第25話 わたしの王子様
黒い影に包まれた後。アリシアの視界に広がっていたのは屋敷の中にある自室ではなく、冷たい雰囲気を感じさせる空間だった。周囲には魔法研究に必要な機材が所狭しと並べられており、アリシアからするとそれらがかなり高価な機材であるということが一目で分かる。同時に、ここが『四葉の塔』の最上階であるという事実も。
(空間を歪曲させて塔の中を拡張している……まあ、確かにこれだけの実験設備を使うなら相応の広さが必要だけれど)
閉鎖状態にあった『四葉の塔』は秘密の実験施設として利用するには好都合な場所と言える。事実、獣人族と妖精族の諍いというデリケートな問題が発生している最中に近寄る者はそういない。黒マントの雇い主が種族間対立を煽っていたのは、これが目的の一つであった可能性は十分にある。
「…………いきなり攫った割に、拘束もしないなんて随分と余裕があるのね?」
この空間に佇んでいた一人の男に向けて、アリシアは声をかける。
「拘束? そんなモノ、必要ないだろう。何しろ君は、自らの意思で囚われるのだからな」
気づく。男の背後にある、巨大な球体状の装置の存在に。
空間を歪めるほどの膨大かつ禍々しい魔力の塊が渦巻く球体の中で、何が眠っているのかをアリシアは理解した。
「邪竜……!」
「あァ。君たちにけしかけた複製体ではない。かつての『邪神戦争』において数多の戦場を蹂躙した、正真正銘の本物だよ」
男の言葉に嘘はないことは、目の前の球体で眠る邪竜を見れば理解することが出来た。
そもそも気にはなっていた。
出来の悪い偽物だったとはいえ、見た目などはそう本物と変わらない程度のクオリティはあった。それこそ、本物のサンプルでもない限り作り出せないぐらいには。
「……これで納得がいったわ。本物のサンプルを手に入れているのだったら、邪竜の複製体を作り出すことも出来る。だけど、ソレはただの屍。蘇らせることなんて出来ないし、だからこそ不出来な偽物なんか作った」
「その通り。コレはただの屍であり、複製体を造る為のサンプルだ。……君たちはその偽物を不出来だとは言ったがね。例えば、そう――――」
男は口の端をぐにゃりと歪め、不気味な笑みを見せる。
すると、彼の背後に無数の球体が現れた。それぞれの中には邪竜の複製体が眠っており、心臓の鼓動のような音が空間全体に響き渡っている。
「――――この不出来な複製体共が、島中に無差別に転移されたとしたら。中々刺激的な光景になると思わんかね?」
男の言葉が引き金となったかのように、邪竜の屍が活性化する。この空間の周囲に張り巡らされている魔導機材が動き出し、邪竜の屍が眠る漆黒の球体から魔力を吸い上げていく。
空間に干渉する類の魔法は魔力の消耗が激しい。塔の内部の空間を自在に拡張させ作り変えるだけでなく、アリシアの屋敷にも強制的に介入することが出来たのも、邪竜の屍からそれだけ多くの魔力を吸い上げていたおかげなのだろう。
(させない……!)
迷いはなかった。アリシアは即座に反応して地面を蹴る。今から周囲の機材を破壊しても間に合わない。既に転移は始まろうとしている。空間を支配する権能を持つアリシアだからこそ分かる。この転移は脅しでも何でもなく本気だ。このまま放っておけば確実にこの邪竜の複製体たちが島中に解き放たれ、無差別な蹂躙を開始するだろう。そうなってしまえば被害の規模は想像もつかない。
(相手の転移技術の核はあの球体状の装置……それなら!)
アリシアが一直線に駆け込んだ先は邪竜の屍が眠る球体状の装置だ。
これを壊しても転移は止まらない。既にその段階まで術式は作動している。だとしたら、止める方法はただ一つ。
(転移魔法そのものに干渉して、術式を書き換える!)
己の中に宿る『権能』を発動させる。周囲の空間そのものを支配し、瞬時に球体状の装置の解析を済ませる。読み通り転移魔法の起点となっているのはこの球体状の装置だ。つまり、これを止めてしまえば全てが止まる。
装置に触れたアリシアは、すぐさま『権能』を用いて干渉。無数の球体に対する命令を書き換える。
「ッ……! くっ……うううぅぅうううううッ!」
いかに『空間支配』の権能を持っているアリシアといえども、無数の転移魔法を同時に制御するのは膨大な負荷がかかる。全身を引き裂かれるような、頭が今にも焼き切れそうな激痛が走る。歯を食いしばり、膝をつきそうになっても、意識だけは絶対に手放さない。
(だって……むざむざ攫われちゃって、その上ただ何もせず囚われているだなんて……カッコ悪いもの……!)
心の中に浮かんだ顔は、愛しい人のもの。
無様な姿は見せたくない。せめて精一杯、力を尽くした姿を見て欲しい。
ずっとそうだった。魔界で、魔王軍で、人間という身でありながら精一杯力を尽くしたリオンに恥じない主でいたかった。彼の前に堂々と立てる自分でいたいと思った。
だから、
(だから…………! こんなところで、挫けるわけにはいかない――――!)
アリシアの強い意思を秘めた『支配』の力が、強引に転移魔法の術式を書き換えた。
島中に転移される寸前だった邪竜の複製体たちが沈黙し、転移が中断される。
「ッ……ハァッ、ハァッ、ハァッ…………!」
がくん、と身体が糸の切れた人形のように力尽きる。
起点となる核から一括で行ったとはいえ、無数の転移魔法に対する術式の書き換えはアリシアに途方もない負担をかけていた。魔力も完全に底をついている。
「見事だ。君の『権能』をもってすれば、成し遂げてしまうだろうと思ったよ。……私の目論見通りに、な」
「あっ…………!?」
アリシアを攫った時と同じ、黒い影がアリシアの身体に巻き付き、拘束する。
「魔力も気力も尽き果てた今の君に、抗う力は残っていまい?」
「ッ……その、ために…………!」
そのために、敢えて転移魔法を起動させてみせた。島を護るためにアリシアが身を挺して止めると読んでいたからだ。
「君が厄介な生徒であるということは、存分に見せてもらっていたからね。お優しい姫君で助かったよ。僅かな手間で、容易く君を無力化することが出来た」
成す術もなく、アリシアの身体は影によって、邪竜の屍が眠る球体状の装置に放り込まれてしまった。残る力を振り絞って転移魔法を発動させようとするが、装置の内部は空間が捻じ曲がっているせいか転移することが出来ない。万全の状態ならば強引に突破できるが、今のアリシアには不可能だ。
「『権能』保有者のサンプルと新たな核の確保。素晴らしい。一度に二つも果たすことが出来るとは。おかげで、この邪竜の屍もより有効に活用することが出来そうだよ」
「ッ…………!」
やられた、と思った。この場に誘い出された時点でアリシアを捕らえるだけの策は詰められており、まんまとその通りに踊ってしまった。
紛れもない敗北。たとえそれが、卑劣な罠による結果であったとしても。
「りお、ん…………」
意識が掠れる。薄れてゆく。
最愛の人の名を口にしながら、アリシアの意識は闇に落ちた。
☆
――――夢を見ている。
それが幼い頃の夢だとすぐに分かった。だって、わたしにとってはとても大切な思い出だったから。
旅行先の人間界。今思えば、『空間支配』の『権能』がまだ不安定だったせいかもしれない。わたし自身でもコントロール出来ないでいたその力で、見知らぬ場所に転移して、迷子になっていた。誰にも見つけてもらえないかもしれない。そんな恐怖に怯えて、震えていることしか出来なかった。
「あなたがどこにいたって、絶対に見つけ出してみせますよ」
リオンがくれたその言葉が、どれほど嬉しかったか。
その言葉が、わたしにどれほどの勇気と安らぎをくれたのか。
「なら……絶対に、何があっても――――リオンが、わたしのことを見つけてね」
「はい。どこにいようと、必ず見つけてみせますよ」
――――夢が覚める。
「ん…………」
意識が戻る。体の調子は最悪。囚われの身であることは何ら変わらない。
魔力は大して回復していない。たぶん、わたしを捉えているこの球体状の装置が魔力を吸収しているせいだ。感覚からして既に数日が経過しているみたいだけど、具体的な日数までは把握できない。
「気分はどうかね?」
「まあまあよ」
わたしの返答が気に入らなかったのだろう。
声の主は、ここに来て苛立ちを微かに見せた。
「……自分の状況を理解しているのかね?」
「囚われのお姫様でしょう? わたし好みじゃあないけどね」
男は、今度は露骨に苛立ちを顔に見せた。思い通りの反応を見せなかったことによるものなのだろうが、それがわたしにとってはちょっぴり愉快だ。
「残念だが、助けはこない」
「来るわ。絶対に」
それだけは確信があった。
「リオンは必ず来てくれる。わたしを見つけてくれるって信じてる」
「ハッ! とうとう頭までおかしくなったか? 現実逃避をしているところ悪いがね。貴様の末路は実験動物だ! 助けが来ることなど未来永劫ありえない! 欠片程の希望も捨てろ! 絶望に染まれ! 無様に醜く許しを請え!」
確かに状況は絶望的かもしれない。ここで相手の言う通り、無様に醜く許しを請うのが正解なのかもしれない。涙でも流してやれば、さぞ気分よくしてくれることだろう。
だけどそんなことはしてやらない。何があっても、絶対に。
殴られようと、蹴られようと、踏みにじられようと。手足をもがれたって。
泣いてなんかやらない。絶望に染まってなんかやらない。
だって信じているから。リオンが、わたしの王子様が来てくれるって。
「お断りよ。しくしく泣くだけのお姫様をお望みなら、他を当たりなさい」
「よほど命が惜しくないと見える。ならば望み通り、まずは自ら死を求める程の痛みを与えてやろう」
男の顔が嗜虐的な色に染まる。人を弄び、痛めつけることを至上の喜びにしていると言わんばかりに。
何があっても屈しない。そう覚悟を決め、相手を睨みつけてやったところで――――、
――――紅蓮の焔が、空間の扉をぶち破った。
……ほら、やっぱり来てくれた。
「――――リオン。わたしの、王子様」