閑話 セシル・アリリエットⅧ
アルバート陛下から許可証を頂いた翌週のこと。私たち公爵家にお姉様を返還する正式な書状が届いた。
それを受け取ったお母様はその場で泣き崩れ、書状を抱きしめながら長い時間涙を零していた。
私は頽れるお母様の肩を抱いて一緒に書状を見つめていた。
(やっと……やっとだわ)
仮にもこの帝国で最も尊い皇族になったお姉様の帰還は、そう易々と進まない。陛下の許可だけでなく、複数の部署の承認を得た上で大量の書類を記入・提出、長い手続きを経てようやく帰還の日取りが決まる。
その事務手続きのほとんどを私が担った。もちろん、当初はお父様やお母様が行おうとしていたのだが、あまりにも遅遅として進まないため、痺れを切らした私が全てを引き受けた。
そして帰還の日時を正式に定めるため、皇宮を訪れることになったある日のこと。
激しい雨が馬車の窓を叩いている。皇宮に到着する頃には止んでほしかったが、この雨脚では止みそうにもない。
(これではヒースウェル地方の被害は、ますます拡大するばかりね)
雷雨を呼び込んだ雨雲は、帝都全体を一週間以上覆っていた。それは地方も同様で、麗らかな春に似つかわしくない長雨が地盤を緩ませ、山が崩れ、土石流が麓の村々を押し流した。流された家の残骸は近くの川に流れ込み、濁った水は別地域の農業にまで支障をきたしていると聞く。
領主の救援要請を受け、情報収集のために帝都から派遣された先遣隊の報告によれば、下流地域──ヒースウェルの一部では増水した川が氾濫し、帝国有数の穀倉地帯が泥水に沈んだという。
人的にも物的にも被害は甚大で、ヒースウェル地方に追加の応援部隊の派遣が決定したのは昨日のことだ。要職にあるお父様も、ここ最近は豪雨による被害状況の把握と支援政策の立案に駆り出され、屋敷に戻れていない。
雨音と共に馬車は進む。
舗装された石畳の上を車輪が転がるたび、ごとりと揺れが身体に伝わる。肌寒さに肩をすくめながら、私は時折閃く稲光を窓越しに眺めていた。
◆◆◆
見慣れた皇宮の廊下を歩いていく。建物内に入ったところでようやく雨とは異なる音が私の耳に届いた。
それは曲がり角の先。休憩時間なのか、はたまた災害対応で疲れきった文官が少しの合間サボっているのか。二人組のまだ若い青年が、外を眺めながらボソリと呟いた。
「…………皇妃殿下がいなくなってからだよな。こうやって大きな災害が起こるようになったのは」
「お前、陛下に聞かれたらどうする!」
慌ててもう一人の青年が戯言を呟いた者の口を塞いだ。私は曲がろうとしていた足を止め、壁の陰からそっと耳を澄ませた。
「聞かれたところで何も起こらないさ。最近の陛下は穏やかになられた。リーティア妃殿下の話題を出したからって、昔みたいに罰を与えたり、激昂したりはしない」
「それは……そうだが」
青年は口ごもる。
「だから陛下も思ってるんじゃないか? 妃殿下が本物だったんじゃないかって。皇后陛下は偽物で、リーティア妃が本物だと思っている奴、結構いるぜ。お前もそうだろ?」
もう一人の青年は苦い顔をしたが、否定はしなかった。
「そんな話、今さらしたってどうしようない。妃殿下は……もういないんだ」
「だから言うんだよ。あの方がご存命の頃は、帝国全体が平和だったからな」
軽口まじりに仕事の愚痴をこぼす。
「もし妃殿下が本物の聖女様だったのなら……死ななければよかったのにな。おかげで、てんやわんやだよ」
私は彼らが部屋に戻るまで、その場を動けなかった。パタンと扉の閉まる音がしてようやく息をつけた。
「死ななければよかっただなんて」
乾いた笑いが喉から漏れる。
(お姉様の死因は病死となっているけれど、本当は、貴方たちが殺したも同然なのよ)
ぎゅっと拳を握り締める。
その最期はあまりにも酷く、理不尽で、無惨だった。
皇帝陛下とレリーナを筆頭に、誰もが見て見ぬふりをし、むしろ積極的に蔑み、嘲笑い、排除して──誰一人手を差し伸べなかった。
(…………彼らが戻って行った部屋は陛下に近い部署。お姉様を蔑んでいた貴方たちが、死ななければよかったのにと──そんなことを言うの?)
彼らが話していた内容は私自身も見聞きしている。
市井から始まったのか。あるいは皇宮内か。まことしやかに囁かれている。
──本当の聖女はリーティア妃だったのではないか、彼女こそ志半ばで若くして病に倒れた──ある意味、悲劇の聖女なのではないかと。
お姉様がこの世を去ってから、災害などほとんど起こらなかったルーキア帝国内においても、立て続けに自然災害に見舞われている。今回の豪雨災害だけではない。この一年、民を不安に陥れるような出来事が相次いでいる。
人間は理不尽な出来事に理由を求める生き物だ。誰かに責任を押しつけ、安心しようとする。
その結果が、今広がっているこの「噂」なのだろう。
(今になって、加害者側さえも悲劇の聖女として祀り上げようとしている)
陛下に近い文官であれば、お姉様がどのような状況に置かれていたのかを知らないはずがない。陛下の冷遇ぶりも見ていたはずだ。それでも彼らは見て見ぬふりをして、お姉様を虐げる一端を担っていた。
(ふざけないで。今更、都合が悪くなるとこれまでのことを忘れて、蔑んでいた者を神聖化し、お姉様の死が災害を引き起こしていると噂するなんて最低だわ。皇太子が生まれたとたん、皆お姉様のことを忘れたくせに)
忘れなかったのは私たち家族と、皮肉なことにアルバート陛下だけだ。
それが災害が相次ぎ、縋れるものを探した結果、人々は掌を返してお姉様を語り出した。
「リーティア妃は素晴らしかった」「皇后とは違って民のことを見てくれていた」と。
誰もが見向きもしなかったくせに。自分の世界において不都合が生じそうになってようやく、己の為だけに思い出す。
私にはお姉様が本物の聖女だったのかなんて分からない。不思議な力を使っているところを見たことはないけれど、そもそも私たちは不仲で、ほとんど関わりがなかった。だから、私の知らないところで力を使っていた可能性は十分にある。
でも、もし本当に聖女だったのなら、虐げていた者たちに天罰が下るといいとは思ってしまう。
けれど、そんなことはどうでもいい。
「誰一人、ひとりの女性として弔う人はいないのね」
悲劇の聖女というフレーズは、今や独り歩きし、噂に尾ひれをつけて広がり始めていた。
その一因には、レリーナとお姉様が同い年であるという事実があった。
同い年に加えて、皇后陛下は聖女の特徴を併せ持っていた。対して皇妃殿下は髪と瞳の色が史実と異なるため勘違いしてしまったのだと、だから聖女を間違えたのは仕方がないことなのだと、こじつけがましい解釈も広がっている。
皇宮の人々に至ってはお姉様を嘲り、貶めたくせに。
今になって美名で塗り固めて、自己の過ちをなかったことにして、都合のいい物語に仕立て上げようとしている。
誰一人、お姉様の痛みを語ろうとしない。
どれほど冷たく扱われ、どれほど孤独だったか──誰も語らないし、むしろその過去を葬り去ろうとしている。
多くの帝国民はお姉様がどのような境遇に置かれていたのか知らないし、これから先も知ることはない。だから市井の人々においては噂に乗ってしまう気持ちも理解できる。
とはいえ、聖女として担ぎあげるのではなく、帝国に確かに存在した皇妃を偲び、静かに弔ってほしかった。
(なのにこの国は……)
「……お姉様が死んだせいで災害が起きている? ルーキアはお姉様がいないと成り立たない国なの?」
そんなことはない。お姉様が居なくたって、世界は良くも悪くも1日1日を紡いでいくのだから。
(でもそうね。本当にお姉様が神に召されたことで上手く回らないのであれば……)
思わず吐き捨てるように声が漏れる。
「──そんな国、いっそ滅んでしまえばいいわ」
雷鳴が轟く中、私は心の底からそう思った。




