第52話 独り占め
固まった、と表現するのが正しいのだろうか。
俺が何気なく発した一言に、クレオメさんはピタリと動きを止めてしまったのだ。
それから一向に反応がない。
「……なんか、すみませんでした」
沈黙に耐えかねて謝ると、固っていたクレオメさんはとてつもない速さで手を振り始めた。
「ち、違います! 嫌だったわけじゃなくてっ! び、びっくりしてしまっただけですので!」
手振りで俺の誤った反応を否定してくれた後、俯きながらクレオメさんはぽつりと言葉を滴らせる。
「驚いた……いいえ。慣れていないだけ、なんだと思います。呼ばれることもそうですが、貴方から『姉』だと思ってもらえていることが」
シルヴェスター王がまだ島に滞在していた間、三日間ほど共に過ごしたことがあった。その時も呼び方は「クレオメさん」だったし、実際に「姉さん」と呼んでみたのは今回が初めてだった。「ネモイ姉さん」に対しては気軽に「姉さん」と呼べるのだが、彼女に対しては緊張感のようなものを抱いてしまう。
「俺は自分なりに受け入れていくつもりです。だから……クレオメさんが負い目を感じる必要はないですよ」
「……私たちは貴方に許されないことをしてしまった。これは揺るぎない事実です。今更『家族』の繋がりを得ようなど、虫のいい話だと思っています。それでも貴方は許してくれた。その繋がりを持つことを…………こう言ってはいけないのかもしれませんが、私にはそれが、たまらなく嬉しい。たとえ、公に出来ない繋がりだとしても」
「そうですね……だからこれからも、これまで通りに接することにはなりますが」
元々追放された理由が理由だ。今更、王家の人間として戻ることは出来ないし、そんなことをしようものなら向こうの国に無用な混乱を招いてしまう。シルヴェスター王はもてなすと言ってくれていたけれど、それはあくまでも『リオン』としての話だ。
「でも……こういう時とか、たまになら。『姉さん』と呼んでもいいですか」
「……カワイイ弟の頼みを、断れるものですか」
硬い緊張感のようなものがほぐれて、溶けていくような気がした。
受け入れたと思いつつ、俺はまだちゃんと受け入れることが出来ていなかったのかもしれない。ノア様も姫様もそれを見抜いていて、わざわざこういう場を設けてくれたんだろうな……今度、お礼を言っておこう。
☆
クレオメさんに「お姫様を待たせるのはよくないですよ」と背中を押され、姫様の入っている試着室の前に戻る。
「マリアさん。気を遣わせてしまいましたね。ありがとうございました」
俺たちを二人にして会話をしやすいようにあえて下がっていたであろうマリアに、クレオメさんが礼を言う。
「お気になさらず。私はただ、主の傍に控えていただけですので」
言いつつ、マリアの口元は微笑んでいる。中身はアレだが、何気に気遣いも出来るし察しがいい。メイドとしては非常に優秀だ。中身はアレだが。
「ふふっ。そうですか。でしたら、次は私のお買い物に付き合って頂いてもよろしいでしょうか?」
「承知しました。ええ、丁度リオン様も戻ってこられたところですし、アリシア様の護衛はお任せいたします」
これもまた、気遣いというやつなのだろうか。
しかも今度はクレオメさんまで。
「アリシア様もお着替えの方が済んでいる頃かと思いますので――――ごゆっくりお楽しみにください」
言うと、マリアとクレオメさんがこの場から離れていき、俺は試着室を前に一人取り残されてしまった。そのタイミングを見計らったかのように、試着室のカーテンの隙間から姫様が顔だけをひょっこりと出してきた。
「ちゃんと、クレオメと話は出来た?」
「……おかげ様で」
「ん。それならよかったわ」
やっぱり姫様とノア様で気を遣ってくれたらしい。
「はぁ……ホント俺、情けないですね。仕えている主にここまで気を遣わせてしまうだなんて。護衛失格です」
「そんなことないわよ。わたしやノアがしたいことをしただけだし、そんなに自分を責めなくても――――」
と、ここまで言ったところで姫様の言葉が途切れた。
……なんだろう。嫌な予感がする。別に深刻なものでもないが。
「……リオン。わたしのリオン」
「あの、姫様。なんか、ロクでもないことを思いついたりしました?」
「ロクでもないことなんて失礼ね。ただ、自分を責めようとするリオンのために、主であるわたしからちょっとしたお願いをしたいだけよ?」
「そのお願いが嫌な予感がするんですよ!」
「そんなことないもん」
ぷくーと頬を膨らませる姫様はとても可愛らしい。が、依然として嫌な予感が消え去ってくれない。
「……じゃあ、聞きますけど。そのお願いとやらは何ですか?」
「簡単よ。試着室に入ってきてもらうだけだから」
「俺を犯罪者に仕立て上げるつもりですか?」
間髪入れずに返した俺の言葉に不満があったらしい。姫様は更に頬を膨らませる。
「恋人同士だから大丈夫よ。それにもう着替えは終わってるし」
「当たり前ですよ!?」
むしろ途中だったらもっとマズイ。そもそも恋人同士だから何をやってもいいというわけではない……と思う。それにここ、お店の中だし。
「いいから来なさい」
「ちょっ、姫様!?」
しびれを切らしたらしい姫様に手を引かれ、俺は強引に試着室の中に引きずり込まれてしまった。
「あっ……」
思わず、声が漏れる。
目の前にいた姫様は言葉通り、既に着替えを済ませていたらしい。先程俺が選んだ赤色の水着に身を包んでいた。近くには身に着けていた制服が壁にかかっている。
水着は普段の制服に比べて当然ながら布地が少なく、抜群のプロポーションを持つ姫様の身体を惜しげもなく晒している。真紅の水着と腰に巻いたパレオが絶妙にマッチしていて、普段とは違う色気と称すべき雰囲気を醸し出している。かと思うと、ちょっぴり恥ずかしそうな、照れくさそうな。そんな絶妙な幼さを滲ませた表情が反則的にカワイイ。身体とそれを包んでいる水着と、表情のギャップにくらくらしそうだ。
「…………どう、かしら?」
さっきは強引に引き込んだくせに、姫様は頬を赤くして、上目遣いにして訊ねてくる。
この人は一体どれだけ反則技を使えば気が済むのだろうか。
「か、カワイイ、です……可愛すぎて、どうにかなっちゃいそうです」
「そう、なんだ……ん。よかった。安心しちゃった」
ほっと安心したように頬を緩める姫様。
こんなにカワイイのに何を不安がっているのだろうか。
「……別に、こんな手段を使わずとも普通に見せてくださればよかったのに」
「だって、一番最初にリオンだけに見て欲しかったんだもの」
流石の姫様も恥ずかしげにしている。
「リオンに、独り占めしてほしかったの」
忘れそうになっていたが、ここは密室のようなものだ。
そう広くはない試着室で二人きり。ましてや姫様は水着で、こんなことを言われて、緊張しない方がおかしい。
「最近は、家族のことで色々あってずっと悩んでたでしょ? 勿論、そっちはとても大切なことだから、当たり前なんだけど……でも……ちょっとだけど、ほんのちょっとだけど……寂しいなって、思ってたの。だから、リオンに独り占め、されたくて……」
どうやら自分でも上手く言葉をまとめきれないらしい姫様は、もじもじと悩んだようなそぶりを見せた後、
「……だめ?」
「……だめじゃないです」
ここで「だめ」なんて口が裂けても言えなかった。というか、言えるわけがない。
自然と姫様の肩に手を置いていた。すると姫様は顔を上げ、その桜色の唇を差し出すように目を閉じた。俺はその行動に応えるように、互いの唇を合わせる。
「んっ」
そのままゆっくりと彼女を抱きしめると、ぴくんっと華奢な身体が微かに跳ねた。
いつもはすぐに終わってしまうキスも、今日はまだ続いている。今の体勢は姫様の逃げ場を封じているにも近い。そのことに驚きもしたのだろう。姫様はほんのちょっと身じろぎするが、俺は静かに彼女の身体を抑え続けて、それがまたしばらく続く。
「リオン……? 今日はなんだか……」
「いつもと状況が違うからでしょうか……その、ちょっと意地悪したくなりました」
「いじわるって……」
背徳感が甘いスパイスになっている自覚はある。
「……今は、俺が姫様を独り占めしている時間ですから」
そのまま有無を言わさず、二度目のキスをして。
俺たちはほんの少しの時間、試着室から出てくることはなかった。