番外編、ある日の彩芽視点
「行ってきまーす」
「はい。いってらっしゃーい」
明日夏が、自分の服を着て家を出ていく。
その姿を、彩芽は適当に見送っていた。
土曜日のお昼前。
あの日から三日目。もう三日。まだ三日。
いずれにしろこの三日間は、彩芽にとっては、今まで生きてきた中で、一二を争うほどドタバタした日々だった。
当事者本人よりも気を遣っていた気がするのは、腹立たしいのだけど。
なんてことを彩芽が思っていると、今度は姉の茜が意気揚々とやってきた。
「さぁさぁ、彩芽ちゃん、私たちも行くわよ~」
「……はいはい」
珍しく活発的な姉の茜を見ながら、彩芽は軽くため息をついた。
なんでわざわざ兄の買い物を覗き見に行かなくちゃいけないんだろうと。
――まぁ今は、『兄』と言えるかどうか、微妙なんだけど。
☆☆☆
それは一昨日のこと。
学校の帰り道に会った兄は、女の子になっていた。
最初は女装だと思って感心していたんだけど、明日夏は本気で女の子になっちゃったのだと主張していた。
そこで彩芽は家に帰ってから、兄を無理矢理脱がした。
結果、兄は本当に女の子になっていた。
あまりにも女の子なので、別の女の子が兄のフリをしている可能性も考えたけれど、あの抜けた雰囲気は間違いなく、彩芽の兄だった。もし問いつめて「家族しか知らない秘密の○○」なんて話題になって、昔の黒歴史をほじくり出されたくもなかったので、彩芽は納得することにした。
意外と動揺していない兄と同じように、彩芽もそれなりに異世界転生のような超展開には耐性があったのだ。去年までは現役の中二だったのだし。
さて兄の今後だが、しばらくは元に戻れそうにないみたいなので、女の子として周りにばれずに過ごさなくちゃいけない、ってことになったんだけど。
なんて言うか、明日夏にその自覚がない!
何であたしがとやかく言わなくちゃいけないのっ? って言いたくなるけど、言わないと本当に男のままで女子としての行動をしないのだから仕方ない。理不尽だと思う。
姉の茜は茜で、彩芽が明日夏のことを構い過ぎると「ずるい~」って文句を言うし。茜は女の子になった明日夏を可愛がりたい派なのだ。まぁこの事態に適応できずに混乱して泣きわめくよりはずっといいけど。
で、そんな茜が昨日の夜に言い出したのだ。
「明日は明日夏ちゃんの服を買いに行かなくちゃね」
「へ? 別にいいよ」
茜の提案に明日夏が素でそう返す。
それを見て、彩芽は文句を言った。
「へ? じゃないでしょ、お兄ちゃん。今は外出するにも着ていく服がない状態じゃない。いつまでもあたしの服を貸すってわけにもいかないんだからね」
男子の服を着るわけにはいかないので、明日夏が身に付けている服は、下着類含めて全て彩芽のものだ。
衣服はともかく、一度兄に身に付けさせた下着は返してもらっても微妙だし。
さすがに明日夏も気づいたようで、「あ、そっか」と呟いた。
そんな明日夏を見て、茜がうれしそうに両手を合わせる。
「どんな服が似合うかしら~。楽しみだわ」
これは、茜の着せ替え人形・おもちゃにされる展開だなぁと、彩芽は他人事のように眺める。いい気味である。
だが兄の方もそれに気づいたようで、とってつけたように言ったのだ。
「あ、あの! 実は明日は一樹との約束があるんだっ。そこで一緒に服を買いに行こうか、って」
明らかに苦し紛れの嘘っぽかった。
「あら、そうなの。それじゃ仕方ないわね~」
意外にも茜はあっさりと引き下がった。
だがそれは、茜に別の考えがあったからだった。
明日夏が部屋に戻った後、茜に真相を尋ねると、彼女は微笑んで彩芽に告げるのであった。
「あら。だって、こっそり女の子の服を買い物している明日夏ちゃんを観察してみるのも、面白そうじゃない?」
☆☆☆
彩芽たちがこっそり後をつけているなど考えもしないのか、明日夏は二人に気づいた様子もなく、友人の一樹と駅前で合流して近くの衣服チェーン店に入っていった。茜にお金をもらっているからか、ちゃんと服を買うつもりはあるようだ。
それにしても、兄は見た目は女の子なんだけど仕草が男のままなので、周りから変に思われないか、彩芽はなぜか自分のようにはらはらしてしまった。
「あらあら、下着は一人で買うみたいね~。うふふ。やっぱりお友達に見られるのは恥ずかしいのかしら? 明日夏ちゃん、ちゃんとブラのサイズ覚えているかしら……ああ、でもせっかくだったら、店員さんに測ってもらって恥ずかしがる明日夏ちゃんパターンも捨てがたかったわね~」
「……そーね」
姉が暴走しないようにとついてきた彩芽であったが、もういっそのこと早く暴走して明日夏にばれてしまった方がいいんじゃないかと思うようになってきた。
「うんうん。ちゃんと選べているようね~。あら? でも買っている下着、彩芽ちゃんの物とちょっと似ている感じだわ」
「えっ? なにそれ」
「そうよね~。洗濯するとき面倒かも」
「いや、そっちじゃなくて……それもあるけど」
今は女同士という立場にはなったといえ、兄と下着がお揃いというのは抵抗感があるお年頃なのである。
とはいえこっそり尾行している立場のため文句も言えず、見ていることしかできなかった。
下着購入が終わると、明日夏は一樹と合流して衣服選びに入った。
彼らが真っ先に向かったのは、ワンピースが並んでいるエリアである。何となく兄っぽい、と彩芽は思った。
それにしても、あれこれと女性服を手に取っては顔を寄せ合って物色している二人組の姿は、彩芽から見たら、まるで不審者のように感じられた。
そんな二人を見て、茜がうれしそうに言う。
「うふふ。明日夏ちゃんと一樹くん、恋人同士に見えなくない?」
「あれが?」
彩芽はあんぐり口を開けてしまった。
まぁ客観的にみれば、今の明日夏は本物の女の子で容姿もそれなりなので、同い年の男子である一樹と一緒にいれば、そういう風に見えなくもないけれど。
でもやっぱり。
彩芽にとって明日夏は、まだ「兄」なのだ。
だから、変に見えてしまうのかなと、彩芽はぼんやりと思った。
☆☆☆
「……はぁ。もう帰っちゃおうかなぁ?」
トイレから出ながら、彩芽はため息をついた。
明日夏が試着室に入っている間に、監視を茜に任せて、逃げ出してきたのだ。
さきほど明日夏が試着室に持ち込んでいたのは、ノースリーブのワンピースだった。あれだけだとこの時期ではまだ寒い気がするけど、どうなることやら。
なんてことを考えながら、彩芽は茜の元に戻ろうとしていると、店内にいた女子高生っっぽい三人組の一人が、不意に彩芽に声をかけてきた。
「あれ、彩芽ちゃんだー。おーい」
「あ、和佳ちゃん?」
三人組の真ん中でぴょんぴょん跳ねながら手を振っているのは、彩芽の二歳年上の幼馴染である野方和佳だった。年上といっても、お姉ちゃんといった感じではなく、普通に友達のような間柄である。
「彩芽ちゃんもここに買い物に来てたんだ。一人?」
「えっ、あ、えーと。付き添いで」
一瞬、明日夏のことを口にしかけたが、彩芽は適当にぼかした。
明日夏が女の子になってしまったことは、他言厳禁。特に和佳には言うなと、明日夏から口酸っぱく言われているのだ。
ちなみに明日夏と和佳は、同い年であり、明日夏の方が和佳に対してひそかに思いを寄せているようだけれど、和佳はそれに全く気付いていない……と、まぁそんな間柄である。
でもせっかくだし、面白そうだからバラしちゃおうかなぁ、なんて彩芽は思いかけたが、和佳は特に気にした様子もなく、いつもの笑顔を彩芽に向けた。
「そうなんだ。じゃ、またねー」
友達二人を待たせているからか、和佳はそう言って、さっと戻っていった。
女子高生三人組は、「近くのお店でハンバーガーでも食べようか」とか言いながら、店を出て行った。
☆☆☆
「明日夏ちゃん、どうやらお買い物は終わりのようね~。でもあれだけじゃ足りなそうだから、少し私が買っておいてあげようかしらぁ」
「……まぁ、そうね」
明日夏は何も考えずに衣服を購入していたようで資金が尽きたのか、部屋着等は全く手つかずだった。家計の支出になるのは納得いかない点でもあるけれど、自分の部屋着を兄に当たり前のように着られるよりは、まだマシだ。
「でもその前に、まだまだ明日夏ちゃんを追跡しないとね~」
「えー。まだするのー?」
さすがの彩芽も疲れが出てきた。
「でも明日夏ちゃんたちも食事に行くようだし、私たちもお腹すいたでしょう?」
「……うん。まぁ」
尾行はおまけとして、彩芽としても食事を摂りたいところだったので、もう少し付き合うことにした。
その後、店を出ていく明日夏たちの様子を離れてうかがっていたけれど、見ている彩芽の方も慣れてきたからか、次第に明日夏が普通に女子のように見えるようになってきた。
なんだかんだで、これからは上手く女子としてやっていけるのかもしれない。
「あら、どうやら明日夏ちゃんたち、ハンバーガー屋さんに行くみたいね~」
「え?」
「あら、どうしたの?」
「ううん。何でもない」
そういえばさっき、和佳たちがハンバーガーを食べに行くとか言っていなかったっけ。
明日夏と和佳が鉢合わせになったら、面白そうだなぁと彩芽は漠然と思った。
結果的に、和佳と明日夏は直接会話をかわすことはなかったけれど、間接的な形で、今度一緒に出かけることになった。
もちろん、今の明日夏が女の子であるということは秘密のままで。
ふふふ。いい気味。少しは苦労すればいいのよ。
と彩芽は思っていたのだが――
「お姉ちゃんに任せて!」
と、明日夏たちの前にさっそうと姿を現した茜を見て。
また面倒事とが続きそうだと、彩芽は頭を抱えた。




