第0話 破章 クレア=ブラッドフォルランス
「この指輪をはめておけ」
クレアから渡された金色の指輪を、7歳の少年は何も考えず言われた通り左手の薬指にはめる。
憔悴しきった悠真は、まだ半日しか経っていないあの悲劇から立ち直れるはずもなく、半分しか開いていない目に生気は失せていた。
「食べられるか?」
その悲劇が起きた現場、悠真の自宅であるマンションの24階にある3LDKのダイニングには、炊き立てご飯に出汁にこだわった味噌汁、旨味をギュッと閉じ込めた焼き鮭に付け合わせの梅干しと、食欲をそそる朝食が用意されていた。
全てクレアの手作りだったが、用意されたのは1人分のみ。悠真のためだけに作られたのだ。
しかし椅子に座っている……というより、座らされた悠真は、口に付けないどころか箸に手を伸ばす気配すら無い。
「ダメか……」
「どうしたらいいの」
クレアが悠真の口から初めて聞いた、明確な言葉。
少し嬉しくなり思わずニヤけてしまう不老不死の女は悠真に面と向かう位置の椅子に座り、両手で頬杖をついて話を聞く。
「お……お父さんと……お母さんは……俺が……殺した……から……警察に」
「行かなくていい、何故親を殺した程度で出頭などしなければならないんだ?」
麗しき美女から安易に想像出来てしまう美声が、罪に押し潰されそうな少年の手を握る。
ついさっき贈ったばかりの指輪がはめられた左手を、両手で包み込むように。
「悠真が気に病む必要は無い、悠真の罪は私が全て飲み干してやろう……だから食べろ、冷めてしまうだろう」
「……ふ……ふざけるな……何なんだよあんたは! 会ったこと無いだろ! 何でそんな事言うんだよ!!」
差し伸べられた手を乱暴に振りほどき、はずみでクレアの手がお椀にぶつかり、熱々の味噌汁をテーブルの上にこぼしてしまう。
味噌汁の様子など顧みず、ドンッ!! と大きな音を立ててテーブルを叩き、箸が床に転がり落ちた。
クレアは悲しげな表情を浮かべ、心に傷を負ったばかりの悠真にこんな話をするのは時期尚早だったと反省する。
「何であんたは俺を助けようとするんだよ! 俺はお父さんとお母さんを殺したんだぞ!! 田淵も殺した!! それからあんたの手を……あ……れ……」
咄嗟に思い出して口に出したが、その違和感に気付き言葉に詰まる悠真。
昨夜、確かに自分に触れたせいで失われたはずのクレアの手先が、何事も無かったようにそこにある。
「何で……だってあの時……」
「私はこの世で唯一、悠真の苦しみを理解出来る魔女だ」
ガタッと立ち上がり、立ちすくむ悠真の隣に歩み寄り、目を丸くしたままの7歳の少年を抱きしめた。
「悠真の事は生まれた頃から知っていた……その力に目覚めるまで、ずっと悠真を気にかけていた……私はお前を救いたい、何故なら──
──悠真は私を殺せる、唯一の存在なのだから」
※ ※ ※ ※ ※
クレア=ブラッドフォルランス。
約400年前、イングランドの農家の末っ子として生まれる。
18歳の誕生日に何の兆候も予言も無いにも関わらず、不老不死となった。
後に異能力と呼ばれる、世界の理を外れた力を手にした最初の人間となったクレアは、今もなお世界最強の異能力者として世界に存在している。
同類の者達から〝歩く災害〟、〝究極の生命体〟、〝この世の全てを否定する魔女〟、〝存在してはならないもう1つの理〟など、多種多様な異名で呼ばれているクレアは、常に孤独だった。
死ねない体、老いない体、不老不死以外にも幾つかの異能力を所持しており、異能力は1人1つというルールをハナから逸脱している。
その数は約400個……出来ない事が無いと言わんばかりに、400年間に渡って異能力者の頂点の座を脅かさない無敵の存在として君臨していた。
だがクレアはその余りある力を、むやみやたらに使おうとは思わなかった。
家族に気持ち悪がられ追い出されたその時から、自分のため以外には使わないと決意した。自分のせいで誰かが傷付くのも、誰かのせいで自分が傷付くのも嫌だったのだ。
欧州の革命、列強のせめぎ合い、2度の世界大戦、冷戦、その他あらゆる世界情勢を世界の裏から静観し、やがてあるモノを求めるようになった。
──不老不死の自分を殺してくれる何か。
21世紀に入るとその渇望を叶えるべく、クレアは何百回目かの世界一周を己の足のみでやってのけた。
そんな中発生した、Iウイルスの爆発的感染。
2020年以降1度もどの地域でも流行はしなくなったが、59年が経った今でもその治療法は確立されていない未知のウイルス。
ニューヨークからのテロ攻撃という可能性が最も高いが、その犯人どころか犯行の手がかりもまるで掴めていない。
人類史で最も人類滅亡に近付いた時から59年が経った現在、様々な形に変貌していった各国の在り方を静観してきたクレアは、東京で運命的な出会いを果たす。
開花はしていないものの、近い将来必ず自身を殺してくれる異能力に目覚める確信があった。
休日、仲睦まじい夫婦と共に散歩に出掛けていた、ベビーカーでぐっすりと眠る赤ん坊とすれ違う。
何年後かにこの幸せが崩れ去ると思うと胸が痛んだが、それがこちら側の世界の現実だとは、言えるはずも無い。
夫婦の会話から聞き取ったその名前を、死ぬまでずっと忘れないと誓いながら、最悪の魔女は不敵に微笑んだ。
「悠真、か……」
※ ※ ※ ※ ※
「朝ご飯出来てるぞ」
「おう」
過疎化の進行と59年前のIウイルス蔓延により消滅した北関東辺りの廃村にある、大きな平家の日本家屋。
田畑は跡形も無い程に荒廃し、他の家々は原形をとどめていないが、2人が暮らすこの平家だけは綺麗に整えられた外観だ。
「……ホントどうやって作ってんだ……美味い……」
初めて出会ったあの日と同じ、白米に味噌汁、焼き鮭に梅干しと、ザ・日本の朝ご飯が食卓に並ぶ。
そしてやはり用意されたのは1人分。悠真は10年間同居しているが1度もクレアが食事をしている姿を見たことが無い。
「そうか! ありがとう!」
一張羅のドレスの上から白のフリフリエプロンを着たクレアは、両手を軽く上げてきゃぴきゃぴという擬音が似合う喜び方をする。
「……オーバーリアクションなんだよ」
「仕方ないじゃないか嬉しいんだから!」
かつてのクレアを、名前を呼ぶことすら恐ろしいと言われていたクレアを知る者が今の姿を見れば、天変地異が起きた際よりも驚くだろう。
全てを手にし、全知全能の存在となり、唯一無二の無敵となり、死ぬことすらも許されず、何もかもに絶望した魔女が、笑っている瞬間など誰が予想出来ただろうか──
端からの認識は、悠真は両親を殺され誘拐されたとしてニュースになった。
世界中にある拠点の1つである、現在暮らす家で少年少女の奇妙な生活が始まった。
クレアは自ら望む死を得るべく、最悪を殺せる程に悠真が成長するまで手元に置き、親以上に大切に育ててきた。
殺されるために共に生活している事は悠真も分かっており、そして悠真も自らの両手に宿った異能力を理解し、秘密を包み隠すこと無く暮らしてきた。
最初こそ悠真が心を開くのに時間はかかったが、過ごしていく内に自然と絆は深まっていき、親を殺してしまった罪を共に背負ってくれていたクレアに親愛を抱くようになる。
年齢が上がる事と比例して異能力の力量が肥大していくという、前例の無い極めて異例な悠真の両手の力は、指輪によって完全に抑制されている。
左手の薬指から漏れる力に栓をする事で、素手で何かに触れても何も壊れなくはなったが、年齢の上昇に伴い力の増幅も進んでいるため、絶対ではない。
悠真は日々力のコントロールの訓練をしており、今や感情的にならない限り暴発する事は無くなっていった。
悠真は食後に毎日飲むクレアお手製の紅茶を飲み干し、いつものように目の前で両腕で頬杖をつくクレアは呟く。
「いよいよ明日だね」
ほんの一瞬フリーズした悠真だったが、数万円はしそうな高級感漂わせるカップを皿に置いて、クレアの目を見る。
「……ああ」
運命の日は、すぐ目の前まで来ていた──