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迷宮世界で男子高生で斥候職で  作者: 多真樹
Gifted young person who shows much promise.
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第53話 年末迷始

8/19 しれっと連載再開です。10話くらい投稿できるかなと思います。


※スタートは主人公の妹視点からです

 兄が帰ってきたのは、実に九か月ぶりになる。

 兄とは、年子だからといって特別仲が良いわけでもなく、趣味も違えば好きなものなどほとんど被っていなかった。だが、身内として嫌っているわけではない。休日にパンツ一丁で家の中をうろつき、頭はボサボサで息も臭い父親よりは好感が持てる。ただし、見た目を気にしない父の遺伝子をそのまま受け継いだ兄は、着飾ることに興味はなさそうだった。

 どこにでもいる普通の兄だった。妹相手に意識していることもない。いや普通だと思っていた。中学の頃、休日にひとりで出掛けた兄が数日間行方不明になった。両親が心配していたが、最初のうちはどうせ友だちのところに厄介になって連絡を怠っているだけだろうと思っていた。

 しかし学校が始まっても音沙汰なく、食卓に兄だけがぽっかりといなくなってしまった。そのときようやくことの重大さがわかって、両親の不安が伝染してきた。もう生きてはいないんじゃないか、ベッドの中で恐ろしい想像が膨らみ、兄がいなくなった将来を想像して涙が出た。

 一週間ほど経った頃、兄が見つかったという連絡が警察から届いた。そのとき学校にいたが、母親から電話を受けて慌てた担任から伝えられた。迷宮にいたところを冒険者に保護されたらしい。なぜそんなところに? その日学校を早退し、入院しているという病院へ不安に駆られながら向かった。疑問は膨らみ、兄の状態がわからず困惑していた。

 結果から言うと、迷宮の奥深いところで、なぜそんなところにいたのか、どうやって潜ったのか、兄は記憶を失くしていて誰にもわからなかった。ベッドに寝かされる兄は健康そのものに見えたし、どうしてここにいるのか自分でもわからないといった顔だった。

 

何より衝撃だったこと。両親の顔は覚えているくせに、妹の存在を忘れていた。妹の記憶だけをごっそりと迷宮に落としてきたようだった。記憶の混濁があるらしく、ときどき意味のわからない独り言を呟いていた。

 体調が悪いわけでもなかった兄は、一週間もせず退院した。警察から事情を聞かれることはあったが、いつもどおりの日常がようやく戻ってきたと思った。

 しかしそうはならなかった。「人じゃない人がいっぱいいる。え? あの耳なに?」「歴史はどうなってるの?」兄は知らない国に迷い込んだみたいに驚いてばかりだった。家族からすれば兄がなにに驚いているのかわからなかった。

 戻ってきたと思った兄がよくわからない変化をしていて、家族が本当の意味で元通りになることはないのだと思った。母はすっかり消沈してしまって、藁にも縋る思いで怪しい宗教に手を出そうとして家族内ですったもんだあったが、それをきっかけに兄は妹と会話をするようになった。

 昔はそこら辺の石のように思われて特別相手にされないことも多かったが、というか中学生になったあたりから兄は自分の世界に入り浸って、家族と積極的に話をしなくなったが、いまはなんと言うか、クラスメイトが家にいて、緊張しながら話しているような――そんな印象を受けた。顔色を窺っているのだ。妹の存在を丸々忘れているのなら、それも仕方のないことだとは思う。けれども、寂しいという思いはどうしても付きまとった。

 「記憶が戻らないうちはそんなものだろう」と父は言った。「妹に惚れるなよ?」と冗談交じりな態度に、兄は真剣に頷いていた。ああ、自分の知ってる兄じゃないんだなとその横顔を見て思った。あれは思春期に入ったクラスの男子と一緒だ。家族に向ける目ではないのを自覚して、自制している顔だった。


 そんな兄が寮生活を選んだのは、きっと家に居場所を感じなかったからだろう。これまで迷宮に興味の無さそうだった兄が、のめり込むように迷宮学校へ進んでいった理由は、神隠し事件がきっかけだった。暗くて陰気で、絶望しかない世界から助け出されたというのに、普通はトラウマになりそうなものだが、あえて飛び込んでいく精神はどこからやってきているのだろう。

 進学して兄は元気でやってるかなと思うことはあったが、妹の自分からは特に連絡をしなかった。用事がなにもなかったのもそうだが、何を話していいのかわからなかったのが大きい。母は何度か連絡を取っていたらしいが、父は男は束縛されたくないものだろうからと気にしている様子はなかった。

 そんな兄が年末に帰ってくると連絡を母が受けて、父がソワソワし始めたのを見てため息が出た。なんだかんだ言って心配だったのだろう。もやしのような兄が冒険者になれるか妹の立場からしても不安しかなかったのだから。

 父はいつもより仕事を早く切り上げて、夕方に帰ってくる兄を家族で迎えた。

 そしてそこに、ちんまい女の子もセットだった。黒いローブを頭からすっぽり被った不思議な女の子だ。「なに? 彼女か?」と父が第一声で聞いた。


「違うって。パーティメンバーなんだけど、行くとこないからうちに誘ったの」

「誘ったっておまえ、女の子を自然に誘えるようになったのか……」

「そんなんじゃないって」


 邪推してニヤつく父を鬱陶しそうに見る兄は、自分の知っている兄だった。よくやったと言わんばかりの父が肩を組もうとしてくるのを無理やり引きはがす兄に対して、母は心配そうに眉根を寄せた。


「連れてくるのは構わないけど、親御さんには連絡してあるの?」


 振り返った兄は家まで伴ってきた少女を見る。


「電話した?」

「してない」

「してないって」

「じゃあしなきゃダメじゃない!」


 母に咎められて兄は少女から連絡先を聞き出し、それを母に回した。母は少しトーン高めに連絡を入れて電話越しにペコペコしきりだったが、どうやら問題なく預かることになったようだ。

 その日は急遽増えた客人と久しぶりに帰省した兄をもてなすために、豪勢な食事が振る舞われた。


「名前はなんて言うんだ?」

「黛闇音。留年してるから一応ひとつ上」

「え、見えない」


 むしろ中学生にすら見える。背の低さと、未発達な体型、それにどこか幼稚っぽいと思った。


「寝る場所どうするんだ?」

「え? 一緒のベッドでいいけど」

「イヤだめだろ。自分の部屋を貸してやれ。で、おまえは妹の部屋で兄妹で寝ろ」

「ええー」


 兄がとてつもなく嫌そうな顔をした。「いやいや、私だって嫌だが?」と思った。


「部屋を丸々貸したら何されるかわからない」


 顔色を悪くする兄が何を言いたいのか、何となくだが察した。

 父なんかは、エロ本見つかるくらい我慢しろと呆れていた。


「あたしだってお兄ちゃんに部屋入られるの嫌なんだけど」

「ごめん、僕はリビングで寝るよ」


 すごく申し訳なさそうな顔をされて、売り言葉に買い言葉のつもりだったのに、冗談の通じない感じがモヤモヤする。

 「十二月だぞ。いいから部屋で寝ろ」との絶対権力の父の決定は覆らず、兄は妹の部屋に布団を敷いて寝ることになった。

 寝る時間になって、部屋を暗くした。いつもはない気配があることに少しだけ緊張する。


「お兄ちゃんさぁ、なんで迷宮高校に進学したの?」

「たぶん、元に戻りたかったから」

「戻れた?」

「まだ、かな。いまその途中だから」


 どの段階が戻ったことになるのか、さっぱりわからない。その日は二言三言話して、気づけば就寝していた。

 翌日から家に居るかと思ったが、兄は同級生の黛さんを連れて何処かへの出掛けていった。やっぱり彼女じゃんと思ったが、ふたりとも着飾っていないしデートのような浮かれた感じもない。だいたい夕方に戻ってくるが、特に黛さんの方は疲れた顔をして帰ってくる。その翌日も、次の日も朝早くから出掛けて夕方に帰ってきた。晦日の日までそんな感じだと、干渉すまいと思っていたがさすがに気になる。


「ねぇ、毎日どこに出掛けてるの?」

「あんまり大きな声で言えないところ」

「あー、エッチなんだ! 毎日ホテルに連れ込んでるんだ!」

「……はぁ、そんなわけないでしょ」


 誤魔化しているとかの次元を越えてあまりに疲れ切った顔をするので、あ、これは男女のあれじゃないなと察した。


「じゃあどこなの?」

「元に戻るために必要なところ」

「……じゃあ迷宮?」

「……ご想像にお任せします」

「正解じゃん」


 わかりやすく顔を背けたので、そういうことだ。


「迷宮ってどこの? ここらへんに学生でも入れる迷宮ってないよね?」


 場所によっては入場料をとって、動物園のような作りになっている開放型の迷宮もある。それらは攻略済みで迷宮主が人の手に渡っている場合だ。


「明日は出掛けないよね? 大晦日だよ?」


 兄の後ろで黛さんがしきりに頷いている。出掛けるのは嫌らしい。いまや立派な迷宮オタクに育った兄に付き合わされる彼女が不憫に感じた。


「まぁ、二日までは休みにするか。墓参りや親戚付き合いもあるしな」


 幸いなことに毎年顔を会わせる親戚は、祖父母含め車で一時間の範囲に固まっている。毎年一日から二日にかけて、車で弾丸挨拶を行うのが我が家の恒例行事だった。両親ともに末っ子で、兄弟のところに挨拶に行く習慣が根付いているだけだが。


「でもまあ、新年だからお休みにはするつもりだったよ。行くところがあるし」

「親戚のところ以外に行くところある?」

「うん、僕の恩人のところ」


 そう言って笑う兄は、ちょっと嬉しそうだった。







 何の因果か気まぐれか、親戚の挨拶回りが終わった夕方、兄の後ろについて歩いている。

 挨拶回りにもずっとついてきて誰よりも遠慮しないで飲み食いだけしていた黛さんは、いまは隣で携帯ゲームに夢中になっていた。画面に異様に顔を近づけるスタイルはまるきり陰キャっぽくて、話しかけづらい。そもそも年下の自分に警戒しているのか、一度も話しかけてこないし。兄は「無視していいよ」としか言わないし。

 というかこの人、空気が読めないタイプだ。兄妹にお年玉を渡してくれる親戚たちが、隣で物欲しそうに指を咥えている黛さんに根負けして財布から五百円玉を渡していた。それを嬉しそうに掲げて兄に自慢するので、兄は親戚らに頭を下げながらも苦笑していた。


 着いた場所は二駅隣、寂れた商店街しかない平凡な駅だった。そこから歩くこと五分で、築年数が古そうなそのマンションはあった。エレベーターはなく、三階まで階段を上がる。

 三階のいちばん奥だけがなんだか異様にものが多い。部屋の前にはガラクタのような壺やら薄汚れた観葉樹が並んでおり、傘立てに無造作にショートソードが刺さっているのは如何なものだろう。鞘から抜くには登録した持ち主以外できない仕組みになっているようなので、無闇矢鱈に危険が伴うものでもないが。なんなら兄や父の部屋の壁には、本物の刀剣がいくつか飾られている。


「なんか陰気な感じ」

「まあ、ね。内緒で冒険者やってるのが奥さんにバレて、ずいぶん前に離婚したらしいから」

「うだつの上がらないおっさんじゃん」

「いい人なんだけどね、ちょっと押しに弱くて。財布のヒモも全部握られてたみたいだし」


 兄の足は微塵の迷いもなく、『苫米地』と書かれた部屋の前に立ってインターホンを押した。


「なんて読むの?」

「とまべちだよ。沖縄のほうの名前だったかな」

「……どちらさん?」


 声がして、扉が無造作に開いた。そこには髪はぼさぼさで、無精髭を生やしたくたびれたグレーのスウェットのおじさんが立っていた。どこに出しても恥ずかしくない覇気のないおじさんである。冒険者というより冴えない会社員の休日という感じがする。


「あけましておめでとうございます」

「おお、今日は大所帯じゃないの。あけおめさん。しかも女の子! かぁ! 若いっていいねえ」


 兄に紹介されると、苫米地氏は会釈を返した。


「若い子って言うけど、娘いるじゃないですか、べーさんにも」

「新年なのに会わせてくれないんだよ。娘が会いたくないってさ。年頃はほんと大変」

「前に会ったときより老け込みましたね」

「そう見えるなら人生うまくいってないってことだよ。幸せなら顔を見れば生気があるもんさ」


 奥から一匹の犬が顔を出した。ドーベルマンのような色合いだが、手足や顔つきがボルゾイのように異様に長く細い。


「ベンケイ! 来たよ」


 犬はふすんと鼻息を噴いて、兄の匂いを嗅いだ。誰だかわかったのか、すぐに尻尾を振って兄の腰を回るように頭を擦り始めた。


「飼い主より喜んじゃって」

「誰も訪問しないから寂しいんですよ」

「言ってくれるね、自慢じゃないけど週三でくる食事宅配のお兄さんにもベンケイは尻尾を振るんだからな」

「ほんとに自慢じゃない」


 「立ち話もなんだから」と苫米地氏は切り上げ、「こんなおっさんの部屋に若い子を上がらせられるか」と兄に近くの公園で待つように言って部屋に引っ込んでしまった。兄に従って公園で待っていると、三十分ほどで髭を剃って髪を梳かした休日のお父さん風の苫米地氏がやってきた。愛犬のリードを握りながら。

 「夕飯は俺の行きつけでいいだろ? ベンも入れる店なんだ」と特に異論もなく食事処が決まり、兄と苫米地氏が話しつつ話題を振られる形になった。

 それぞれ料理を頼んで、他愛ない話をしていると順番に料理が並べられた。


「で、野良に潜ってるのか? ほんとに懲りないな、おまえ」

「強くなるためですから」

「そっちの黛さんって言ったか? お嬢さん連れ回して自分の欲求満たしてんでしょ」

「強くなるためのプロセスですよ。彼女、素質は最高級なんですから」

「幻想種には見えないが? 良くある犬系統だろ」

「なんと吸血鬼と人狼のハーフで、どちらの特質も引き継いでるんです」

「そりゃすげえ。SSRクラスの配合結果だ」

「でしょ。夜行特性バフは通常の四倍になりますよ」

「限定能力ってことか。でも一日の半分強くなるなら十分チートだわ。その分、昼間は四分の一になりそうだが」

「それも昼行耐性を取ってステータスを上げていくうちに、平均レベルまで取り戻しました」

「それじゃあデバフを消してバフだけ残したって感じか。ロマン砲に近いものがあるな」

「ええ、ふふふ」

「くくく」


 黛さんは自分のことをゲーム感覚で語られているのに、まるで興味もなくステーキ肉を頬張っていた。もうちょっと怒ってもいいと思うが、こんな兄とやっていくにはいくらか無頓着でないと疲れてしまうのだろう。犬のベンケイが机の下で取り皿にがっついているが、どうしてだろう、黛さんの姿と重なって見える。ちらりと黛さんが足元のベンケイを見やると、同じタイミングで皿に突っ込んでいたベンケイが顔を上げて視線をぶつけ合う。どちらともなくピクリと耳を動かして、また食事に戻っていった。何の間だったのだろう?


「俺が言えた義理じゃないが、こんなことがバレたらどっちも破滅だぞ?」

「その前に誰も文句を言えない立場になればいいんですよ。期待してますよ」

「簡単に言ってくれるぜ。まぁ小遣い稼ぎにはなるから、こっちとしては願ったりなんだが」

「うぅっ、僕の憧れた冒険者が高校生から仕事をもらわないとやっていけないなんて……」

「うっせぇよ。しょうがないだろ、パーティ組んでたふたりが知らない間に子どもこさえて結婚解散しちゃうんだもんよ」

「ちょっと惚れてた?」

「言うなよ。日々怪物ばっかり相手にしてると、顔はどうあれ人間味のある優しさに弱くなっちまうんだ」

「なんでアタックしないかなぁ」

「おいおいやめろやめろ、オッサン泣かせて誰が得するんだよ……」


 横では兄と苫米地氏が不穏な会話をこっそりと進めていた。全部聞こえているのを指摘するべきだろうか。その後も近況報告やら話題の武器やら取り留めのない話をしていた。時々苫米地氏から話を振られてそれに答える程度で、夕食会は何事もなく終わった。

 快く食事代を一手に受け持った苫米地氏だったが、店から出てきた氏は財布を遠い目をしながら、薄くくたびれた財布を後ろポケットに突っ込むのを見て、世知辛いなにかを察するのだった。









 冴えない中年冒険者の家を訪ねた次の日、兄たちはまた出掛けていった。

 結局何が冒険に夢を見させるのかわからないまま、わかったのは冒険者という職業が脚光を浴びるようなスター性のある仕事ではないということ。そもそも生き死にが極端な世界で、これが仕事足り得るのかも怪しい。

 知識としては、迷宮の穴を塞がなくては、いずれこの世界が大量の魔物で溢れ、世紀末のように荒廃する恐れがあることも学校で習うし、そのために知識と経験と実力を兼ね備えた冒険者という存在が必要不可欠であるというのはわかる。

 しかし、若者の間で流行っているのは、突然できた野良穴に入って実況し、無事に生還するという肝試し感覚の幼稚なものだ。なんなら敵と遭遇して倒してしまったら、それはもう英雄視されるほどの快挙だろう。

 実況中の死亡なら、高層ビルの屋上から転落死したり、世界最高峰の雪山で滑落死などという動画もネットの世界にはいくらでも転がっている。迷宮での生実況がないのは、電波が遮断されてしまうからだ。だから生存した人間しか動画投稿はできないし、知られていないだけで素人が野良穴に入り、そのまま帰ってこないなどの行方不明事件はいくらでも存在する。

 自分の学校でもひとつ上の学年の男子のひとりがある日突然いなくなったが、そういう事件は度々ある。拉致誘拐の事件だって、知られていない野良穴に連れ込まれてしまえば足跡ひとつなくなるのだ。

 日本ではまだそこまで危険視されていないが、海外のスラム街をひとりで歩くことは、荷物を全部奪って殺してくださいと言っているようなものらしい。だからもし、本当に兄が黛さんとふたりだけで野良穴を攻略しているのだとしたら、ふたりを見る目が変わってしまうだろう。

 怖くないのか、危険じゃないのか。たったふたりで攻略する実力があるというのか。だからまあ、誰にも言わないのだろうが、夕方安全に帰ってくる保証がいつまであるかわからない。そう思ったら、ふたりを朝見送るのが怖くなる。

 もう帰ってこないのは嫌なのだ。兄が行方不明になったあの不安をまた味わうのかと思うと、ゾッとしない。だからだろうか。決めたら行動まで悩まなかった。ふたりのあとをこっそりと付ける。そしてどこに向かうのか突き止めなければ、この不安は消せそうになかった。


 家から出て駅に向かうふたりを尾行していると、三駅先の活気のない駅で降りた。住宅街と古い家の半々が、山と坂と入り組む小道の中で窮屈そうに収まった地域だ。こんなところには住民以外足を踏み入れないだろうに、兄はスマホを片手に道を探しながら進んでいく。ふたりはぽつぽつと話しているようだったが、さすがに聞き取れるほどの聴覚の良さはなかった。

 やがてひっそりと忘れられた廃屋の前で足を止める。

 門は壊れて脇で朽ちており、枯れた雑草で庭が埋め尽くされていた。そんな中をふたりは石畳に沿って玄関口まで進んでいく。中に入るのかと思いきや、曲がって縁側の方に進む。そこには陰気に繁る柑橘の木と、その足元に手入れのされていない小さな池があるだけだった。


「ここで間違いないね。池が異界化してる。迷宮の入り口だ」

「はぁ、早く終わらせて帰りたい。寮の部屋で一日中引きこもっていたい」

「そんな勿体ないことさせないから安心して」

「安心してとはなんぞ?」

「近場の野良迷宮はここで最後だよ。思ったよりも鬼レベルのところがなかったし、順調に闇音をビルドできたし、言うことないよ」

「うちのことゲームのキャラかなにかだと思ってるなー?」


 聞き耳を立てる妹の自分も、さすがに兄の方にデリカシーがないなと思った。やってることが育成ゲームなのだ。野良穴といえば人があっさり死んでしまう危険なところだというのに、それを散歩でもするかのような気軽さで語る兄は、本当に自分の知っている兄だろうか。


「じゃあちょっと覗いてみて準備がいるか確認するね」


 下草の生えた池に近づき、膝と手をついて池の水に顔を突っ込む兄。いや、異空間に顔だけ浸けているのだろうが、後ろから見たら池の水を飲む若者である。みっともない姿だ。黛さんはそんな兄の尻をゲシゲシと蹴って、少しでもストレスの発散をしているようだ。気持ちはわかる。


「!」


 慌てて頭を引っ込めた。黛さんが突然振り返ったのだ。見られただろうか。狼獣人の血が入っているというから、鼻はいいはずだ。ぼうっとしているというか、少し間が抜けているから忘れがちだが、種族上元々の五感は鋭いのだ。

 幸いすぐになんでもないように池の方に顔が向いたので、見つからなかったようだ。心臓がいやにはねあがっているのを押さえながら、気をつけて様子を見守る。


「入り口は安全だね。じゃ、僕から先に行くよ」

「いってら」

「闇音もちゃんと来るんだよ」


 兄が先に池に飛び込む。その後に黛さんが続くのかと思いきや、こっちに向かって手招いてくる。どうやらバレていたようだ。おとなしく姿を見せる。


「妹ちゃんお兄ちゃん好きそうに見えなかったけど」

「そういうんじゃないけど、ちょっと心配になっちゃって。あの人、一度行方不明になって迷宮で発見されたことあるから」

「なにそれ初耳」(←忘れてる。聞いたことある)

「黛さんは嫌じゃないんですか? 危ない場所に連れ回されて」

「……嫌だと思うときもある。でも逃げ出す方が面倒くさい」


 あ、この人怠惰な人なんだと、疑念が確信に変わった。断るのも面倒臭いから付き合っているだけで、嫌でも望んでもない。指示待ち人間とまではいわないが、たぶん一生変わらない類いの性格だ。


「妹ちゃん、ここで待ってる? たぶん夕方には戻ると思うけど」

「やだ、あたしも行く」

「じゃあうちが見てないうちにどうぞ」


 そう言って両目を手で塞ぐ黛さん。こんな子ども騙しで兄が納得するとも思えないが、見つかってしまったのだから隠れているのも馬鹿らしい。意を決して、叶愛は池の中に飛び込んだ。


「うわ! 何で闇音じゃないの!」


 兄の驚く声が迎えたそこは、鬱蒼と繁る森にぽっかりと拓けた広場みたいな場所だった。周りの木々は総じて太く大きく、枝葉の天井の隙間から赤い月が見えた。外は朝だったのに、ここでは夜なのだ。そもそも迷宮の中に空があるということに驚きを隠せない。

 月明かり以上に視界がクリアなのは、空中をふよふよと漂う発光体のおかげだった。風もないのに漂い、淡い幻想的な光を発している。


「なんで入ってきた? ついてくるだけなら放っておこうと思ってたのに」

「お兄ちゃんも気づいてたの!?」

「そりゃ、斥候職でしたから?」

「どこで気づいたの!」

「僕らが出かける準備してたら同じタイミングで着替えに戻ってたから、どこか行くのかと思ってそれとなく見守ってたら尾行してくるし」

「始めからじゃん!?」

「あんまり大きな声は出さないで。こんな風景でも魔物がうろつく迷宮なんだから」


 視線をそこらへ向けるが、シンと静まって生き物の気配はない。すると、遅れて闇音さんが降りてきた。


「闇音、妹を入れるなんてどういうつもり?」

「うち見てないから」


 そういって両目を塞ぐ闇音さんに、兄は何を言っても無駄だと悟ったのか肩を落とした。


「外で待ってるくらいなら一緒でも良くない?」

「どんなレベルの魔物がいるかわからないから、危険なところに来てほしくないんだけど」

「うちはいいの?」

「闇音を鍛えるために野良巡りしてるんだよ!」

「うちばっかり働かされてズルい! 妹ちゃんも働くべき!」

「といったってまだ役職すら定まってないのに、戦えるわけないだろ」

「うちが行けるんなら平気平気」

「その自信はどこから? 僕は戦えないんだから、ふたり分守るために闇音がいちばん頑張んなきゃだよ?」

「え、やだ」

「考えればわかりそうなものを」

「で、あたしはこのままついていって良いの?」

「だってねえ、戻るのにもちょっと苦労しそうだし」


 見上げる兄の視線を追ってみれば、二メートルほどの高さに水面のような何かが浮いている。あの不思議な場所から下りてきたのだ。


「三人で肩車すればなんとかなるかもだけど、まぁそれは最後でいいや」


 兄がどこからか石を取り出した。その石は緑色に光っている。


「全体的な魔物の強さはそれほどじゃないから、なんとかなりそうだしね」


 「これが赤くなると、たぶん僕や闇音は瞬殺されるレベルの魔物がいる」とあっけらかんと笑う兄。言葉の重みが胃の底にずしりとくるのに、軽口のようで嫌になる。日常から一線を画した場所なのだと身震いした。

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[良い点] 更新キタ! やっぱり面白い。
[一言] 更新再開ありがとうございます! 家族視点だとドッペルゲンガーみたいな成り替わりみたいなものだからなぁ。妹ちゃん視点面白いです!
[良い点] 更新ありがとうございます。待ってました! [一言] 家族、妹からすれば、突然の記憶喪失と障害で別人(実際にそうだが)になった様ですから気になりますよね。
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