きに国家の検問所が墜とされたなど、聞いたこともありません。死体にも、矢傷や刀傷が少なすぎますし。言うならば別の…そう、もっと凶悪な何かに襲われた、そんな印象ですね。」
ディアーダの感想に、思わずジョージは壁面に吊るされた兵士の死体を見上げた。
言葉通り、死体に残された傷は、コボルドに付けられるような代物ではない。それはまるで、巨大な獣の爪に引き裂かれたような、そんな痛々しい痕跡だった。
何が起きているのか。サルタ・デル・ソルが墜ちたとするならば、この先にあるコーラス城はどうなったというのか。そして、誰が何のためにそんな事をしたのか。
聞きたいことが山程あった。しかし、まずジョージは二人に詰め寄り、唾を飛ばした。
「…ど、…どういうこった? どういうこった!? わ、訳を聞かせろっ! イリューンっ! ディアーダぁっ!」