第0話 結章 始まりの終わり、終わりの始まり
「ぁ……?」
無い。
さっきまであった右腕が無い。
噛みちぎられたのでも、斬り落とされたのでも無い。
──奪われた。
遅れてかつて無いほどの激痛が断面から足の爪先まで全身に広がっていき、噴水が逆転したような勢いで赤黒い液体が信じられない量で噴き出していく。
ドクンドクンと高鳴る鼓動が脳に響いてうるさい。荒れる呼吸が静まる気配を感じさせない。言葉が出ない。死が目前まで迫って来た。
絶叫。
「うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
「所詮は人間、失っての無力で平静は保てない」
悠真には何も見えなかった。
異能力者同士での戦闘に置いては愚の骨頂である、自らの異能力の開示をした霧宮が伸ばした左手。
最悪の魔女が違和感を覚え、危惧するほどの力が秘められたその左手。
膝から崩れ落ち、おぞましい吐き気と激痛に襲われて地べたを舐める距離で嘔吐く悠真。
痛い。痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い辛い死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない。
「ああ!! がぁっあ……ぬぁ、うぶ……ばぁ……」
負の感情が脳内を木霊し、血がドボドボと流れていくに連れて寒気が襲ってくる。
意識がだんだん遠ざかっていくリアルな感覚がさらに恐怖を増大させ、玉の汗が止め処なく全身から噴き出し続ける。
「悠真!!」
「もちろん回数制限はある、日に2つが良い所だ」
もう身体強化の異能力を使う者はいない。悠真の右拳の前に欠片1つ残さずこの世から抹消された。
だが霧宮は、それこそ音速でクレアの前に立ちはだかる。両手をズボンのポケットに突っ込み、先ほどまでの奇怪にも思える笑みを跡形も消して。
「……2つ……その程度で008は無いな」
「当然だ、だからお前達は俺に協力してくれたじゃないか」
察したクレアは苦虫を噛み潰したような表情を見せた。
何ならそれほど危険な異能力を所持する霧宮が、何故008程度なのかも不思議でたまらない。
「──指名した対象が1人死ねばストックは1つ増える……だからまあ、あと4回でお前達を殺す」
命の犠牲が伴う異能力。
クレアが使用出来る異能力にも十指で数える程度にあるが、孤独な魔女は使う機会には恵まれなかった。
たった1度でいとも容易く人の心を折り、人の命を奪うとてつもない強さの異能力の、使用回数を増やすために殺す。
悪意のために存在しているかのような〝拒否権など無い〟を存分に発揮する霧宮に、クレアはやはり好かないと確信した。
「おいおい……彼らは仲間じゃなかったのか?」
「ああ、大切な保険だ」
同じスーツを着た女、メガネの男、エネルギー波を放つ男を捨て駒とし、使用回数を2回から5回へと引き上げた。
誰も逆らえない、抵抗手段の無い破滅的な異能力を前に、クレアは自身を含めた人という生き物の愚かさを悟りだした。
「お前は何のために私を狙うんだ」
「金」
「お前にとって大切な誰かを私が傷付けた訳では無い、と」
「無いな、家族は異能力の検証で全員死んだし、仕事以外の関係者はいない」
受け入れがたいが、紛れもない事実である事は真偽を確かめる異能力を駆使して読み取れた。
しかしどうしてだろうか、クレアは霧宮に同情し、いつの間にか哀れむ目で視線を交わしていた──
殺した人間の数ならば、クレアも霧宮に負けないだろう。
どれも001である最悪の魔女を殺し、成り上がろうと目論む陳腐な異能力者と対峙し、自衛のために殺した人間達。
孤独、無情、無関心なクレアはそれによって散っていった命を何とも思わなかったし、今も特に何も思っていない。
やはり自分は最悪の魔女、人間ではないと再確認しただけだと思っていた。そんな寂しい確信を、悠真という存在が捻じ曲げてくれた。
悠真が心を開いていく度に己の心が潤い、孤独は2人に、無情は愛情に、無関心は好きへと変わっていった。
悠真と共に成長したクレアは、悠真と離れたくないという感情すらも芽生えはしたが、死ぬことを恐れはしなかった。
親子では無い。友人同士とも違う。まして恋人同士とも異なる。歪に見えて名付けようの無い奇妙な2人の関係性。
だからこそクレアは胸を張って言える。
心臓の止まった体を動かす。
心という原動力が、不可能を可能にしていく。
やがて震えつつも立ち上がる。
そして言い放つ。
かつての自身が行き着いたかもしれない姿の霧宮に、不老不死の魔女は言い放つ。
「──かわいそう」
同時に、悠真の右腕が、再生していた。
※ ※ ※ ※ ※
「……バカな、動けるはずなど……」
「異能力者なんだから異能力で止めてみなさいよ、プライドくらいは持ってるだろ?」
分かりやすい挑発。されど安くは無い挑発。
相手は動きが制限されているとはいえ、400近くの異能力を使用出来る最悪の魔女。
寸分のミスが自分自身の命を脅かす。
この時、霧宮は初めて最強にして最凶にして最狂の異能力者と対峙しているのだと、立ち上がってから醸し出したクレアの迫力を感じて理解した。
渇いた唇を舌で湿らせ、着崩した背広とネクタイは地面に放り投げ、ポケットにしまっていた左手を握り締める。
「なら望み通りやってやるよ」
〝拒否権など無い〟が発動した。
バッと左手の平をクレアの視線を遮るように構える。自身に対してのクレアの異能力使用権限を奪うために。
僅かに空気が震えた。
音も無く目にも見えない、違和感でしか無い左手の異能──否。
「デコイか」
間違いなく左手には〝拒否権など無い〟が発動している。だがこの空気の震えはそれとは別の力。
(視覚系やら音速での移動やら、色んな人達の異能力を奪ってそれを使用出来るのね──
──たった一撃で対象の命を奪える、屍を積めばストックも増える、奪った異能力を使用も出来る──
──今分かっているだけのスペックを見ても、とても008とは思えない……004くらいあっても誰も首は傾げない……けど)
ダッ! と蹴った地面をめくれ上げ、音速で間合いを詰めた霧宮はどこでもいいからクレアに直接左手で触れにかかる。
──クレアは動かない。
──動かずに笑みを浮かべる。
何かある。明確な正体は分からないが、霧宮はクレアには何かがあるという確信はある。
だが今さら動きは止められない。むしろ千載一遇かもしれないチャンスを掴んだと捉えるべきだ。
ゾクリと寒気が走る背筋など気にせず、いつも以上にスローな時間経過を思わせるほどアドレナリンを脳から垂れ流し、左手はクレアの首をガシリと掴む。
「クハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!!! 終わりだ最悪の魔女ォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!」
異能力という手段を奪えば、今のクレア=ブラッドフォルランスなど雑魚以下の存在。
約400年に渡って頂点に君臨していた最悪の魔女が、自らの手によってその座から陥落していく。
そして生涯遊んでくらしてもまるで足りない大金が、雇用先から振り込まれてくる。
様々な思いが、醜くも人の本質に限りなく近い欲望が、勝利の確信が、霧宮の心を満たした。
「どうもありがとう」
グギィ!! という不吉な音が霧宮の鼓膜を震わせる。
左手首が、最悪の魔女すらも脅かす最強の左手の繋ぎが、へし折れた。
「ぐあっ……」
「そこで騒がない所は戦闘のプロって感じだな」
あり得ない。
確かに触れた。自身に対しての異能力は駆使、という行動を奪う力を宿した左手は触れた。
だったら何故、鍛え抜かれた成人の男の左手首を、女子高生ほどの年齢にしか見えない女は握りつぶせたのか。
体躯の問題でなくても、心臓が止まったクレアにそれだけの力は入れられないはず……なのに。
「大層な力だ、本当にお前に対して異能力が使えなくなるんだから、冗談抜きですごい力だ」
頂点が褒めるほどに強大な力を宿す左手は、その頂点の首から強引に剥がされる。
「けどまあ不可能だったんだな、私に異能力を使わせなくする事は」
地面に流れ落ちる血、傷口に食い込むクレアの指、激痛を歯を食いしばって耐える霧宮は呻き声以外が出せない。
「だから私は、自分に異能力を使った」
クレアの指からドクドクという鼓動を打つ感触が伝わる。
もう心臓は動いている。そしてこの馬鹿力は間違いなく異能力による身体強化だ。
この魔女はどうやって、どうやってどうしようも無いあの現状を突破したんだ……?
「お前に対しては力を使えないという命令を、心臓を止める薬の効果を切らすという命令に書き換えた」
反則だ、と思考が巡る。
クレアに異能力の使用権限を奪っても、400ある内のどれか1つとなってしまうため、自身に対しての使用権限を奪った。
それならば400という選択肢から、クレアから自身へと向かってくる力という一択になるから、である。
だからクレアはあえて霧宮の攻撃を食らい、効果が左手から切り離され自身に流れ込んだその瞬間を狙った。
まるで上書き保存をするかのように、霧宮の左手から送られて来た情報を、自身に都合の良いように書き換えたのだ。
「異能力に関しては私に不可能は無い……自分を殺す以外はな」
「……あり……得ない……認め……ない…………」
「お前の承諾は要らない、そしてお前を倒すのも私ではない」
真っ白になりかけている霧宮の思考が?で覆われた。
そしてそれはすぐに白く塗りつぶされる。
「ぬおおああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
真正面から飛び込んでくる、1人の少年。
咆哮と共に放たれる、無慈悲の右拳。
吹き飛ばしたはずの右拳。
「私の血を混ぜた紅茶を毎日飲んでいたんだ、10年も経てば腕の1本なら数分で再生可能だろうな」
いつものルーティーンとなっていた悠真の食後の紅茶、そしてその紅茶にはクレアの保険が掛けられていた。
1度発動すれば効果は切れるが、ほんの少しずつ10年間継続して飲み続けたなら、腕1本の再生が出来るだけの蓄えは作られていた。
もちろんそれを悠真は知っていた。
だから再生まで待ち続け、反撃の機会を得た。
「くっ!!」
音速を駆使してクレアから脱出し、苦し紛れに悠真に対して〝拒否権など無い〟を使い、右腕の切断を試みる。
が、不発。
残り3度だったストックは、クレアの異能力を通さない結界か何かで防がれ、悠真は止まること無く突っ込む。
「あ……く……」
断末魔の悪あがきに、残り2回のストックを使う霧宮。
使ったのは悠真……にではなく、クレアに。
「うおおおおああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
バキィッッッ!!!!!!
鈍い音が鼻頭を砕いた直後、霧宮在摩は世界から抹消された。
※ ※ ※ ※ ※
「おいしっかりしろ!! クレア!!」
感情がコントロール出来ていないため、今の悠真はクレアに触れられなかった。
意識の無いクレアの体を揺さぶれない自分が、情けなさ過ぎて笑えない。
結局救われた。救おうとした人に最初から最後まで救われた。
ボロボロとクレアの顔に落ちる悠真の涙。それが幸いしたのか、クレアは重いまぶたを開く。
「……悠…………真……」
「クレア……よかった、立てるか?」
「……無理、だな」
「……何でだ」
「……奪われた……心臓と……不死を……」
霧宮の最期の悪あがき。
だが霧宮の人生で最も威力の高い二撃は、直接触れずともクレアの心臓と、異能力の1つである不死を奪った。
何とか生命維持をするクレアだが、心臓の無い状態では使える異能力が限定され、なおかつ使えても威力は落ちる。
悪あがきだったために、ここから戦闘が続く訳でもなかったために、霧宮は究極の選択を半ば投げやりに下し、功を奏した結果今やクレアは、持って数分だ。
「……待て……死ぬな……死ぬんじゃねぇ!!!」
「い、や……死ぬ……はは……これ、が……死……か」
「待て! 俺はまだお前に何の……っ……何の……恩返しも……」
悠真はクレアの死を望んでいなかった。
それがクレア最大の願いであっても、悠真はそれを否定したかった。
死なんかよりも楽しくて、美しくて、幸せだって思える日々を過ごそうと言いたかった。
言いたかったのに……口が思った通りに動いてくれない、喉が思った通りに震えてくれない。
ゆっくりまぶたを閉じ、ゆっくりまぶたを開けてから、力を振り絞り左腕を上げるクレア。
「……握って……くれ……両手で……」
「嫌だ……絶対に嫌だ!!!!」
「……悠、真……」
もう放っておいても、死は目前まで迫っている。
生き延びる方法を脳内で探し回る悠真だが、嗚咽を漏らしながらでは上手く働かない。
だけど諦めたくない。
初めて会った時から救ってもらって、そして今も救われた。
強く強く失いたくないと願った。クレアのいない世界なんて想像出来ない。ずっと自分のためだけのヒーローでいてほしいと望んだ。
救われる道がまだあるはずだ。今度は自分が救う番だ。今やらないでいつクレアに恩返しするというのだ。
諦めるな、諦めるな諦めるな諦めるな!!!
「悠真」
──頬に触れたクレアの左手が、悠真の思考を吹っ飛ばす。
「……あ……ああああああああああああ…………」
「ありが、とう……悠真……」
何故、この人は何故今、死に際でどうにかなりそうなはずなのに、何故──
──何故、笑っていられるんだ。
「……私は……世界一、の……幸せ者……だな……」
言葉は出ない。
でも、決断しなくてはならない。
この笑顔に応える事がクレアにとっての救いなんだって、恩返しなんだって理解する。
「……悠真」
「……ああ……」
不思議と震えは止まっていた。
腹は括った。もう思い残す事は無い。
優しく、それでいて力強く。
溢れる思いの全てを込めて。
クレアの左手を、両手で握りしめた────
最期まで、涙を流さなかった。
夢が叶ったからだろうか、世界一の幸せ者の笑顔を見せていた。
長い、長すぎる1人の少女の旅は、最悪の魔女と呼ばれ暗闇でしかなかった。
そこから救ってくれた希望が、愛を思い出させてくれた。
最愛の少年の顔を見ながら、温もりを感じながら、最期の最期に最高の幸せを抱きしめて──
──今、終わりを迎えた。
第0章 魔女と悪魔 完結です!
次章より新展開、悠真の新たなる物語が始まる!