episode16 アルバートside2
「皇妃……いや、リーティア」
アルバートは恐る恐る彼女の身体に震える手を伸ばした。当たり前だが触れた頬は冷たい。
優しい穏やかな笑顔を携えて、薄い氷が膜を作っていく。その膜は楽しい夢を見ているかのような彼女を、守るように覆っていく。
それを見ると、アルバートの中で今まで夢のようだった出来事が急速に現実味を帯びていく。
直接ではないが、間接的にアルバートが殺したのだ。アルバートのせいで死んだのだ。誰にも看取られずにひっそりと。
「病名は……リーティアの……」
傍に近寄ってきた医師に問う。
「皇妃殿下の詳しい病名は分かっておりません。何せ殿下は体調不良を隠し、診察を一回も受けておられないのです。ですが、洗面台を見ると僅かに血が残っていることから喀血をしていたかと……。陛下もご覧になられたかと思いますが、皇妃様はとても痩せておりますので、栄養失調もあるかと……」
すまなそうに医者はアルバートと目を合わせる。
「加えて、私はレリーナ様に付きっきりだったので殿下の定期的な診察をしておりませんでした。どのようにお詫び申し上げたら良いのか。大変申し訳ございません」
そう言って額を冷たい床に擦り付ける彼を見る。
確かに医者の責任もあるだろう。だが、アルバートがレリーナを優先して診てくれと言ったのだ。リーティアなんか診なくていいと。レリーナは身重で、精神的にも不安定になるから付きっきりでいてほしいと。
それを鑑みるに、この医者の責任はアルバートの罪に比べたら取るに足らないものだった。
(私の罪は……とても重い)
「顔を上げよ。確かにそなたの責任もあるかもしれない。だが、私の責任に比べたら取るに足らないものだ。過去に起きたことはもう取り返しは出来ない。これからのことを……考えてくれ」
「はい皇帝陛下。私は自分の過ちを忘れずより一層尽くしてまいります」
「だが、栄養失調とはどういう事だ?」
彼は困り果てた様に哀しそうな表情をうかべる。
「……陛下、そのままの意味です。殿下は食べ物をあまり摂取されておりません。摂取されていたとしても、満たされることは無かったでしょう」
「なぜだ? リーティアが自分からそうしたのか?」
訳が分からない。なぜ食べない。食べなければ人は死んでしまうのに。
「いいえ、違います。皇妃殿下の元には……料理が正しく配分されていなかったのです。侍女、厨房の者たちは殿下に昼食等を持っていきませんでした。殿下に言われてようやく給仕しても、食材がなかったなどと嘘をつき、成人女性の一食分の半分に満たない程度しか用意しなかったのです」
「な……ぜ……」
口の中が乾いて上手く言葉が出てこない。
「もうお分かりでしょう? 陛下が皇妃殿下を除け者にした結果でございます」
容赦なく放たれた言葉はアルバートの胸に突き刺さった。
「私は……殺したかった訳では無い……ただリーティアを見ていると気分が悪くなるからそれで」
言い訳がましいと自分でも思う。後悔したって遅いのだ。彼女はもうこの世にいないのだから。それに訃報を聞くまでレリーナのことを愛しいと思っていたが、まるで魅了の力が解けたかのようにレリーナへの感情が失せていた。
(私の心が愛しいと叫んでいるのは………頭に浮かぶのは………)
「そんなっ私が本当に愛していたのはリーティアか……?」
「陛下……まさか……」
文官達が信じられない物を見たかのように、唖然としている。
「嘘だ、あんなにリーティアを見ていると気分が悪くなり会いたくないと思っていたのにっ! リーナのことが愛しいと思っていたはずなのに……」
アルバートはその場に崩れ落ちた。
「今は……すまないすまないすまないすまない」
誰に謝っているのだろう。リーティアに対してなのか、レリーナに対してなのか、文官達に対してなのか。
ただただ後悔が込み上げてくる。
「自分の気持ちに気づかず、何もしていない者を罵る我はなんと愚かな皇帝なのだろう」
自嘲めいた言葉が漏れ出る。
そこに急に風が入り込んだ。その風は机上にあった一冊の書物のページを進める。パラパラとページがめくれる音に気づいた一人がその書物を手に取り、中を少し見てから驚いたようにアルバートへと手渡す。
「陛下! この書物、皇妃殿下の日記みたいです。何か書かれているかもしれません」
「リーティアの日記……?」
恐る恐る文官から書物を貰い、一旦周りの者を外に出して一ページ目を開く。
『これからここに今までとこれからの日々を綴る私へ。きっと辛いことも悲しいことも沢山あるでしょう。この時点でいろいろなことが起こっているのだから。でも、それを外には出さずここに綴ることで感情を抑えつけられれば良いなと思っています。そして、この日記の中だけでも素直な気持ちを吐露して下さい。そうしないとすぐに心が壊れてしまうわ』
初めはそんなふうに書かれていた。
『ページにずれがあるが、出来事はこの日なので日付はこのままでいく。
この日は、父に皇后ではなくて皇妃として嫁げと言われた日。私はとても驚いた。今となっては拒否して傷物だと言われてもいいから、婚約を破棄してもらえばよかったと後悔もしているわ。
でもこの頃はまだ、陛下のお役に立てるのであればこの身を捧げてもいいと思っていた。例え隣に立つことが叶わなくても。愛をもらえるとは思っていなかった。これまでのことを見ても、私を見てくれているとは到底思えなかったから。
だからせめて、「信頼」が得られればいいと。悲しみがなかったと言えば嘘だわ。とっても悲しかった。だってお慕い申していたのだから』
『今日はレリーナと陛下の結婚式。朝から外が賑やかだが私の心は沈んでいる。
半月前、初めてレリーナに会ったがとても美しかった。こんなに美しい人が隣にいるなら私なんか醜いだろう。それに地位が欲しいのだろうと言われた時の衝撃は凄かった。私は傍から見たらそう見えるのだろうか。違うと信じたい……だって私は陛下を慕っていて陛下のために自分が出来ることを完璧にしてきただけで、欲しかったのは陛下からの愛なのだ。それ以外は何も要らなかったのに───地位も名声も。
今日は幸せそうな二人を近くでずっと見ていないといけない。この嫉妬が蹲った醜い感情を隠せるだろうか。いや、隠さないといけない。
それに幸せそうなレリーナは私が望んでいた花嫁の姿で羨ましくて、輝いていて眩しかった』
『この日付は私の結婚式。陛下は取りやめようとしたが、色々とあって小さいながらも行われることに。少しだけ嬉しかった、ウェディングドレスは着てみたかったから。私は「皇妃」として嫁ぐが、この身を捧げる相手は変わらない。陛下と民のために私は喜んで捧げよう。帝国の平和が永遠に続く手伝いが出来ればいい』
『侍女はやはり付けられなかった。普通は付けられるのかしら? 皇妃というのは付けられないのかしら?
公爵家にもいなかったから分からない。陛下に進言した方がいいのかもしれないけれど、多分一蹴されてしまうだろうし居なくても困らないからこのままにしておこう。
それよりも朝食が運ばれてこない。廊下にいた侍女に持ってきて欲しいと言付けしたら怪訝な顔をされた。何かおかしかったかしら? 彼女の態度が悪くて……ようやく運び込まれた朝食を見て気づいたわ。あぁ嫌がらせされているのだなと。大方レリーナの邪魔者である私の世話をするのが嫌なのだろう。少し傷ついた。
外を散策する許可は貰ったので庭園を見ていると薔薇が咲いていた。見たことない色もあってとても綺麗。陛下は覚えているかしら? 私に唯一贈ってくれた栞のことを。自室に戻ったら手紙が来ていた。それを読んだら嘲笑いが聞こえてきた。聞こえるはずもないのに……』
『ようやく過去の出来事を書くのが終わった。ここからは毎日付けていこうと思う。
今日から執務だ。気を引き締めていこうと思う。そう考えていたのに、山積みの書類を見て驚いたわ。やっと終わらせて宰相室に持っていったら中から私を批判する会話が聞こえてきて、書類を落としてしまった。
どうやら宰相の分の仕事まで私が肩代わりさせられていたらしい。言ったところで何も変わらないので心に秘めておく。慌てて書類をかき集めて机の上に置いたら逃げるように戻ってきてしまった。私もまだまだね』
『体調が悪い。咳き込むようになってきた。でも医者に診てもらうわけにはいかない。陛下の耳に入ったらまた罵倒されかねないから』
『 咳が酷くなってきた。でも執務は終わらせないと陛下に捨てられてしまう。捨てられたら行き場所がない。レリーナの茶会に招待されて参加したら、豊富なお菓子が用意されていた。口が滑って危うく私の部屋にはお菓子が用意されないことがバレてしまうところだった。侍女達の視線が痛い。その後、血を吐いてしまった。もう長くはないのかもしれない』
『陛下に叱責された。何故こんなに辛く当られないといけないのだろう。分からない』
『皇太后様のお加減が悪い。心労がたたり、倒れてしまった』
『鐘の音が鳴った。間に合わなかった。最後に一言お礼を言いたかったのに。あの心優しい皇太后様が亡くなったことが信じられない。代わりに私が死ねばいいのに。
今日のレリーナの振る舞いを見ていると何故私があの場所にいないの? と負の感情が溢れ出てくる。嫉妬なんてしたくないのに、だってそれに囚われてしまったら私は私ではなくなってしまう。
皇太后様にはベゴニアが咲いた。私には何が咲くのだろう? 弔ってくれる人はいないが、負の花は咲かせたくない。空は自分の心を映したように暗かった』
『皇太后様の国葬が終わった。私の体は病で侵されている。辛うじて周りには取り繕えているが、バレるのも時間の問題。自室に戻る途中、陛下とレリーナの話を聞いてしまった。聞かなければよかった。扉を音を立てて思いっきり閉めてしまったが、外にいたのが私だとバレてしまっただろうか?
聞こえるはずのない嘲笑いが聞こえる。これ以上私を追い詰めないで欲しい。いつもお守りだった栞を破いて捨てた。こんなもの、もう必要ない。床に血が落ちると共に命も零れていくような気がする。早く死にたい。生きていたくない。安らかに眠りにつければそれでいい』
『いつもより穏やかに目が覚めた。こんなに気持ちよく起きられるのはいつぶりだろう。執務は放棄することにした。一日くらいいいだろう。日記に書ききれなかった事を追記する。私が何を考え、行動していたのか遺しておくことも役に立つかもしれない。
今日は天気が良くてぽかぽかしている。眠くなってきたので少し眠ろうと思う……』
不思議な力で、アルバートが読み終わるとすぐさま次の重要なページが開かれるようになっていた。
気づけば泣いていた。
最後のページには破いたとの記述がある栞が、光を放ちながら綺麗な状態で挟まれていた。
(これは)
そっと手で触れる。アルバートがずっと前に贈った物だ。それをリーティアは今までずっと大切に持っていてくれた。そのことに対する嬉しさと、自分の愚かさが身体を駆け巡る。
リーティアはアルバートのことを慕ってくれていた。民のために心を砕いて頑張ってくれていた。それなのにアルバートは見ないふりをして退けた。蓋をして鍵をかけた。心の底では彼女に対して恋情を抱いていたのを無視して。
リーティアは最後、心が折れてしまった。いや、アルバートが折らせてしまったのだ。謝っても許されることではない。
「リーティアすまない。私は……許してくれとは言わない。永遠に恨んでくれても構わない。だから安らかに眠ってくれ」
(そう願うことは罪になるだろうか? 自分勝手だろうか? 虫が良すぎるだろうか?)
きっと傍から見たら滑稽だろうとアルバートは思う。
リーティアの胸元には花が咲いていた。
青い薔薇、花言葉は「奇跡」色合いから「悲しみ」。
「奇跡……か。奇跡が起こってもう一度君と出会えるのなら私は君との日々をやり直したい」




