第3話 淡くて脆く、そして若く
「しょっぱ~い!」
「しょっぱいね~」
浮き輪でぷかぷか浮かぶ本日海デビューの水玖は濡れた手を舐め、保護者役として一緒に泳ぐ悠真は朗らかな笑みをこぼしていた。
既に足がつかない所まで来ていながら、水玖は怯えるどころか嬉しそうに海を満喫している。
そんな様子をモヤモヤした気持ちで見つめる水希は落ち込み、パラソルの下のシートで膝を畳んで縮こまっている。
「さてさて、ここまで微笑ましい光景があるだけですが?」
日焼け止めを塗り終えた空緒はひょこっと隣に座り、おそるおそる親友の表情を覗う。
「そもそも8日には北海道行かなきゃなのにこんなことしてていいの?」
「現実から逃げんなよ~、どうせB組はサブとサポートだからA組みたいなガチな感じは無いから全然いいでしょ」
「別にいいもん、あれは親戚的ポジションだから放置してて問題無し」
「いやいや水玖ちゃんの目見た? あの年で恋する乙女の瞳してるよあれ、転生者? 人生何周目?」
「はぁ……」
水希は、とにかく自信というものを持ち合わせていなかった。
現時点の悠真との関係性はちょうど良く、気の許せる1人の友人として接するだけで自然と笑みがこぼれるくらいに嬉しい。
しかし本音を言えば、さらに1歩踏み込んだ特別な関係になりたい。
一緒に映画や水族館に行ったり、手を繋いで歩いたり、初めての唇は彼に捧げたいと心の底から願っている。
だが悠真は、卑怯なのだ。
何かある度に過去を懐かしむ表情を見せては、〝最悪の魔女〟との濃密な思い出を語る姿は、鈍いというだけでは許されて欲しくない所業だ。
そんな話をされては、さらに自信を失って踏み込む勇気が失せてしまう。
近いように見えて果てしなく遠い、その溝を跳び越える力をことごとく奪っていく。
水希にとって悠真はどうしようもなく最低で、どうしようもなく愛おしい、いわゆる罪な男であった。
「羨ましいわね」
隣で1人良い場所でくつろぐメアリーは、思わず水希に心の声を吐露していた。
「あなたの年の頃の私はただ生きる事に必死だったから、そうやって年相応に悩めることがとてもね」
「昔の自分自慢ですか?」
「昔の私に誇れるところは無いわ、純粋に羨ましいと思っただけ」
「悩めるのは幸せみたいなセリフ、本当に要らないです」
突然出しゃばってきたメアリーに若干の怒りがこみ上げてきたが、ただの八つ当たりだと理解するとすぐに頭を冷やして再び俯く。
サングラス越しに優しげな羨望の眼差しを向けるメアリーは、水希のそんな気持ちも分かるため笑って水に流す。
「シャイなところも可愛いけど、アレを落としたいなら言いたいことをはっきり言わないとな、背中はいくらでも押せるけど、最後の1歩はあなた次第だし」
「それは分かってます!」
我慢ならず、勢いよく立ち上がって体を向ける。
歯を食いしばり、苦悩し続ける水希はメアリーの励ましの言葉すらも跳ね返す。
「ちょっ、水希!?」
「でも無理なんです! 負けるのは目に見えてるんです! その1歩の重さがどんなに苦しいのか、ちゃんと分かってから言ってください!」
「分かったとして、あなたは何を言ってほしいの?」
「ッ……だから!!」
「私も言えた義理じゃないけど、だからこそあえて言うわ──どうせなら1度大敗してみなさい」
喚く水希に大人として冷静に対応するメアリーだが、彼女もまた年甲斐も無く叶いそうに無い恋心に悩んでいる。
同じ境遇で同じく1歩が踏み出せない同士だからこそ、何を言ってほしいのかが分かるのだ。
「大敗して、次に勝つための糧としなさい、何回でもいい、勝つまでぶつけ続ければそれは負けじゃないもの」
ただし、メアリーが欲しい言葉と水希の欲しい言葉は違うと気付けなかった。
水希はメアリーのように、背中を押して欲しいのではない。
水希はただアドバイスなど要らなくて、そばでうんうんと頷きながら共感してくれるだけでよかった。
メアリーほど、強くなかった。
余計惨めな気持ちになってしまい、何も言えずにまたふさぎ込む。
「あちゃ~」
「何? ダメだったかしら?」
「う~ん」
気を配る空緒は千鳥足でメアリーの耳元に口を寄せ、小声で囁くように水希の心情を大まかに説明した。
「背中押される準備すら出来てないんですよ、まだ稚拙な恋心だから下手に何か言うと逆効果かもです」
「どうしてよ」
「……あの子は、良い意味でも悪い意味でも優しいからです」
15分ほどして。
少し疲れてきた水玖と休憩するために戻った悠真は、ピリピリした気まずすぎる空気に近寄りがたくなる。
「おい、状況教えてくれ」
「ヒステリック水希と見当違いメアリーさん」
「おぉ、なんかそういう名前の小説ありそう、分かりやすくて助かる」
「否定出来ないのが悔しいわ」
「他人に首突っ込むなんて珍しいですね」
「ちょっと魔が差したのよ、本当にごめんなさいね」
「……大丈夫です」
悠真の前だから何とか明るくしようと、顔を上げて笑ってみせたが、やや無理をしているのは悠真でも分かる。
せっかくの海水浴が台無しになりそうな空気が漂う中、その流れを食い止めたのは空気を感じ取れていない救世主の一言であった。
「お姉ちゃん、おなかすいた~」
「…………え、あ! うん、もうお昼だね、お弁当食べよっか!」
「やった~!」
誰もが居心地の悪くなる空気に飲まれかけていたところで、子供らしい無邪気な笑顔と言葉に何とか海水浴の楽しさは損なわれずに済みそうだ。
予想外のファインプレーに空緒はギューッと抱きしめ、メアリーも優しく髪を撫で、場が和んだところで水希は見てしまった。
目が合った水玖のウィンク、全てが計算済みとでも言いたげなサインに感謝と同時に、妹の末恐ろしさを感じる。
(もしかしなくても、今日得してるのって水玖だけでは?)
真理に辿り着いた水希は、ここまでの自分がバカバカしく思えてくる。
このまま全てを妹に掻っ攫われるのも癪だと思い、普通に海を楽しもうと吹っ切れた水希は自然と笑みを浮かべた。
「いっぱい食べてね!」
昨日の夜から下準備を始めて作った重箱3つの弁当には、色とりどりのおかずやおにぎりがギュウギュウに詰め込まれている。
待ちきれない水玖と空緒はすぐに取り皿と箸を手に取り、悠真は感動のあまり硬直する。
「あれ、不服だったかな……」
「いや……なんかこう、運動会みたいな弁当出て来て……こんなの初めてだから、すっげぇ嬉しい」
「そ、そう……よかった」
悠真には、何十人で集まって何かをする思い出が無い。
運動会も、文化祭も、遠足や修学旅行、大勢と何かを作り上げたり競い合ったり、そういった経験が全く無い。
全てが新鮮で、空想上の存在だった光景に目を輝かせ、楽しくて仕方ない。
「うおっ、美味いな!」
「あ~! それ私が狙ってたタコさんウィンナー!」
「早い者勝ちだよ~!」
「ちょっと、野菜も食べなさいよ」
「「お願いしま~す」」
「いいわ、喉の奥に直接捻じ込んでやるから」
わちゃわちゃして、誰もが楽しげに笑って、その輪に自分がいる事が、嬉しくて仕方ない。
こんな時間が、ずっと続いてくれたらいいのに。
心の底から、そう願う悠真だった。




