episode10
それから私は真夜中まで毎日執務をこなす日々が始まった。
先日宰相室の前で聞いてしまった話の通り、明らかに私がやる分ではない物まで終わらせるために。
全てをこなすと寝台に横になった途端、疲れて眠ってしまう。
朝は太陽が昇らないうちに起床し、厨房に話したおかげで少しだけ量は増えたが、貴族でさえ食べないような朝食を無理やり飲み込み執務をこなす。
時にはお昼ご飯を抜かす日もあった。
最初のうちはまだよかった。若さで乗り切ることが出来たから。
でもその生活を一週間、一ヶ月──と続けている内に体調が悪くなっていき、少し歩いただけでふらつき、熱っぽく、栄養を十分に取れていないので痩せていく。
最近では咳き込むようにもなってしまった。
でも私はどんなに体調が悪くても執務を放棄せず、こなはないといけない。
だって私にはこれしかできない。聖女であるレリーナみたいに存在してるだけで畑を豊かにするとかできる訳が無い。
──もし、執務をこなせなくなったらどうなる?
書類をめくっていた手が止まる。
陛下はきっと、容赦なく私を捨てるだろう。捨てられたら私は修道院に行くか、市井で暮らすしかない。
普通なら公爵家に帰るのだろうが、両親は妹さえいればいいはずだ。私なんか帰っても邪魔である。
そしたら二択だ。
修道院に行って神に祈りを捧げる?
神はこんな取り柄もなく醜い私なんか要らないだろう。
市井での生活?
楽しそうだが、そんな呑気な考えで生きていける世界ではない。それに、彼らの生活を知らない私が市井に馴染み、お金を稼ぐなんて出来ないだろう。
そうすると陛下に捨てられないようにするしかない。
ゴホゴホッと咳き込む。咳がまた酷くなってきた気がする。
でも体調がどんなに悪くてもやるしかないのだ。
医師に診てもらえばいいと言う人もいると思うが、食事の件でも嫌がらせされているのだ。診察に辿り着くまでに妨害されるだろう。
それに陛下や周りの人々は、私が病気になっても何とも思わない。ただ仕事を肩代わりしてくれる身代わりが居なくなって残念だ、となるだけだ。
つまり、まともな診察を受けられる可能性は低く、受けたところで意味もないし、ただただ執務が遅れるだけ。
それにあんなに酷いことを言われても私はやっぱり陛下のことが好きなのだ。この書類を完成させれば陛下は楽になる。民は平和に暮らせる。だから私は休まない。
だから私は万年筆を書類の上に滑らせる。
自分を犠牲にして他の人の役に立つために。
◇◇◇
午後からは前から決められていたレリーナとのお茶会だった。
「リティー!」
彼女はそう言って角から姿を現した私に抱きつく。
「お久しぶりです。リーナ様、お元気でお過ごしですか? それと、少々離れていただけるでしょうか」
ギュゥゥという音がしそうなほど抱きつかれ、呼吸が止まりそうだ。
彼女は慌てて私から離れる。
「ごめんね。大丈夫???」
慌てる彼女を周りの侍女達は優しい目で見守っている。
「ええもう大丈夫です」
「リティ。堅いよ。もっと柔らかくなって!」
「……善処します」
親しい友人がいなかった私には堅いとか柔らかいとかはよく分からない。友人を欲しいと思ったことも無い。だって私には持てないものだと思っていたから。
大方、敬語を外せということだろう。外さないけど。
「まあいいよ。早くこっちに来て! リティの為に美味しいお菓子と紅茶を用意してもらったの」
彼女は私の手を掴み、引きずるようにして中庭へと連れ出す。もう少し速度を遅くして欲しい。ふらついて倒れそうだ。
何とか転ばず中庭に設置されていた椅子に座る。
正面には見たこともない茶菓子が沢山あり、紅茶も温かくて美味しそうだ。
「ふふふ、この日の為に準備したのよ! さぁさぁ食べてリティ!」
「ありがとうございます。とても美味しそうで……見たことも無いお菓子ばかりで目移りしてしまいそうです」
お菓子は好きだ。甘くて美味しい。だから自然に笑顔がこぼれる。そんな私をレリーナが怪訝な表情で見てきた。
「……え? リティ、ここにあるお菓子はリティの所にもあるはずよ? だって侍女達が言っていたもの」
しまった。そういうことになっているのか。後ろに控えている侍女達の視線が怖い。
お前はこれ以上変なことを言うなという無言の圧力を感じる。
「失礼しました。私忘れっぽくて、お菓子の種類を覚えてなかったんです。そう言えばこのチョコレートは私の所にもありました」
慌てて見たことも、食べたことも無い、不思議な色のチョコレートに手を伸ばして嘘をつく。
「なーんだ。リティは忘れっぽいのね。今日はようやく貴女とお茶会ができるから張り切ったの。沢山お話しましょうね」
………上手く誤魔化せたようだ。だけどあまり長居はしたくない。またさっきと同じように口を滑らす可能性もあるし、残してきた執務が終わらなくて徹夜になってしまう。
でも────
チラリと茶菓子を見る。とても美味しそうだ。これを食べれるのなら長居してもいいかなと思ってしまった。
お菓子の誘惑に勝てなかった私は淑女にあるまじき理由で長居をすることになる。
──お菓子は美味しいのだからしょうがない。
その夜だった。陛下から謁見の間に来るよう命令されたのは。
その時の私は昼間の分を取り返すべく、執務に追われている最中だった。
「……え? 今なんと」
「ですから、陛下がお呼びです」
「……ルドルフ様ではなくて?」
「違います」
「それじゃあ騎士団長ではなくて?」
「違います」
「え? それでは誰?」
「殿下、いい加減にしていただけますか? 皇帝陛下です。私たちも忙しいのです。一回で聞き取っていただけませんか?」
「ごっごめんなさい」
侍女の迫力に蹴落とされ、反射的に謝罪する。
すると侍女は用件は終えたとばかりにすぐに執務を出ていった。
「……って陛下!?」
数秒遅れで私は驚きの声を上げる。
それもそうだ。だってもう一ヶ月半は会っていない。
(レリーナの所には毎日通いつめているらしいけれど、私になんて……)
今更なんの用だろう見当もつかない。
執務は滞りなく終わらせているし、陛下の命令通りに公式行事にも一回も参加していない。
何か自分のために買うこともせず、お金の使用はおろか、楽しみもない執務室と自室を行ったり来たりの生活だ。
不安だが、呼び出されたのだから直ぐに行かなければ。
謁見の間には陛下の側近達もいる。さすがにこの服装ではダメだと思った私は一番上等である服を着る。皇妃としたら質素だろうが私は表に出ないのだし大丈夫だろう。
準備が出来、ドアを開ける所でまたふらついてドアに手を付き咳き込んだ。
(これはまずい)
慌てて洗面台の前に行くと咳と共に血を吐いてしまった。
(あっ)
洗面台が赤く染まり、自分の身に起きたことだとはにわかには信じ難く、呆然と眺めてしまう。
咳き込むことは多々あったとはいえ、血を吐くのはこれまではなかったこと。少しずつ悪化していることに怖くなる。
もしかしたら私の人生はそんなに長くないのかもしれない……ふと、そう思ってしまって。
得体の知れない恐怖が私を襲った。
無意識のうちにいつも携帯している栞を握る。
嫁いできてから握ることが多くて、くたびれてしまった栞を────
「早く……謁見の間に……ゴホッゴホッ」
咳が止まらない。焦れば焦るほど咳が出る。
ようやく落ち着いた頃には結構な時間が経っていた。口の中をゆすぎ、私は小走りに謁見の間へと急ぐ。
中に入ると冷気を発する陛下に加え、軽蔑の眼差しをこちらに送る側近達の姿が見え、私はまたグサリと針が心臓に突き刺さったような痛みを覚えた。




