鶴の恩返し
波の音が僕の耳をくすぐった。とても綺麗な海を見て、僕は彼女と笑いあっていた。海も僕たちを見て、笑っているように見えた。
海の笑顔はどこか懐かしく感じて、僕たちは導かれるように海に飛び込んだ。手足の力を抜いて、満点の星空を見上げた。その時、隣にいるはずの彼女がいないことに気づいた。慌てて海の中に潜り、彼女を探した。でも、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。息が続かなくなって、僕は水面へ顔を出した。そうだ、名前を呼ぼう。
「………」
彼女の名前は何だっただろう?思えば、彼女とはいつ知り合ったのだろう?さっきまで浮かんでこなかった疑問が、僕の頭を一気に埋め尽くす。不思議と僕の頬を、液体が滴り落ちていった。それが海水でないことは明白だった。
波の音が僕の耳をくすぐった。とても綺麗な海を見て、僕は一人で泣いていた。海が奏でる波の音は、僕を見てすすり泣いているようにも聞こえた。
ピピピッ、ピピピッ。
目覚ましの音で目が覚めた。時計の画面には6:30と書いてある。10分ずれているので、今はちょうど6時40分である。隣のベッドには、まだ妹が気持ちよさそうに寝ている。俺はネクタイとYシャツ、ズボンと靴下をそれぞれ両手に持ち、階段を降りていった。
「おはよう莉久、今日はやけに早いわね。朝ごはんまだできてないから、散歩でもしてきたら?」
母の言う通り、いつもは遅刻ギリギリの時間に家を飛び出すのである。夏は特に遅くまで起きていることが多く、中々起きられない。まぁ今日は目覚めもいいため、言われたとおりに外に出てみる。七月とはいえ、もう夏だ。照りつけるような日差しが俺を出迎えた。急いで家の中に戻り、財布の中から120円を取り出し、また再び日光の元に戻る。今度は蝉の鳴き声が俺を歓迎した。
歩き始めて5分くらい経っただろうか。雑木林の中の自販機にたどり着いた。生憎お目当てのレモン炭酸は売り切れだったため、振って飲むタイプの缶ジュースを買った。缶ジュースの場合、一気に飲み干さなければいけないから面倒だ。この雑木林には虫が沢山生息していて、口を離していると飲み口から侵入してくるからである。飲み干した缶を雑木林の出口に捨てて、僕は家に戻った。時刻は7時を回っていて、テレビの中もうるさくなってきていた。
『昨日午後7時半頃、栃木県〇〇市で火災が起きました。幸いなことに死者は出ず…』
「あらやだ、この近くじゃない。莉久も気をつけなさいよ~」
火災が近くで起きたからといって何を注意すればいいのか俺にはさっぱりわからないが、適当に相槌を打っておく。そんな話をしている間に、妹が起きてきた。まだ眠いらしく、階段から降りてくるなり、食卓には目もくれずにソファーに寝転がった。
「ちょっと、光莉も…あんた今日日直じゃないの?」
「今日はもうちょっとだけ眠い…」
変な日本語で光莉が生返事をする。そんないつもの光景を眺めながら、味噌汁をすする。
ご飯を食べ終わると、カバンにものを詰め、身支度を整えて家を出る。自転車に乗って勢いよく坂を駆け下りた。学校までの道に信号は一つしかない。思う存分自転車をかっ飛ばすことができる。だが今日はいつもと違い、登校時間まで余裕がある。少し遠回りをして、涼しい場所を通っていこうと決めた。
木に日差しが当たって、綺麗な影を落としている。それが延々と続く道をゆっくりと進んでいった。気づけば自然に歌を口ずさんでいた。
何の歌だっただろうか。この季節にとても聴きたくなる歌だ。歌いながら橋を越え、学校の自転車置き場に着いた。腕時計を見ると、まだいつもより30分ほど早い。朝練をやっている部活もあったが、それでもいつもの騒がしさはない。何年ぶりだろう。この静かな心地良さを味わうのは。深呼吸をして、目を閉じた。まるで世界には俺一人しかいないような…そんな気がした。
教室に入ると、やはり誰もいなかった。ここで本を読んで時間を潰すのもいいが、いつもより早い時間なので、折角なら特別なことをしたかった。しかし、俺の貧困な発想力では部室に行くことくらいしか思いつかなかった。
俺の所属する部活は地域貢献部といい、地域の活動をお手伝いする…というのは建前で。本当は学校の雑用係みたいな部活である。この部活に魅力を感じる人はほとんどいないだろう。現に今年も部員は俺ともう1人の女の子しか入らなかったわけだが…
「おす!おはよう!」
「おう、おはよ」
この部屋の主である彼女は、どうやら俺よりも先に学校に来ていたようだ。
「今日はなんでそんな早いの?」
「今季の水曜日は見るアニメがねぇんだよバカかよ」
そんないつものような会話をしながら俺は椅子に腰掛ける。夜更かしをしなかったせいか、今日は視界がはっきりしている。彼女の後ろから差し込む日差しがいつもより少しだけ眩しかった。
「私も今季はあまり魅力を感じられないのだよ…」
「いや土曜は割と良作揃いだぞ?絶対見た方がいいって」
普通の男子高校生と女子高校生の会話はこうではないかもしれないが、俺たちにとっての普通はこうなのだ。そんな普通の中に俺は安心感を覚えていた。この部活に所属しているのは俺たちを含めて4人。しかもそのうちの2人は3年生なのでもうすぐ部活を引退することになる。そうなるとこの部室を使う者はたった二人だけだ。
人数が多い部活だと責任が一人に集中するケースがほぼないため、安心感が生まれる。しかし人数の少ない部活もまた、背負う責任が少ないため、安心感が生まれる。俺は後者の安心感がとても好きだ。2ヶ月前の俺は、この安心感を求めるためにこの部活に入ったのかもしれない。
「そういえば、この前の手芸部のお手伝いはどうなったの?」
「安心しろ、もう絶対頼まない!ってお褒めの言葉を貰ったぞ」
「それダメじゃん…」
彼女はこちらには目もくれずに会話を続ける。どうやらスマホゲームをしているらしい。早い時間に起きた俺は彼女の横で少しだけ仮眠をとることにした。
俺が起きた時、そこには部室も彼女の姿もなく。
ただひたすらに雪の降る、田舎町だった。
「いった…あっ血が…え、血!?」
突然周りが変わってびっくりしたのも束の間、手の甲の痛みが俺を襲った。治療しようにも周りは雪、雪、雪。止血は愚か、傷口を塞ぐことすら厳しい状況だ。ただ、それよりももっと厳しいことがあり…。
「寒いな…」
そう、俺が着ているのは、いくら制服とはいえ夏服。二枚重ねのみでこの気候に立ち向かうのは無理がありそうだ。どこかに家などはないかと探してみることにした。
10分ほど探し歩いただろうか。すぐ近くに一つの真っ赤な明かりを見つけた。おそらく火でも燃しているのだろう。近寄って見てみると小さな小屋があった。この寒い中薄着のまま外にいるのは無理があるので、ひとまず中に入れてもらおう。
「すいませーん、誰かいますかー?」
カタッ。
今確かに音がした。しかし、返事は返ってこない。扉を叩いても、雪の声にかき消されて家の中には聞こえないだろう。呼び続けるしかない。
「誰かいますかぁ?すいませーん。誰か…」
その時ゆっくりと扉が開いた。だが俺の目には人の姿は映らなかった。なぜ空いたのか不思議に思ったが、ここで怪しんでいるほど体に余裕がない。誰に言うでもなく、お礼を一言言って中に入った。さっきも聞いたカタッという音がした。見るとネズミが2匹囲炉裏の周りを駆け回っていた。時折立てるその物音は、何やら情緒のようなものを感じさせた。
「眠くなってきたな…」
さっきも寝たはずなのだが、また瞼が視界を遮ろうとしていた。しかし抵抗する気力もないわけで。不用心だとわかりながらも、俺はわけのわからない世界で一晩を寝て過ごした。
ー現代ー
「それで、何がどうしてこうなった」
私、青空泉海は非常に困惑している。少しだけ居眠りをして目を覚ましたら、目の前にいた同級生が変なおっさんになってるっていう前代未聞な出来事が今起きているのだ。すごい気になって今「同級生 入れ替わってる」ってグルグルで検索したけどダメだこれ。よくわからん映画のレビューしか出てこない。とりあえず目の前で寝てるおっさんを放置して授業に行くのもなんかアレだし、そもそもまだ授業が始まる時間でもない。そっと起こしてみよう。
「そーっとそーっと…ちょんっと」
人差し指でそっと触れると、おっさんの肩がピクっと動いた。
「やーっわっ待って動いた!動いたコレ!!」
あ、よく考えたら人間だった。でも正直生きてるのかわからないくらい音も立てずに眠ってたから、びっくりするのもしょうがないよね。
「ここはどこだ?あんた誰?」
記憶喪失キャラのテンプレみたいなことを言いながらおっさんが起きる。さっきからおっさんって言ってるけど、顔見たら割と若かったですごめんなさい。
「明日の薪をとってこなくてはならないんだ。よくわからんが外へ出してくれないか…」
「薪?薪を何に使うの?」
「冬だからに決まってるだろう。いいから外へ出してくれ」
は?冬?何を言ってるんだこのおっさんは。今は夏真っ盛りですー。夏アニメでちょうど4話辺りがやってる頃ですー。
「あの…今夏なんだけど…」
しかしおっさんは私の言うことも聞かずに外へ出る。そして当然の事ながら驚いた声で「暑い!!」などと言っている。
そんな光景を見つめていると、ふと視界の隅にあるものが目に入った。糸電話だ。この前暇すぎて莉久と作った紙コップのやつなんだけどね。何気なくそれを手に取り、その中を覗いてみた。そしてその瞬間思わず仰け反ってしまった。
「うぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
その紙コップの中には、雪の降る中、一人で家の前に佇んでいる莉久の姿が見えた。
不意打ちだったので変な声が出てしまった。それは仕方ないだろう。誰だって不意に想い人の姿が見えたりしたら驚くものだ。
「ちょっと莉久!!聞こえてるの!?」
しかし莉久は振り向く素振りも見せない。どうやらこちらの声は聞こえないようだ。
「すいませーん、誰かいますかー?」という莉久の声が聞こえてきたので、おそらくあちら側からの声は聞くことができるのだろう。こうして見ていると、何だか人をミニチュアにして掌の上で弄んでいるようだ。やばい興奮する。
「なんだここは。冬なのに暑いってどういうことだ…お前何見てるんだ?」
外から戻ってきたおっさんが横から糸電話を奪い取る。
「あっ、ちょま」
「おい!ここ俺の家だ!どうなってんだこれ!」
は?おっさんの家?どういうことだ。まさか莉久とおっさんが入れ替わったとでも?
「ははっ、まさかね…」
いや、そうだとしか考えられない。もしそうなら全部つじつまが合う。
「ふざけんな…」
「え?」
「ふざけんなふざけんなふざけんなぁぁぁぁ!私の、私の莉久を返せぇぇぇぇ!!」
本人がいないところで、付き合ってもないのに「私の」と言っているのは置いておいて。このまま莉久が帰ってこなかったら私の学校生活はどうなる?いや学校生活自体はどうもならないんだけどもほらモチベーションというものが…。とにかく、絶対に莉久をこちらの世界に戻さなければならない。
「とは言ってもこっちの声が聞こえないんじゃなぁ…」
そこで私はふと気がついた。この糸電話の中に見える風景、どこかで見たことがある。どこだろう…としばらく考えていたが、思い出せない。
「なんだあれ?」
隣でおっさんがもう片方の糸電話を除きながら呟く。見ると、なにやら白いものが家の戸口を叩いていた。ん?あれは…
「夜分遅くに申し訳ありません。道に迷ってしまって行くあてがないのです。どうか今晩この家で休ませてもらえませんか…」
そんな声が聞こえてきた。ここで完全に私の頭の中でピントが合った。絵本描きのお母さんが昔描いていたアレだ。
「鶴の野郎め…私の莉久に近づきやがって…ぶっ殺すぞ」
なんとしてでも莉久を取り戻す。そう私は決意した。