episode35
足音が、倒れていた私の前で止まった。
全身を打ち付けて視界が霞む中、一番会いたくなかった人が目の前にいる。
どうしてこういう時に限って、この人に会ってしまうのだろうか。
『貴様、階段から落ちたのか』
冷たい天の瞳と声。慌てて上体を起こすと全身に痛みが貫く。
『……はい』
正確に言えばレリーナの侍女達によって落とされたのだが、彼に言っても何にもならない。逆に私が何故そんな戯言を言うのかと責められる。
今も多分、どこかで突き落とした侍女達はこの光景を見ているだろう。そして陰で嘲笑うのだ。
皇妃は階段から落ちて怪我をしても、助けてもらえないほど嫌われていると。
私が嫌われているのは皇宮内では周知の事実。
陛下が私を無視することは日常。ただひっそりと執務をして生活する日々を送っているだけなのに、レリーナの侍女達から嫌がらせを受ける理由が分からなかった。
なので憶測でしかないが、侍女達にとって私は格好の的なのだろう。この宮の中で一番咎められずに感情のはけ口にできる人物が私だから。
一応、身分は上だが私が行使出来る権力はほとんど無い。だから侍女達からも舐められる。
沈黙が少しの間回廊を包む。
『檮昧だな。邪魔だから退け』
先に口を開いたのは陛下。
忌々しそうに吐き出された言葉。やはり彼は彼だった。
これがレリーナであれば抱き抱えて皇宮医の元へ直ぐに向かうのが容易に想像できる。同じことをしてくれるとは微塵も思っていない。でも、手くらいは貸してくれるのではないかと思っていた私は馬鹿らしい。
そんなこと……してくれるはずがないのに。
自分の愚かさと全身の痛さで動けなかった。
『邪魔だと……言っているだろう!』
刹那、腹部と頭に衝撃が走り、火花が弾けて目の前が白くなる。
咳をすると口元を覆った手に血が付着し、ポタポタとドレスを紅く染めていく。
どうやら、すぐに退かなかったことで陛下に蹴られて端に飛ばされたらしい。
「申し訳……ございません……でした」
気力を振り絞って立ち上がりながら謝罪すると、陛下は青いマントを翻して無言で行ってしまった。
◆◆◆
「ああ、また……」
ズキズキと痛む頭を押さえながら、暗闇の中に発した声は溶けていく。
水が滴り落ち、少しだけ水が溜まっている床、そして全方位暗闇に包まれている空間。
最初にここにいたのは7歳の時、それから5年。何がきっかけなのか分からない。ただ不定期に寝たり意識を飛ばしたりするとこの空間にいる。
1度目の時、泣きながらさようならと言われたからもうここには来ないのだと思っていた。それなのに2回、3回……とここに来ている。
夢ならば、どれほどいいだろう。でもこれは夢じゃないのだ。確信できる証拠はないけど。
まあ流石に何度も経験をすれば怖さは薄れて、目を開けた時にここにいても驚かなくなったが……。
「ねえ、居るのでしょう? 出てきてよ」
少しだけ声を張り上げる。ここに居るはずの彼女に向かって。
「久しぶりね」
後ろから声がする。振り返ると現れたのはもう1人の前世のわたし。木綿のくるぶしまであるワンピースを着用し、薄ら笑う姿は寒気がする。
「貴方は私の何?」
「わたしは貴方、貴方はわたしなのよ」
「では、何故あんなものを毎回私に見せるの。貴方だって思い出したくないでしょうに」
この空間に来る前後で毎回見させられる前世の光景や幻聴。タチが悪いことに鮮明に思い出したくない、と思うものばかり見せてくる。
軽く睨むとわたしは何かを諦めたように口元を上げて笑った。
「思い出したくなくても見せなきゃいけないのよ」
「どうして? 何が目的?」
「前世を忘れず、今世で貴方が幸せになるため」
いつもと同じ返答。何度尋ねてもそれしか答えない。
「忘れるわけがない。今でもフラッシュバックするのに」
「……そうよね」
端切れが悪い返答に苛立ちが募る。何のために毎度嫌なものを見なければいけないのか。
蔦のように絡まって私を離さない記憶。忘れたいけど忘れられない。一度心を傷つけたものは何年経っても、幾度となく心を抉るのだ。
「何か用でもあったの? 貴方が私を呼んだのでしょう? 私、貴方に聞きたいことがあるのだけど……」
そう尋ねたのに、私の言葉を無視して彼女は口を開く。
「留意して欲しいの。貴方は否応無く巻き込まれることになるから」
「どういう……まって!」
表情をコロッとかえたわたしは、耳元で囁くように告げると私を押した。
何をされたか気がついた時にはバランスを崩し、後ろの地面についたはずの足は地をすり抜ける。
(ああ、うしろは!)
何度も来て分かったことがある。それは、空間にある池のような場所に飛び込むと現実世界に帰れること。
足の感触から今、後ろにはそれが広がっている。つまり、彼女に押されると────
大きな音を立てて身体が水の中に沈んでいく。私は暗闇に溶けていく彼女の姿を見ることしか出来ず、意識が遠のいた。
◇◇◇
見慣れた天蓋。ぐるりと取り囲む淡い青色のカーテンが少しだけ揺れた。
「────戻って来ちゃったのね」
また、何も聞けなかった。わたしがあそこにいる理由。そして毎度、ヒントのようでヒントでは無いことを伝えてくるわけ。
それらを聞きたい気持ちもある。が、できることなら二度と行きたくない。
あそこに行く度に私はどう藻掻いても、過去から抜けられないように感じるから……。
大きなため息をつき、前に垂れてきた前髪を横に流す。
次の瞬間、下肢に違和感を覚え、視線をずらすと幾重にも畳んで厚みを出したタオルの上に置かれた右足が見えた。
そうだ。私は足を怪我して。
あの後、医務室で応急処置をしてもらい、帰宅すると先に連絡を受けていたお母様達がてんやわんやしていたのだ。
馬車からアナベルに抱え下ろされて、赤く腫れ上がった右足を見たお母様は卒倒しそうになっていた。
直ぐにお医者様が呼ばれ、診察を受けると足が折れているとのこと。安静にして、当たり前だが右足を使わないように車いす生活を1ヶ月続ければ治ると言われた。
そっと右足に触れる。怪我が足のみだったのは不幸中の幸いだった。先程のことを思い出すと少し抵抗があるが、後で助けて下さったアルバート殿下宛にお礼状を書かなければいけない。
(正反対ね。性格も態度も。前世と同じなら絶対に助けたりしないでしょうに)
呆れたような顔、声、そしていたわるように差し出されたハンカチ。欲しかったのは今世の私ではなくて、前世のわたしだ。
シーツにシワがよる。
「おねえ…さま…? 起きたのね!」
扉が開く音がして、その方向を見ると薄いカーテン越しに目を輝かせたセシルが見えた。
「セシル、どうかしたの?」
「あのねあのね! お花がいーっぱい咲いてる場所を見つけたの! とっても綺麗で心がワクワクするからおねえさまにも見せたくて。おかあさまにおねえさまを連れて行っていいって許可もらったから。行くわよね? おねえさま!」
うさぎのように飛び跳ね、カーテンを勢いよく開けるセシル。そのかわいらしい様子に思わず顔がほころんだ。
「行きたいけれど、外は車いすだと行けないわ。整備されていない土の道もあるし」
「大丈夫よ、車輪がつまずく道じゃないわ。だからおかあさまも許したの。それにアナベルとエマもいるから!」
エマというのはセシルの侍女。赤毛で少しだけつり上がった目つきが彼女を怖い人だと演出させるが、そんなことは1ミリもなく、とても優しく情が厚い人だ。
今世ではセシルに振り回されている姿をよく見かける。
「なら行こうかしら」
最近は学校が始まってあまり一緒にいられなかったし、花を見に行くのもいいだろう。元々花を見るのは好きだった。前世では途中から見る気力も、愛でる気も、無くなってしまったけど…。
そう思った私はチリンと近くにあった呼び鈴を鳴らした。
「お嬢様、いかがなさいました?」
外で控えていてくれていたのか、直ぐにアナベルが部屋に入ってきた。
「セシルと花を見に外に行きたいの。付き添ってくれないかしら」
「勿論でございます。それではこちらの車いすにお乗りください。私が押しますので」
「ありがとうアナベル」
ベッドのそばに横付けしてくれた車いすに、アナベルの手を借りて乗ると、背もたれが妙に柔らかい。どうやら乗り心地をよくするために、小さいクッションが背中の部分に置いてあるようだった。
「じゃあ、案内するわ! ちょっと隠れてるから多分おねえさまも見たことがないところよ」
「それは楽しみね」
にっこり笑いながらふたりと一緒にそのまま廊下に出る。するとエマが待機しており、セシルはエマと手を繋いだ。




