episode64
「…………たす、けて」
最後の気力を振り絞って手を伸ばす。
声はきっと小さかっただろうに、背中を向けていた銀髪の女の子は振り向いた。
そうして葉っぱの上にいたぼろぼろの私に気づいてくれた。
「どうしたの? 大丈夫……?」
彼女は手のひらに優しく載せてくれた。ぶるぶる震える私にハンカチを被せてくれる。
「おね、がい。みんな……を」
早くしないと。逃がしてくれたみんながまだあそこに残されているのだ。
だから私は意識を手放す前に彼女に言わなければならない。左手首にちらりと見えたアザ。この人なら私達を助けてくれるに決まっている。
「──愛し子さま。みんなを、助けて」
そこで意識を失った。
◇◇◇
それはしとしとと雨の降る日のことだった。
朝起きた時には容赦なく雨が窓を叩いていた。昨日が季節外れの暑さだったのもあって、霧も発生している。
「天気が悪いと気分も下がってしまいますね」
光を遮る厚めのカーテンを開け、陽光を取り込もうとしたアナベルが残念そうに窓の外を眺めていた。
「そうね……しかも今日は出かける予定があるのに」
図書館で借りた本の返却期限が今日までなのだ。それに、買わなければならない物もある。
けれども雨の中外を歩くのは誰であっても避けたいことだ。傘をさしていても服は濡れるし、水溜まりにうっかり足を踏み入れた暁には靴まで汚れ、靴下がびちょびちょになる。
あの水を含んだ靴の感触。考えただけでも気持ち悪い。
(憂鬱だわ)
私はため息を吐いて寝台から降りた。
ちょうど起きてきたセシルと共に朝食を食べる。
ほわほわと白い湯気が上がる紅茶に、瓶から掬った黄金色の蜂蜜を混ぜる。とろりとした蜜が紅茶と混ざると、爽やかさに甘い香りが漂う。
ふわふわのパンに苺のジャムを塗って贅沢な朝食をいただいた後、私は出かける準備をする。
濡れてもいい服に着替え、返却する本を何重にも布で包みカバンに入れた。
「どこに行くの?」
支度をしているとアリアが興味津々に私の周りを飛び回る。
「図書館と街の中心部よ」
「ついて行ってもいい?」
「館内で静かにしていられるならいいわよ」
「してるしてる!」
カバンを斜めにかけて、アリアは私の肩に乗る。馬車に乗り図書館に到着した私は、借りた本を返却してそのまま歩くことにした。
馬車で用事があるお店の近くまで行くのでもよかったけれど、あいにくの雨。みんな考えることは同じようで、濡れたくない人達が馬車で移動し、道が普段よりも混んでいたのだ。
お店までは十分とかからない。歩いた方が早い。
御者にここで待つよう伝え、濡れるのを覚悟で傘をさして歩き出す。
土砂降りとはいかないまでも、傘に弾かれる雨音はそこそこ大きい。
(止まないかなぁ)
雨の日は晴天の日より気温が下がる。吐く息は白く、手袋をしていても手が冷える。鬱屈な天気に気分が上がらない私とは正反対に、肩に乗っていたアリアははしゃいでいた。
「アリアは元気ね」
「水の妖精にとっては雨の日が一番だから! 暑い日より動きやすいし!」
くるくる回るアリアが微笑ましくて目で追いかけていると、足元の確認を怠ってしまって。勢いよく水溜まりに足を突っ込んでしまった。
「…………やっちゃったわ」
すぐ引き上げるが、時すでに遅し。見事にくるぶし辺りまでびしょ濡れだ。濡れた靴はつま先から体温を奪っていく。靴下が水を吸い、一歩進むごとにぐちゅっと音が鳴る。
(……脱ぎたい)
素足で靴を履けば少しはこの不快感から逃れられるだろう。人がいない所で靴下を脱ごうと私は端のほうに寄ろうとした瞬間だった。
「……け……て」
「?」
微かに何かが聞こえ、振り返るが誰もいない。気の所為かと考えたが、アリアもきょろきょろしているから勘違いではないだろう。
「いたっ! リーリーあそこ!」
一足早く声の主を特定したアリアが茂みの方へ飛ぶ。私もその後を追いかける。
(あっ)
私も近づいてようやく分かった。道脇に生える雑草の葉の上に、妖精が乗っていたのだ。
「どうしたの? 大丈夫……?」
ボロボロの羽に、意識が朦朧としているのか焦点の合わない目。切り傷や擦り傷。打撲と思われる怪我に、青アザまである。極めつけは全身ずぶ濡れで見るからに寒そうだった。
私は取り敢えず手の上に乗せ、妖精の体を温めるためにハンカチで包む。
すると妖精はか細く言った。
「お……い。み……な……を」
「え?」
雨音に遮られてよく聞こえない。私は手を耳元に持っていく。
「──愛し子さま。みんなを、助けて」
(どういうこと?)
助けを乞われても、事情を何も知らないのだ。どうにもできない。
愛し子であると見抜かれたのも驚きだが、以前ルルディにも見破られていたし、妖精は私の正体を見抜けるのだろう。なので疑問に思いつつ、そこは放置する。
「ねえ、もう少し詳細を……」
追加で質問しようと口を開いたのだが、手の中の妖精はいきなり倒れてしまった。
「し、死んじゃった……の?」
肝が冷える。慌てて呼吸を確認すると、一応息はしているようだ。
私は安堵の息を吐く。
「びしょ濡れは体に悪いから家に連れて帰って、タオルで拭いて……」
このまま放っておくことは出来ないし、助けようにもこの子から詳しい事情を聞かなければ動けない。取り敢えず保護することにする。
手に乗せて連れて帰るよりも、カバンの中の方が外気に触れないから暖かいだろう。そう思い、かぶせを開くとアリアが間に入る。
「アリア?」
「──この子、妖精狩りに遭ったんだと思うよ」
(それって)
衝撃の事実に私は目を見開き、固まってしまう。
「抵抗して、痛めつけられて。必死に逃げてきたんだよ」
アリアは瞳を伏せた。
「リーリーみたいに優しい人もいるけれど、妖精って綺麗で珍しいから。悪い人に目をつけられることも多くって」
険しい顔つきのアリアはそっと妖精の額を撫で、傷を確認する。
「だからアリア達は滅多に人間の前に姿を現さない。それでも、ごく稀に森の奥まで入ってきて無理やり妖精を捕まえたり、言葉巧みに騙したりする最低な人間もいる」
嫌悪をあらわにしたアリアは吐き捨てるように言った。
「──大っ嫌い。悪い人間なんて全員消えてしまえばいいのに」
『妖精狩り』言葉は聞いたことがある。妖精は精霊の中でも滅多に姿を現さないけれど、保持魔力はどの精霊よりも飛び抜けていて。難しい魔法も使いこなす種族。
アリアが言った通り、美しい容姿も相俟って裏世界のオークションでは、目玉になるほど高値で売れるらしい。
無理やり捕獲して愛玩用に飼うコレクターも中にはいるという噂もある。
(妖精は誰かの所有物ではないのに)
ふつふつと怒りが湧いてくる。
(…………許せない)
元から助けるつもりだったが、私はここで絶対にこの子に手を貸すことを決心した。
「アリア、妖精の怪我は人間のお医者様で治せる?」
それでもこの子の怪我の治療が先決だ。妖精の生態は未だに分からないことが多く、私も無知。人間と同じように、お医者様の診察を受けるのが良いのか意見を聞きたかった。
「それよりも何倍も最適な方法があるよ」
「どんなもの? 私にできるものなら何でもするわ」
険しい顔を解き、アリアはその小さな手で私の左手を取った。
「リーリーが回復魔法を使えばいいんだよ」
「…………私がっ!?」
素っ頓狂な声が出る。
「うん、リーリーの魔力ってアリア達にとって、相性がいいの。妖精のこと何も知らない医者よりもそっちの方が断然いい」
(そうは言っても……)
回復魔法なんて使ったことがなかったし、とても難しい魔法だと座学で習った。おまけに消費する魔力は膨大で。燃費が悪いとも。
けれども背に腹は代えられない。若干不安も残るが私は覚悟を決めた。




