第六章 二幕 『水の都』
オレンジ色の西日が、船室の丸い窓から射し込んできた。
ギギギ、と舟板が軋む音。船の揺れが小刻みに辺りを包み込む。
やがて、少しばかり大きな揺れが船全体に伝わると同時に、大声が船室内に響き渡った。
「――追い風ぇッ! 帆を上げろ――ッ!」
騒がしい状況に寝惚け眼を擦り、ジョージがゆっくりと起き上がる。脳内で鐘が鳴っているかのようだった。
(うぅ〜〜、くっそ…頭が、頭が痛ぇぇ…うぉぉ…!)
万力に締め付けられるような痛み。こめかみを走る激痛に耐えきれず、再びジョージは倒れるように横になった。毛布を頭から被り、奥歯をひたすら噛み締める。
朝からずっとこの調子だった。
数日前、海の主を退けた功労者の一人という事で、しこたま呑まされたのが運の尽き。それから毎晩、ジョージは海の男達との宴会に駆り出された。
一日、二日程度なら、まだ我慢できる。しかしそれが既に一週間。
身体からは酒の臭いが取れず、頭の中身は起きているのか寝ているのかさえ解らない。
アルコールの混じった溜息を吐き、寝ていても同じと、ジョージはやっとの事で上体をベッドの上に起こした。昨日よりは幾分かマシな状況だった。
「おぉっす! ジョージ、もう夕方だぞッ! 起きてるかぁッ!?」
勢いよく開かれるドアの音。イリューンの声。
振動が空気を伝わり、脳が揺さぶられた。ジョージは頭を抱え込んだ。
「…どうした?」
「二日…酔いだ。…静かにしてくれ。」
ジョージがそう告げるや、イリューンはニヤリと笑い、力無い二の腕を掴み上げ、
「とにかく上に出ようぜ。ディアーダも待ってるからよ。」
「お、おぉい…!?」
そう言い、有無を言わさずジョージをベッドから引き摺り出した。
ガンガンとした痛みから、抵抗することさえ叶わない。ジョージはそのままズルズルと廊下を連行される。
やがて甲板に出ると、既に辺りは黄昏時。水面に陽光が反射し、オレンジ色をした海が出迎えてくれた。天気は良好、水平線の向こうには小さな島影が見えていた。
「あれがトンペイだとよ。順調なら明日の早朝には着くらしいぜ。」
イリューンが言った。
端の方で風に当たっていたディアーダが気付き、大股で近寄って来る。
「辛そうですね。」
「解ってるなら聞くな…」
しゃがみ込むジョージの頭にディアーダが手をかざした。暖かな光を感じた。
「流石に体内のアルコールを分解することは出来ませんが…回復を早めることは可能です。少しは楽になるでしょう。」
ディアーダが手を離すと、不思議なほどに頭がスッキリしていた。
「さ、サンキュー…」
言いながらジョージははにかんだ。ディアーダとも長い付き合いだが、最近の彼はどこか変わったと思った。どこが、と言われると答えに詰まるが、確かにジョージにはそう感じられてならなかった。
立ち上がり、空に向かって手をかざした。橙の光が指の隙間から漏れ、喩えようもなく美しかった。
「…色々あったな。」
突然、イリューンがそんな事を呟いた。
数秒の沈黙。後、ディアーダはそれに「えぇ」とだけ返した。
「まさか、東の端まで行く羽目になるとは思ってもいなかったぜ。」と、ジョージ。
素直に言ったつもりだったが、暗い顔を見せるイリューンに、ジョージは「そういう意味じゃない」と慌てて付け加えた。
「わぁってるよ。」
イリューンはそう言って笑う。ディアーダは何も言わず、空を舞うカモメに目を移した。
「陸が近いですね。」
その言葉にイリューンとジョージが小さく頷く。
同時に船室へと向かう扉が開き、おかっぱ頭の船員――タキが姿を現した。
「お、イリューンさん! 酒盛りの準備が出来たっスよ! 明日はトンペイ到着っスからね。ジョージさんも待ってるっスよ! じゃ!」
ニカッと笑みを浮かべ、タキは胸元をドンと叩くと再び船室へと戻っていった。ジョージは流石にウンザリといった表情。イリューンはその肩をバンバン叩き、
「人気者は辛ぇな!」
と、当て付けるように大声で言った。
ディアーダは鼻でふふ、と笑いを堪える。
ジョージはハァ、と大きく息を吐き、頭を掻き毟った。
カモメの鳴く声が輪唱する。やがて辺りは青黒く、海と空との境界を消していった。
――――
「港に着くぞ―――ッ!」
威勢のいい声が轟き渡った。
小さく頭を振り、眠気を吹き飛ばすとジョージはベッドから身体を起こした。
目を擦り、丸い船室の窓から外を覗く。広がるエキゾチックな風景。それはクラメシア帝国に着いた時以上の衝撃だった。
思わず船室を飛び出し、甲板へと駆け上がった。
海猫が鳴いている。港に迫り出した桟橋に帆船が横一列。遠くに見える山の麓には見たこともない奇妙な建物が立ち並んでいる。
鱗の様なタイルが屋根を覆い、原色の木造建築物が密集する。木々は針葉樹林のように縦には伸びず、何故か横に広がり滝のように垂れ下がっていた。
何より驚いたのは水路の多さだった。キチンと整備されたそれは縦横無尽に張り巡らされ、渡し守りが小舟を漕いでいる。それはまさに水上都市の様相。何も無いなどとアドンは言っていたが、その景観だけでジョージは感無量だった。
やがて渡し板が取り付けられ、三人は遂に彼の地に降り立った。
東国トンペイ。人口五十万を超えるこの都市は、浮島に建造された水の都である。
ラキシア大陸でも最東端に位置する為、内需を満たしているのは主に水産業と貿易だ。第二次ラキシア大戦時はクラメシア帝国領に組み込まれていたが、大陸の位置関係上、帝国の支配が満足に届かず、最終的には先住民による統治を名目に特殊領地として独立を遂げる事となった。現在の領主はトウショウグウ・ゴンゲン。トンペイ国皇帝である。
トンペイは世にも稀な封建制君主国である為、その支配力は他の国の比ではなく、皇帝の実権は多岐に上る。実体が掴めていない部分も多く、謎大き島国とも呼ばれていた。
腕組みをしながら、アドンが三人の背中に向かって告げた。
「イリューン、次に発つのは三日後よ。それまでに用件が終わるならまた乗せてくわ。」
「そうか。色々サンキューな。」
礼を言うイリューンに続けて、薔薇族の甲板からメッキー、タキ、ジワラの三人が降りて来た。まるで先を競うように、三人は次々とその口を開くと言った。
「俺達もイリューンさんに負けないよう頑張るっスよ!」
「見ててくださいっス!」
「任しとくっス!」
自信満々なその様子に、イリューンはニカッと満面の笑みを浮かべた。そして、
「おう! 期待してるからよ!」
と一言、力強く激励した。
ガッツポーズを返す三人。それを見てイリューンは大きく片手を挙げ、別れを惜しむようにゆっくりと左右に振るのだった。
やがて、イリューンはジョージ、ディアーダに顔を向けると小さく頷き、一人市街に向かって歩き出す。
慌ててジョージが後を追う。ディアーダは横について歩を進めた。
「…ところで、行き先は見えてるんですか?」
「それが、サッパリだ。バルガスの魔力も感じねぇ。どうなってやがるんだか。」
「お、おいおい!? 東の果てまで来て手掛かり全く無しかよ!?」
慌てるジョージだったが、イリューンはお構い無し。街の端に位置する宿を見つけると、真っ先にその入口を潜り抜けた。垂れ下がる布で仕切られた、変わった門口だった。
客に気が付いたのか、カウンターから男が顔を出し、開口一番にこやかに声を上げる。
「いらっ××いやし!」
訛りのあるクラメシア語。トンペイは一応、クラメシアの属国扱いである。従って、共用語のラキシア語については怪しい人間が多い。
どうにか聞き取れるレベルだったのは幸いだった。ジョージはイリューンの左隣から顔を出し「しばらく泊まりたいんだ」と、身振り手振りを交えて交渉を開始した。
が、なかなか巧く伝わらず四苦八苦。その顔に焦りの色が見え始める。
「……」
しばらく黙っていたディアーダだったが、ずい、と一歩前に出る。
「手伝いましょうか?」
そう言うと、ディアーダは流暢なクラメシア語で店員との応対を始めた。
すぐさま店員は頷き、笑顔で三人を先導する。クネクネと曲がる長い廊下を進み、奥の大部屋へと三人を案内してくれた。
「…パーフェクト超人かよ、お前…」
「そうでもないです。私にも出来ない事は沢山在ります。」
謙遜にしか聞こえないが、敢えてジョージはそれ以上は何も言わない。店員が訛ったラキシア語で「ごゆっくり」と告げた後、席を外す。木と紙で出来たスライドドアを開けると、三人は今までで一番変わった宿の一室に目を見開いた。
中ぐらいの二間が繋がった部屋だった。草を編んで作られた床板。荷物を置き、どうしたものかと思いつつも、やがて三人は順応し、その場でゆったりと足を伸ばし始めた。
「…ふむ。まぁ、慣れればこういうのも悪くはないですね。」
「何でもいいんじゃねぇの? 俺はメシさえ美味ければある程度は許せるがな。」
「またお前は…でもまぁ、それはもっともな事だろうけど。」
観音開きの窓から覗く風景はのどかで、来た目的すら忘れさせてしまう程の静けさだった。
――が、突如!
爆音、震動――そして、甲高い悲鳴。
「うわぁァァァッ!」「きゃぁぁぁッッ!」
焦げ臭い匂いが一気に辺りを蹂躙する。煙。喧噪。立ち込める恐怖。
反射的に床を蹴り、イリューンが真っ先に部屋を飛び出した。
ジョージ、ディアーダがそれに続いた。長い廊下の突き当たり、先に出たイリューンが立ち尽くしていた。その顔が引き吊っている。何事か、と駆け寄ろうとする二人に向かって、イリューンが必死に叫んだ。
「駄目だ、戻れぇッ! 囲まれやがったぁッ!」
「!?」
驚き、ジョージがおろおろとしながら廊下の壁に手をついた。
瞬間、その壁が光輝く。熱を持つ。何かヤバい。
「危ないッ!」
いきなり横から突き飛ばされた。床を転がった。
刹那、その場が勢い良く――爆音を上げて吹き飛んだ。
顔を上げる。ジョージはそこに信じられない光景を見た。
「で…ディアーダぁッ!?」
血塗れの顔。爆風で乱れた髪。漆喰で作られた壁には穴が空き、その向こう側には黒焦げの死体が転がっている。同じ宿の住人らしかった。
「な、なななな…何だ!? 一体、何なんだぁッ!?」
「ジョージッ! 動くんじゃねぇッ! 見たことがある…こいつは…フォースボムだッ!」
イリューンが声を荒げた。焦燥感溢れた顔が離れた位置からも確認出来る。糸を引くように、ピーンとした緊張が張り詰めていった。
フォースボムとは、理力使いによる屋内戦用の戦略技術である。理力を一定時間、引火性物質に留まらせる事により時限発火させる――平たく言えば、爆弾だ。
第二次ラキシア大戦の頃に確立された技術だが、ゲリラ的要素が高く非人道的であるとされており、現在ではクラメシアの一部団体でしか使われていない。
一部団体とは即ち、法務執行を皇帝に成り代わって行う――暗殺団だ。
【…これはこれは。まさか手配中のテロリストが掛かるとは。】
男の声。耳障りな甲高いそれは廊下を反響し、何処からともなく聞こえてきた。
苛立ちを隠さず、イリューンはハルバードを抜き放った。
「どっちがテロリストだ…ふざけやがって! クラメシア暗殺団だな!?」
【ヒヒ…アムルド様もお喜びになるだろう。ついでだが、覚悟するが良かろうて。ヒヒヒ】
周囲を見回すジョージだが、吹き飛んだ廊下にはイリューン以外に姿は見えない。声の主は何処かに潜み、虎視眈々と此方を狙っている。
しかし、このままじっとしている訳にもいかない。ディアーダの手当てをしなければ。
ジョージは辺りをもう一度見回すと、イリューンに向かって叫んだ。
「イリューン! 何処だ!? 何処にボムがある!?」
「…判らねぇ。巧い具合に隠されてやがる…!」
「お前なら…竜の記憶が戻ったお前なら、理力を感じ取れないか!?」
「…簡単に言うがよ、魔法ってぇのは感覚的なモンなんだよ! だが…そうも言ってらんねぇな。物は試し、やってみらぁ!」
イリューンは徐に眼前でハルバードを構えた。その目に光が宿った。辺りの空気が一瞬、薄まったような感覚が奔る。
イリューンはすぐさま顔を上げ、大声を放った。
「ジョージッ! 目の前の床と左の壁には触れるなッ! 仕掛けてありやがる!」
「よしっ! 取り敢えず建物を出るんだ…! ここにいる限り、俺達は鳥籠の中だぞっ!」
「言われんでもな。クソ野郎め…竿を引きちぎって口の中に突っ込んでやるぜ。」
ディアーダに肩を貸し、ジョージはゆっくりと歩き出す。イリューンに言われるとおり、細心の注意を払いながら廊下を進んだ。
時間を掛け、イリューンの側へ這い寄る。取り敢えず剣を抜いたものの、出来ることは無いだろう。自分の力不足を否応なしに感じさせられ、ジョージは口惜しさに歯噛みした。
イリューンの立ち位置からは玄関先が見えている。
が、辺りの様子から人の気配は感じられない。トンペイはクラメシアの属国。これだけの大騒動を起こしているにも関わらず、誰一人やってこない事実に暗殺団の影響力の大きさを感じ取れた。
「…キツイな。味方は無しか…」
「まだ、オメェがいるじゃねぇか。一人でもいりゃ、最悪には程遠いぜ?」
イリューンが嗤う。こんな時だというのに、これっぽっちも弱音を見せようとはしない。
そんな彼を見て、ジョージは奥歯を噛み締めた。自分に出来ることは本当にないのか? 力になれることは何一つとしてないのか?
「…お前がここから動かないってことは、玄関口は…駄目なんだな?」
「あぁ。どこもかしこもボムだらけだ。一歩でも踏み込んだら誘爆しやがるぜ。」
ジョージは考える。そもそも、暗殺団は何故ここに来たか。
(…まさか手配中の…ついでだが…?)
どう思い返してみても、話の内容からイリューンが目的ではない。誰か別の人間を狙っていたかのような科白。
セオリー通りなら、玄関を潰したのは逃げられないようにする為だろう。
――ならば、この敵は一体何処にいる?
「…イリューン、まだ魔法は使えるな?」
「あぁ。名案か?」
「奥に人がいるか解るか?」
「やってみなけりゃ判らねぇ。さっきも言ったが、そもそも魔法ってのは意識して起こすモンじゃねぇ。飛びたいから飛ぶ、燃やしたいから燃やす、その程度のモンなんだ。」
「…なら、聞いてくれ。俺の想像が正しければ、この宿にはまだ人がいる。クラメシア暗殺団はそれを狙って来たんだ。姿を隠しているんじゃない。その人間を逃がさない為に、そこから離れたくても離れられないんだ。」
「…成る程な。言いたい事は解ったぜ。モノは試し…よし、任せろッ!」
目を瞑り、イリューンはじっと耳をそばだてる。魔力の光がその身体に集まり、次の瞬間、軽い音を立ててそれは弾けた。
カッと、イリューンが目を見開いた。同時に、視線は奥の部屋へと向けられた。
一も二もなく走り出した。風の如く。否、猫の如くだった。
ジョージはその場でディアーダの介抱をしつつ、遠ざかるイリューンの背中を見つめた。
「…気をつけるんだぞ、イリューンッ!」
堪らず大声を出していた。まるで自分の事の様に、ジョージは本気で友を気遣っていた。
――――
ただひたすらに、イリューンは走った。
曲がりくねる廊下を駆け抜け、部屋と部屋との境を跨いだ。
壁を見れば、床を見れば、そこに幾つもの光の輪。フォースボムの理力が浮かんで見える。
それを避けながら、突き当たりのスライドドアに手を掛けた。
瞬間、取っ手が燃え上がった。イリューンの瞳が妖しく輝いた。
激しい爆風。爆煙。だが、イリューンは全てを弾き返した。その手に防御の魔力が宿っていた。爆炎は、薄皮一枚を焼いた程度に留まった。
「やりやがったな…! クソッ、只じゃおかねェッ」
吐き捨て、焦げたドアを蹴破った。奥にはまた長い廊下。その先には格子状に輝く光に包まれた理力の壁。フォースボムの結界だ。
「――上ッ等ォォォッ!」
走りながら手の平に火球を作り上げた。寸での所で大きくピッチングフォームを取り、思い切り振りかぶると、突き破れと言わんばかりに壁に向かって投げ付けた。
火球が飛ぶ。追ってイリューンが駆ける。目の前で光の壁にぶち当たった火球は連鎖的に輝き、眩いばかりの閃光を見せたかと思うと、大音響を上げて吹き飛んだ。
飛び散る木片。炭化した扉、廊下に敷かれた板が弾け飛び、屑と化して砕け落ちた。
そんな中をイリューンが跳んだ。奥の部屋に転がるように飛び込んだ。そこには黒い服装をした男の姿――クラメシア暗殺団に違いない。
吹き飛んだ壁を呆然と見つめ、男はその場に立ち尽くしていた。何が起きたのか全く理解出来ない様子。まさか誘爆するのも厭わず、突っ込んで来る人間がいるなどとは思ってもいなかったのだろう。
それは、時間にしてほんの僅かな空白。
慌てて男が腰元から剣を抜いた。が、全ては遅すぎた。
抜くや抜かずや、すれ違い様にイリューンのハルバードが男の身体を捉える。次の瞬間、胸元から血を噴水のように吹き出し、男は部屋の片隅まで宙を舞った。
激突音。壁が衝撃でひび割れ、パラパラと細かな破片を床に落とす。男はそのまま、ピクリとも動かなくなった。術士が倒れた事により、辺りに設置されたフォースボムは理力を留めておくことが出来ず、全てが同時に消滅した。
「…人を舐めるからこうなりやがるんだ。…ッと、まてよ。そういや何をしてるか、生かしておいて聞くべきだったな。」
ヤベェ、と舌打ちをするが、今更どうにもならない。
頭をガリガリと掻き毟った後、あっけらかんとイリューンは言った。
「…ま、やっちまったモンはしゃーねぇわな。」
「な、何が仕方ないダスかぁッ!」
突然、突っ込みが入った。
声の主を確かめるべく、イリューンは部屋を隅から隅まで見渡した。
朦々と沸き立つ黒煙の中、ゲホンゴホンと咳を立てながら、炭で黒くなった顔を擦りつつ年輩の男が顔を出した。歳の頃は五十代半ばといった所だろうか。恰幅のいい体格に、短く刈り揃えた髪。二重顎。首の後ろが脂肪で三段になっている。この分なら、俵のような腹も同じ数だけ分かれている事だろう。
「あ、危うく死ぬところだったダス! な、何なんダスか一体!?」
男は狼狽した様子でイリューンに詰め寄った。イリューンは首を傾げつつ訊いた。
「…オッサン、何モンだ?」
「そ、それはワシの台詞ダス! 見た所、どこぞの傭兵のようダスが…ワシを皇宮鍛冶師コウテツロウと知っての狼藉ダスか!?」
「…まぁ、待てって。成り行きでこんなやり方になっちまったが、ある意味オッサンを助けに来たのかもしれねぇぜ?」
白々しい台詞。つい数秒前に目の前で暗殺団の息の根を止めておきながら、舌の根も乾かぬ内に助けに来たと言える性根は凄いの一言。
コウテツロウと名乗った男は訝しげにイリューンを見つめつつ、息を整えながら言った。
「…どうやら、皇室警備人ではないようダスな。一安心ダス。確かにある意味では、軟禁されていたワシを助けてくれたとも思えるダスしな。思い返せば…宰相サブリナのせいで今のワシは追われる身。口惜しい事ダス…」
それは驚くべき言葉。そして同時に、三人の目的を繋ぐ言葉。
反射的にイリューンはコウテツロウの胸元を掴み上げ、怒鳴り返した。
「今…サブリナと言ったな!? どういうこった!? サブリナが何だ!?」
顔の高さまでその身体を持ち上げ、ガクガクと前後に振るう。興奮するイリューンを余所に、首元を締められたコウテツロウは呻くばかり。
そうこうしている間に、徐々に辺りの空気が騒がしくなり始める。警戒体制が解かれたようだった。
周りの様子をぐるりと見やり、ふぅ、とイリューンは一息を吐く。
尖った空気をもう一度吸い込み、イリューンは鋭い目つきで再びコウテツロウを睨め付けた。苦しげに宙を見つめるこの男は、一体何を知っているというのか。
トンペイ到着後間も無く、波乱の幕開けであった。