第三章 三幕 『炎龍バルガス』
静けさが漂う異次元空間で、バルガスの笑いだけが木霊した。馬鹿にしたようなそれは、非常に耳障りで――苛ついた顔を見せ、イリューンは吐き捨てるように言った。
「…何が可笑しい…! えぇッ!? 言ってみやがれッ!」
「…退路を自ら断ったということは…ここで仕留めるつもり、ということですね…」
「こ、こうなりゃもう、やぶれかぶれだ…っ! ち、ちっくしょぉぉ…!」
三者三様の反応に、バルガスはピタリと笑いを止め、ゆっくりとこちらに向き直った。その視線には凄味があった。寒気さえ感じさせる程のものだった。
バルガスは言った。
「…ゴードン、とか言ったか…あのオヤジ。少しは、身内を失う気持ちが解ったか…?」
「何だと、この…ッ!?」
イリューンの言葉を途中で遮り、バルガスは続けた。
「…転移理力を使ったのは、今はクラメシアに傷を付けたくないからだ。我が主にも『コイツ』を街中で使うのは、未だ早いと言われているんでな…」
否や、ガチャリ、とバルガスは巨大な両刃剣を目の前に振り下ろした。炎色の刃。柄に埋め込まれた紅い宝石。それは、かつて味わった恐怖そのものだった。
「…ま、魔剣…!」
「…炎魔剣…ブラッディ・ローズ…ですか…!」
ジョージ、ディアーダが呟いた。バルガスはフン、と鼻を鳴らし、
「折角、手懐けた衛兵が、巻き込まれてしまっても困るんでね。…奴等には、第三次ラキシア大戦を起こしてもらわねばならんのだからな…! ふっふっふ…ふふふふふふ」
その言葉が、バルガスの目的を端的に象徴していた。クラメシア帝国までもが、巨大な闇に操られていた。それが邪教と関係しているかどうかは解らないが、少なくとも最大級の脅威が世界に差し迫っていることだけは間違いなかった。
やがて、バルガスは含み笑いを止めた。そして、
「…だが、その前に…! イリューン! 貴様だけは許さんッ! 今こそ――今こそ、このバルガス・ノア・ドラグーンがッ! 父の恨みを…晴らさせてもらう! いざぁッ!」
言うや、強く踵を蹴った。バルガスが突っ込んできた。一瞬、目の前でハルバードを構えたイリューンだったが、すぐさまハッとし、隣に立つジョージ、ディアーダを蹴り飛ばした。
「…ぐはぁっ!?」「…がっ!?」
数メートルを飛び、二人は床を転がって倒れ込む。同時に、イリューンは一歩前に出ると、バルガスの延長線上から身体を逸らすべく、床を蹴った。
刃に炎がとぐろを巻いた。魔剣は振り下ろされた。爆音、灼熱、そして閃光が辺り一面に満たされた。
「う、うぉぉぉぉぉっっ!」
「ぐはぁぁぁぁッッ!?」
「――ぐぅぅっっっっ!」
凄まじい爆風。吹き飛ばされる三人。最初の一撃をイリューンがハルバードで受け止めていたなら、今頃は全員が消し炭だった。
返す刀で、バルガスが魔剣を薙ぎ払う。三日月型をした灼熱の理力が飛んだ。転がるようにして、辛うじてイリューンはそれをかわした。
機を逃さず、攻め入るバルガス。跳ね起き、迎え撃つイリューン。
頭を振り、いち早く立ち上がったディアーダが走った。バルガスを追い、射程に入るや足を止める。その掌に光が集まっていく。口中で攻撃呪文を唱えた。
「…炎にて焼かれ、浄化されよ! 『Salamander』ッ!」
閃光が炸裂した。炎の塊が弾け、空中で火蜥蜴が軽やかなダンスを踊った。
バルガスがニヤリと唇の端を持ち上げた。余裕の表情だった。
「無駄だ…!」
呟くバルガス。瞬間、ディアーダの放った火球が火の粉を上げ、散った。掻き消された、といった方がいいだろうか。バルガスの目の前数センチで、炎の理力は完全に霧散した。
「ば…っ! 馬鹿な…ッ!?」
ディアーダは動きを止めない。対角線の反対をイリューンが廻る。ハルバードを肩口に担ぎ、ジグザグに動きながらバルガスの隙を狙っていた。
ジョージは腰を抜かしたまま、二人の動きを見守った。しかし、このままでは以前の二の舞と、膝を立てて立ち上がり腰元で剣を構える。
まともに戦っては勝ち目がない。ジョージに出来るのは、奇襲攻撃以外にない。
そっと、バルガスの背中へ回り込んだ。ジョージの動きを察したのか、イリューンが足を踏み鳴らし、宙に舞った。
大上段からハルバードを振り下ろした。その身体に触れるか否か――バルガスは手にした炎魔剣でそれを受け止めた。
鍔競り合う二人。ディアーダが再び呪文を唱えた。
「…放て弾道、貫け雷光! 『Eagle』ッ!」
光の弓が空中に浮かび上がる。放物線を描き、無数の光がバルガスを穿つ――が、結果は同じだった。炎の理力と同じく、それはバルガスの目前で炸裂。儚げな光の塵となり、空中に霧散し消えていく。
「ま…まさか――!?」
青冷めた顔で、ディアーダが叫んだ。同時に鍔競りを弾き飛ばし、バルガスは目の前のイリューンに向かって剣を振った。
大上段から袈裟、そして振り上げる! それをイリューンは避け、飛び退いた!
一回転――バルガスの後ろ回し蹴りが、一瞬早くイリューンを捉える。重い一撃に身体をくの字に折り、イリューンは踵を引きずり後退った。
堪え切れぬ愉悦に顔を歪め、バルガスは高らかに言い放った。
「…そこのお利口さんは気付いたようだな。そう…! 俺はイリューンを倒す為なら、何でもするッ! 禁じられた技に手を出すぐらい何でもないッ! …そして、そこの貴様ッ!」
ギラリと、そっと傍まで近付いていたジョージを、バルガスは突き刺すように睨め付けた。当然その場から足早に、再びジョージは大きく距離を取るように逃げ出した。
「…この間は貴様のせいで不覚を取った。…今度は、容赦しない! イリューンの息の根を止めたなら、次は貴様の番だッ!」
燃え盛る炎魔剣。それはバルガスの怒りを象徴しているかのようで、ジョージはこの場にいることを、今更ながらに後悔した。
(や、やっぱり、覚えてらっしゃったのね…! く、くそぉぉっ…! も、元はと言えば、イリューンに付き合ってからこんな目にばっかり…!)
足が震えた。その場に立っていることさえやっとだった。そんなジョージを余所に、ディアーダは苦虫を噛み潰したような顔を見せ、言った。
「…断属性理力、ですね…! 本来、生命力の根幹となっている理力は、外界と内界との繋がりによって保たれている。それを…無理矢理、切り離したのですか…ッ!」
「…ほぅ、流石だな。何処で習った? ギルドか?」
バルガスが感心した声を出した。黙ってそれに頷くディアーダ。蹴られた腹を押さえ、咳き込みつつイリューンが訊いた。
「…げほっ…! …ど、どういうこった? 俺にも解るように説明しやがれ…っ! …ごほっ!」
「つまり…彼は命を削る代償として――」
ゆっくりとディアーダは口を開いた。その顔は、自分が言おうとしている言葉さえ信じられないといった様子。自らそれを噛み砕き、理解しようとするかの如くだった。
「如何なる理力であっても――それを『完全に無効化する事が出来る』んです…ッ!」
言葉と同時に、炎魔剣が再び燃え上がった。紅蓮の炎がバルガスの身体を取り囲んだ。普通ならば、火傷では済まない程の火勢。オレンジ色の熱風が辺り一面に吹き荒れる。
その業火の中でバルガスは嗤った。高らかに嗤い続けた。
「くっくくく…その通り! だから、俺は――俺は、こんな事だって出来るッ! …勝てるか? イリューン! 今の俺にッ!? 今の俺にィ、勝ぁてェるゥかぁぁぁぁぁ―――ッ!? はぁ―――ッはっはははははッ!」
燃え盛る炎は、まるで生物のようだった。一つの命持つ大蛇の如く、バルガスの身体に巻き付き、鎌首をもたげ、威嚇するかのよう――その姿はまさに、炎龍だった。
イリューンは唾を呑んだ。ディアーダは奥歯を軋ませた。そして、ジョージはあまりの力の差に、その場にへたり込んだ。
(か、か、か…! 勝てるわけ、無えぇっ……!)
カチカチと歯がどうしても噛み合わなかった。かつて無い恐怖に、言葉さえ出てこなかった。ジョージは目前の悪魔に、自らの死を見ていた。
――その時。
バンッ、と激しく足を踏み鳴らす音。振り返れば、イリューンが怒りに燃えた顔でバルガスを睨め付けていた。
「ふざけるなよ…! たかが炎の一つや二つ…! …なぁめぇるぅなぁぁぁぁッ!」
真一文字にハルバードを構え、イリューンはバルガスに突っ込んだ。イリューンは諦めていなかった。ディアーダもそれに合わせ、再び呪文を唱え始めた。
「来れ神々の衣! その身に纏いて我が身を守れ! 『Hermitcrab』ッ!」
掌に集まった理力の光が舞い上がり、光の鎧となってイリューン、ディアーダ、ジョージの身体を覆う。襲い掛かる火の粉は次々と、理力の鎧に弾かれ消え去った。
守りの理力に後押しされるように、イリューンが跳んだ。炎蛇が一斉に襲い掛かる。時同じくして、ディアーダがその横に回り込んだ。呪文を唱えていた。
「――氷れ空気! 狭間に時を閉じ込めよ! 『Clione』ッ!」
突如、何もない空間に水蒸気が発生し、一瞬にして巨大な氷の塊へと変化した。続けてそれは破砕し、鋭利な氷の弾丸が炎蛇目掛けて次々と降り注いだ。
連弾。衝撃音。氷は一瞬にして蒸発し、朦々とした水蒸気が立ち上る。
おぼろげな影の中、イリューンの一撃が繰り出された。ハルバードと魔剣がぶつかり合い、重い撃鉄音が耳を劈いた。
着地、石突きを回転させ、イリューンの強烈な足払い。それを軽く跳び、かわし、バルガスは魔剣を振るった。炎がイリューンに襲い掛かる。光の鎧がそれを弾き返していく。
辺り一面、髪の毛の焦げる臭いが漂った。
走り、ディアーダがバルガスから一定の距離を取った。理力を回復すべく目を瞑り、ディアーダは必死に精神を集中させた。
ジョージは左右を見回し、立ち上がった。何処までも前向きなイリューンに勇気を与えられた。諦めないディアーダに教えられた。思い返せば、絶体絶命の今であっても、どうにかなりそうな気がしてきた。
(…そうだ。あの時も、あの時もそうだった…! 覚悟を決めなければ、生き残ることなんて出来やしない…っ!)
ジョージは意を決した。立ち込める水蒸気の中、バルガスの気配を必死に探った。イリューンの怒鳴り声、ディアーダの呟きがその方向を教えていた。
大体を定め、腰元で剣を低く構えて固定する。特別な技術があるわけじゃない。ならば、一撃に賭けるなら――これしかない。
固唾を飲む。腹に決める。足を一度、踏み鳴らし、ジョージはバルガスのいるであろう方向へ踵を蹴った。体当たりの要領で、とにかく剣ごとバルガスに突っ込んだ。
(…当たれば…っ! 当たりさえすれば…、起死回生の可能性があるッ!)
熱風が吹き荒ぶ。立ち込める水蒸気の中を突き抜ける。舞い上がる火の粉が、身体を覆う光の鎧に弾かれていった。
瞬きを一つ、二つ――瞬間、目の前が開けた。
眼前でイリューンが一回転、そして跳んだ。ディアーダが側面へと回り込んだ。バルガスは背を向けていた。その身を包む炎が消えている。チャンスだった。
微塵程も躊躇はなかった。これが当たらねば命が危うい。自分だけではない。イリューンを、ディアーダの命をも、ジョージは背負っていた。
「…うぉぉぉぉぉおおおおおおおッッッ!」
雄叫びを上げた。渾身の力を込め、ジョージはバルガスの右側面へとブチ当たった。
肉が抉れる感触。音。鮮血。生暖かい赤がジョージの顔を濡らしていく。
(…や…やった…か?)
張り詰める緊張感。ジョージはもう一度、唾を呑んだ。
そして顔を上げ――絶望した。
その切っ先は、確かにバルガスを突き刺していた。しかしそれは…掌。寸での所で、バルガスはジョージの凶刃を受け止めていた。貫通した剣を握り締め、そのままジョージを凄まじい力で引き込むと、バルガスは怒声を上げた。
「…不意打ちが…ッ! 二度も三度も、通用するかァ―――ッ!」
一層の激しさで炎魔剣が燃え上がる。バルガスの身体が再び炎に包まれた。否や、頭上高く魔剣を振りかぶり、バルガスは一息にそれを足下へ打ち下ろした。
――閃光。轟音。
――爆風。熱線。
――衝撃。烈風。
今まさに、飛び掛かろうとしていたイリューン。呪文を唱えようとしていたディアーダ。そして、動きを止められたジョージ。三人は爆発の影響をモロに受け、数十メートルという距離を為す術もなく吹き飛ばされた。
爆裂の理力。以前までのバルガスなら、自らも巻き込まれる事を恐れ、至近距離ではそれを使おうとはしなかった。しかし、今の彼にはその必要がなかった。むしろ必要に駆られ、進んで大爆発を引き起こした。
「ぐ、あぁぁぁぁ…! く、くそぉぉぉ…ッ」
「ごほっ…ぐ…ごほっ! り、理力が…通用…しない…」
「う、腕が…、…足が…っ! し、死ぬ…本当に…死んじ…まう…!」
呻く三人を前に、大股でバルガスが距離を詰めた。ジョージの意識は朦朧。理力の鎧の御陰で、一命は取り留めたものの、既に身体は言うことを聞こうとはしない。
今にも閉じてしまいそうな瞼の端に、同じく倒れ込むディアーダ、宙を掻くイリューンの姿が見え隠れする。二人とも、まだ息はある。しかし、それは風前の灯火だった。
(…い、リュー… 、ディア…、…逃、げ…ない…と…)
声が出なかった。全ての力が消え去ってしまったかのようだった。
手を伸ばす。その手は何を掴もうというのか、力無くジョージは空を掻く。
指一本動かせないイリューンの側にバルガスは立った。そして徐に――足を振り上げ、その顔を踏み潰した。
ごちゃッ、と鼻の潰れる嫌な音がした。「げっ、」と一言だけ蛙の鳴いたような声を上げたイリューンだったが、それでもバルガスは容赦しない。そのまま二度、三度と倒れたイリューンの顔を踏み付ける。
堪らず顔を庇い、虫の這いずるような速度で丸くなるイリューン。その身体を、背中を、腹を――何度も、何度もバルガスは蹴り飛ばした。憎しみが目に見えるようだった。
何が彼をこれ程までに駆り立てるのか。どうしてそこまでイリューンを憎むのか。やがて、イリューンは血と反吐にまみれ、完全に動かなくなった。
肩で息をしながら、バルガスはイリューンの首根っこを掴み、ボロボロの顔を目線の高さまで持ち上げると、
「…く…くくく…! く、くはっ…く…ふははははは! わっははははははッ!」
堪えきれず笑った。それは彼にとって歓喜。そして、最高の愉悦だった。
響き渡るバルガスの嘲笑。やがて、卵の殻を剥くかの如く――空間が捲れ、砕け、一瞬にして全員は元の場所へと戻ってきた。
飛ばされる前同様、アジ・アダフ前広場では衛兵達が厳重な警備を敷いていた。どこまでも澄んだ青空が、今の状況と相反し、あまりにも現実離れした空気を醸し出していた。
ボロ雑巾を投げ捨てるかの如く、バルガスはイリューンを道のド真ん中へと転がす。
ゴロン、と巨体が仰向けに横たわる。全く動こうとしないその身体を勝者の顔で見下ろし、
「以前の俺なら、この場で素っ首叩き落としていた所だが…我が主の命なんでな。」
そう言って、バルガスは炎魔剣を背中に背負い、高らかに右の指を弾き鳴らした。
それを合図に、散っていた衛兵達が一斉に集まった。彼らは一様に虚ろな目で――倒れ込むイリューン、ディアーダを担ぎ上げると、何処かへと二人を運んでいった。
見やりつつ、再びバルガスは口を開いた。
「…イリューン、貴様には第三次ラキシア大戦の狼煙となってもらうぞ。…くっくっく…! それまでは、お友達も生かしておいてやる。慈悲深い俺様に感謝をするんだな。ふふふふ…はァ―――ッはははははッ! 連れて行けッ!」
その言葉を最後に、ジョージは心の支えを失い、再び地面に突っ伏した。暗闇が辺りを包み込み、絶望感が大きく背中に伸し掛かった。
(…これが、…死…なのか…)
閉じた瞼の中、暗黒を見つめながら、ジョージはそんな事を思った。
衛兵が両肩を掴み、引きずられる感覚が重く――やがて、ジョージは完全に意識を失った。
太陽が天高く、燦々と輝き続けていた。強い陽光は濃い影を地に落とす。その様は生と死と、勝者と敗者と、明と暗とを、ハッキリと区分けしているかのようだった。