閑話 セシル・アリリエットⅢ
「皇帝陛下にご挨拶を申し上げます」
視界がぼやける中、正面に座っていた人物にカーテシーをする。
「──いらぬ」
「え?」
「挨拶などいらないと言っている」
視線を合わせようともせずに、そっぽを向いていた陛下はそう言った。
零れ落ちそうになっていた涙が引っ込む。
「……まずは対面すればよかろう」
指し示す先は──帳が降ろされた質素で小さい寝台。
覚束無い足取りで近づく。
……ねえお姉様。私、お姉様に謝りたいことが沢山あるの。許してくれなくてもいいわ。根負けして許してもらえるまで、謝り続けるから。
ううん、恨まれててもいいわ。ただ話したいことがたっくさんあるの。仲良くなりたいの。微笑みかけて欲しいの。セシルと呼んで欲しいの。私もお姉様をリーティアお姉様と呼びたいの。だから……カーテンを開けたら────
暴きたくない、まだ信じていたい。震える手でゆっくり左右に動かす。
感じていた冷気がより一層強くなる。
(ああ、ダメだ。もう……)
氷を纏い、花が優雅に咲いている1人の女性が眠っている。
誰も寄せ付けない。全ての人間を拒絶するように、氷は厚かった。
崩れ落ちそうなのをどうにか耐える。見間違えであって欲しいけれど、そんなことがあるはずもなく、紛れもない亡骸。
冷たい液体が瞳から溢れ、口元を押さえても嗚咽が漏れる。
「セシルこちらに来なさい」
陛下の正面に座っていたお父様は静かに私を呼んだ。
「お父様────お姉様の病名は?」
顔を顰めたままのお父様の隣に座り、一番気になっていたことを尋ねると、お父様はますます眉間に皺を寄せた。
「それは陛下がお答えしてくれるだろう。そうですよね」
冷ややかな声色。いつも陛下に尋ねる時とうって変わり、その声は言葉で人を刺すような感じだった。
それはまるで──愛する娘を殺されたかのような憎悪を伴って。
私は驚いた。
これまで、リーティアお姉様に関係することは教育以外無関心だったはずなのに。それがまるで嘘だったかのような豹変ぶりだ。今さら愛情が湧いてきているのだろうか?
「────だ」
「今なんと?」
熱が冷める。掠れた声が口から漏れて、頭が真っ白になった。
「……栄養失調が医師の見解だ」
バツが悪そうに、床を見ながら陛下は二度目を告げた。
まるで自分のせいではないと言わんばかりの態度。
全身の血が頭に昇る。怒りで手が震える。
──ふざけるな! 貴方のせいでお姉様は!
私は勢いよく立ち上がった。咄嗟に、いや、感情に任せてテーブルに置かれていた紅茶を陛下の頭にかけていた。
「ふざけないで頂けます? 皇族が栄養失調とは何の冗談でしょうか。面白いと誰が思いますか? もっとましな嘘は吐けないのですか? タチが悪すぎますよ陛下!」
紅茶は冷めていたようで、陛下は熱さを感じていないようだ。だが、何も言わない。微動だにせず、床を見つめている。頭からはぽたぽたと赤色の紅茶が垂れていた。
それが私をもっとイラつかせるには十分で、怒りが収まることはなかった。
この国の中で一番食料が潤沢にあり、食糧難に困ることも無いはずの宮殿。今年は何処も飢饉等なく、市井でも、農村地帯でも、食糧不足とは聞いていない。それなのに、栄養失調だと? 夢物語にもならないくらい、ありえない話だ。
この話だけでお姉様がどうこの宮の中で過ごしていたのが嫌というほど分かる。要は使い捨て同然の扱いを受けていたのだ。
替えのきく、優秀な〝機械〟として、居たら便利、居なくても少し不便だが物事を回せるような存在として。
──外から見たら豪華絢爛、市井の者にとって憧れの宮殿は、彼女を気にかける者がいない地獄に作り変わっていたのだ。
栄養失調ということは、食事がまともに取れていなかったのだろう。下の者は上の者が怖くて、普通は生死に関わる嫌がらせができるはずがない。つまり、上が冷遇していた。だから給仕等も食事を取らせないようにできたのだ。
皇妃であるお姉様よりも上の地位には2人しかいない。
そう、あの気に食わないレリーナとかいう皇后と目の前にいるアルバート陛下。
今、目の前にいる陛下に対しても紅茶をぶっかけるだけでは許せないが、この場にレリーナがいたら頬を叩いていただろう。それぐらい、いや、もっと憎かった。
悲劇は──あの人が全ての元凶だ。にこにこと何もせずに、ただ宮殿に居座っているとしか思えない。そんな聖女とかいう下々の者には実態がわからない存在のせいで、お姉様は……! 儚く旅立って逝ってしまった。
「セシルやめなさい。陛下のお顔に紅茶をかけるなんて──」
「いいえやめません! こいつが殺したも同然ですもの! 紅茶を被るのは当然の報いです。人殺し! お姉様を、リーティア・アリリエットというひとりの罪もない人間を、殺した愚帝。返してください。お姉様を返せっ!」
陛下を指し、胸ぐらを掴み、正面から睨みつける。
不敬罪で捕らわれてもいい。湧き上がってくる感情を全てぶつけてしまいたかった。
「セシルっ!」
悲鳴のような声がかかる。お父様は何をやっているんだと私を見ていた。
それでも止めない。止まらない。激情が己を突き動かす。
なのに、陛下の瞳は凪いでいる。深く、闇の中に沈みこみながら。
「なにか……仰ったらどうですか。たとえばこんなことをしでかしている私を捕らえろと、外の騎士に言えばいいのでは?!」
感情を見せて欲しかった。不敬に怒るでも、お姉様の死に悲しむでも、こんなことになるはずではなかったと言い訳をするのでも。
大声を出している私の声は外まで聞こえているはずなのに、誰も入ってこないのもおかしな話だ。
「なにも……言うことはない。これが現実だ。そして事実だ」
罵声や罵倒でも、全てを受け止める覚悟なのか抵抗をしない。
「ふざけるな、これが現実? 愚者が……逃げるな! 陛下が招いた結果でしょう?」
言葉使いが荒くなる。陛下のシャツを強く握りしめすぎて、手が白くなっていた。
「……ああそうだ。私が招いた結果だ! これで満足か?!」
ようやく、声を張り上げて、荒げて、叫ぶように陛下は言った。
「わかっている! 公爵とセシル嬢に言われるよりも!!! 私がリーティアを殺したんだと! 文官達からも言われた! わたしは……!」
大きな音を立てて陛下の拳がテーブルに当たる。その反動で置かれていた他のティーカップとポットが、床に落ちて割れた。
「──今更後悔しているのですか?」
感情に任せて振り下ろされた拳と零れるローズティーを見ていると、身体の中から湧き上がっていたものが冷めて、冷静さが戻ってくる。
「後悔……? そんなものではないな。いや、していたが……自分には権利がないだろう」
「では何なのですか? 自分が招いた結果だとは認めたくないようですので」
痛いところを突かれたかのように鋭く睨まれる。私はそれに気がつかないふりをして、カップの破片を手に取った。お父様は何も言わない。ただじっと座って動かない。
──ああ、嫌だ。自分自身も、今ここにいる陛下とお父様も。
「陛下も陛下ですが、お父様もお父様ですよね」
破片を拾い続けながら話し始める。
「……どういうことだ」
困惑と怒りを滲ませながら。お父様も私を睨みつけてきた。
それを見て、自分の感情とは裏腹に口角が上がる。
私が怒っているのは陛下だけではない。両親にだって言いたいことがある。だからお父様の方を振り返った。後がどうなってもいい。ここで全部言わせてもらう。
「私は貴方も許せない。今頃親のような顔をして……お父様はお姉様の何者ですか? どんな人なのですか? 結局は機械のように扱っていたでしょう? それなのに、〝どういうことだ〟と言える神経、とおっっっても尊敬できます」
人に何か言える立場ではないが抑えられなかった。お姉様からしたら、私の存在も恨み、憎む対象だろうに。
娘から言われた嫌味を含んだ残酷な言葉に、お父様は口が聞けないようだった。これ幸いにと私は捲し立てる。
「いつもいつもいつも、お父様はキツい言葉をかけるだけ! お姉様を褒めたことがありますか? 私に言ってくれたように愛していると伝えたことは?」
「それ……は……」
言い返してこない。それが答えだ。
──馬鹿馬鹿しい。
「言ったことないですよね? だって私聞いたことないですもの。親なのに、親らしいことを何もせず、死んでから自分の可愛い、大切な、娘扱いしているとお姉様が知ったらどう思いますかね。可笑しくて笑ってしまわれるのでは?」
「…………」
「誰でしたっけ。リーティアは陛下を慕ってはいないと言った人は」
追い討ちをかけることにした。今、一番刺さるであろうこと。
「わたし……だが、それは事実だろう?」
「──言わせてもらいますが、それ、誤解ですよ」
憔悴しきっていたお父様の目が見開かれ、絶望が浮かぶ。
「お姉様は、レリーナが現れるまでは確実にアルバート陛下のことを慕っていました。それに気が付かないなんて……お父様よりもお姉様と会えなかった私でも知っていたのに……親として失格なのでは?」
「嘘だ。だってそんなことあの子は一言も」
頭を抱え、酷く狼狽している。己の選択は間違っていたのかと後悔しても遅い。とても遅すぎる。一体今まで何をやってきていたんだろうか。多分何もしてきてないのだろう。だからこういう結果になっているのだ。
私と違って権力を持ち、多少ならばアルバート陛下にも対抗出来るカードは持ち合わせていたはずなのに。
お姉様というひとりの娘を、まともに見ていなかったのは誰であったのか。
縋るような、嘘だと──冗談だと言って欲しいかのような表情に、優しく返せるほど私は完璧な淑女ではない。
「言えるはずがないでしょう。口を開けば完璧な淑女になれと言ってくる人に。家族だと──思えないような相手に」
脆くなったところにもう一度刃を向ければ、いとも簡単にお父様は切り崩される。
脆い。脆すぎる。
ここは形式的でも言い返す場面ではないのか? それがお姉様を蔑ろにしてきた愚かな父親の姿なのではないだろうか。
絆さえなかったようなものだ。愛情を貰えず、信頼なんて生まれるはずもなく、本音を言える環境ではなかった公爵家。
お姉様にとって地獄のような所だったはず。たとえ地獄でなかったとしても、落ち着けて安らげる場所ではない。
冷たい床に座り込んだお父様とアルバート陛下の拳から滴る鮮血を見ながら、私は未だ燻る焔をどうするか考えていた。




