幕間層 修行中の夢
これは夢だな、と思ったのは、姫叉羅自身が大人の姿になっていたからだ。
スーパーで日用品の買い物をしている。カートの上下のカゴには食料品が山盛りに乗せられている。それを押しながら、買い物リストに目を落とし、漏れがないことをチェックしている。鶏肉と豚肉で悩むところに、どうしようもない主婦感があるなと自分でも思った。そんんところにお腹にぶつかってくる何か。
「ねえママ! 〇〇がおかしダメだっていじわる言う!」
「ちがうよママ! 〇〇のほうが二コとったんだよ!」
「ひとり一個にしなさいよ」
下を向くと、腰に引っ付いている黒髪で目元を隠した女の子。こめかみに小さい角が生えている。
そしてもうひとり、足下に縋り付いてくる一回り小さな男の子。姉と弟のふたりの姉弟だ。頭を適当に撫でるとお菓子コーナーへ駆けていった。その子たちに向けて、姫叉羅は自然と母親のようなことを言っている。顔をよく見ようとしても表情がわからないし、名前がぼんやりとしているが、額に角があるし、くしゃっとした髪質は自分の遺伝だった。
「ねえパパぁ、二コかっていい?」
「ママが一個って言ったでしょ。二コは多いよ。また今度にしなね」
「ケチー」
「パパケチー」
「なんでパパだけケチなのさー?」
子どもたちと手を繋いだ、少し小柄な男性が歩いてくる。黒髪で穏やかな笑みを浮かべていた。その姿を目にした瞬間、姫叉羅の心臓がどくんと跳ねる。何か変なことでもあっただろうか。今日はふたりの子どもと旦那と買い物に来ているだけ。なにも変じゃない。
ああ、結婚したんだっけ。いや、これは夢で。いやでも、本当かもしれない。結婚式で祝われた気がしなくもないし、好きな男をかけて龍村と真剣に向き合ったこともあったような。
「ママ、今日の夕飯何するか決まった?」
「パパの食べたいもの作るからリクエスト言って」
「うーん、ママのごはんはなんでも好きだから迷っちゃうな~」
姫叉羅はカートを押しながら、隣に並んだ旦那様の手をこっそりと握った。顔から火が噴くほどの緊張をしている。結婚して子どもまでいるというのに、いまだに初々しい。ああ、いまアタシ幸せだ。そんなふうに思う。なんてことのない家族の一幕。それが涙が出るほど幸せだった。
「どうしたの? 寂しくなっちゃった?」
「……別に、たまにはいいだろ」
「僕はいつでもいいよ。姫叉羅はすぐ照れて可愛い反応してくれるからね」
「うっせ」
握る手が熱い気がする。手汗とか大丈夫かな、なんて姫叉羅は思った。
少し前を歩いていた弟の方が転んだ。姉がしゃがみ込んで泣きべそを掻いた弟を起こそうとしている。旦那様も姫叉羅の手を離れて子どもたちのもとへ駆け寄っていく。
姫叉羅はそれを、きっと笑いながら見つめていたと思う。
「……ふぁ?」
ぱちりと目が覚めて、暗い部屋でぼーっと天井を眺める姫叉羅は、手の感触を思い出していた。スマホのアラームが鳴っているのを無意識で操作して止める。
子どもたちの顔と、旦那の笑顔。休日は一緒に買い物に出かけるごくありふれた日常の一コマ。
子どもたちと旦那の朝ご飯を作らなきゃ。いや、違う。ここは父方の実家で、寝泊まりしている座敷の一部屋だ。頭が起動してきて自分の夢を思い出すと、と恥ずかしさに姫叉羅は「くぅっ!」と言葉にならない声を漏らした。毛布の中でゴロゴロと悶える。
「姫叉羅ぁ! うっさいよ! あんたが暴れると家が揺れるんだよ!」
「そ、そこまでじゃないよ!」
下の階から母親の怒鳴り声が聞こえたのを、姫叉羅は焦りながら大声で返すのだった。
姫叉羅は年末から曾祖父の家にやってきていた。
古いだけの屋敷には総勢三十人以上の親類が毎年集まり、挨拶を交わす習慣みたいなものがある。その中に姫叉羅の兄もいて、長兄は生まれたばかりの娘をお披露目して親戚中の人気を掻っ攫った。姫叉羅だって姪っ子に会えると思わなければ、こんな面倒くさい行事は欠席していただろう。現に、三人いる兄のうち、次兄・三男は留学だ合宿だと理由を付けて欠席していた。
小さな角を生やした赤ら顔の姪っ子はきゅん死するほど可愛かった。兄の奥さんはこれまた由緒ある鬼人族の娘である。
「……なにムスッとしてるんだよ」
「別に」
姫叉羅は突き刺すような水に打たれながら、隣で平然とした顔の従姉に憮然と返す。三つ離れた父の兄の娘で、女兄弟のいない姫叉羅にとって、昔から姉妹同然に育ってきた気の置けない姉貴分である。
「姫叉羅が真面目に修練するなんて珍しいと思ったけど、男に振られた?」
「ち、違うよ。ちょっと自分の実力に自信がなくなったから、鍛え直そうと思って」
「ああ、冒険者学校でボコボコにされたか。そこで挫けないのはいいことだ」
「立ち止まってる暇もないって」
従姉は目を閉じながらも、滝上から落ちてきた巨木を一瞬で蹴り上げて粉砕していた。彼女は普通の学校を卒業したが、趣味が高じて冒険者業に片足を突っ込み、そのまま企業お抱えの冒険者になった。昔から花より武道という感じで大会を総なめにしてきたので、就職すると聞いたときは不安しかなかったが、蓋を開けてみれば納得のいく場所に収まっていた。
「姉ちゃんは迷宮のこと、危ないと思わないの?」
「そりゃ思うさ。武道は寸止めだけど、魔物は足を溶かしたり、首を切断しようとしてくるからね。この前なんて火を噴くデカい鳥に同僚が丸焦げにされたよ」
あははと笑う従姉も、やはり少し感覚が麻痺しているのだろう。死なないかぎり大事にはならないと思っている節がある。姫叉羅もその感覚に慣れつつあったが、それはあくまで死に戻りできる学校の迷宮が特殊なのであって、野良の迷宮を攻略する従姉は、常に死がつきまとっている。
「こりゃ、ふたりとも、集中せんか」
祖父の声とともに、何かが飛んでくるのがわかった。姫叉羅と従姉は、目を閉じたまま拳で打ち砕いた。目を開くと、岩が砕け散って水面に落ちていくところだった。ちらりと従姉の方を見ると、片目を開けて「やるじゃん」と笑いかけてきた。
「よし、滝行を止め。組み手じゃ」
びしょ濡れの胴着のまま水から上がると、髪の長い従姉は後ろで縛り、姫叉羅は滴る水ごとくしゃくしゃの髪を掻き上げて、後ろに撫でつけた。
素足のまま土の地面を踏みしめ、半身で向かい合う。右の手を前に出し、従姉の手に、手の甲を打ち合わせた瞬間から攻防が始まる。従姉の手数は多かった。重心をずらそうと踏み込んできたり、かと思えば顎を狙って死角から蹴り上げてきたり、一年前の迷宮学校で死ぬ体験をしていなかった姫叉羅なら躱しきれずに昏倒していただろう。
「ほぅ……」
「やるな、姫叉羅! これならもっとギアを上げてもついてこれるな!」
「こいよ姉ちゃん! 伊達に何度も死んでないんだよ!」
調子に乗ったのが運の尽き。ギアを上げるの言葉通り、フェイントか攻撃か一切見極めができなくなった従姉の攻め手に、徐々についていくことができなくなって、最後は懐に入られて投げ飛ばされた。
「いや、ちょっと見ない間に姫叉羅も成長したね」
「姉ちゃんとの実力差にも絶望するよ」
「なに言ってんの。ちょっと慎重なところがあるけど、十分に渡り合えてるよ。ねえじいちゃん?」
「おぉ、正味指導だけになると思うとったが、十分に研鑽を積んどる。思い切りの良い手数が増えれば、なかなか面白いことになるのぉ」
それからは祖父から技を教わり、従姉と何度も手合わせをして、技をひとつでも盗むつもりで捌いていた。あっという間に半日が過ぎ、疲労感とともに充足が体の隅々まで広がっていた。
「最後に、この大岩を殴ってみぃ。割れれば免許皆伝じゃ」
「うちになんか皆伝するような武術ってあったっけ?」
「姫叉羅、じいちゃんはノリで喋るタイプだよ」
そうは言いつつも、基礎的なことはしっかりしていた。あくまで祖父の気まぐれで修練をしているに過ぎないので、流派はなかった。しかし間違いなく、祖父からは強者の匂いが感じられる。それはそれなりの死線を潜ってきた姫叉羅だから、余計に思うのかもしれない。
従姉が背丈よりもずっと大きな岩を殴り、お手本のように真っ二つに割った。姫叉羅は別の岩に挑戦したが、拳がめり込み、罅が入る程度だ。
「力の込め方がまだ甘いのぉ」
「一点集中。無駄をすべて省き、一点にのみ力を集約させる。これができれば姫叉羅のレパートリーも増えるんじゃん?」
「絶対に習得してやる」
始業式まで時間がなかったが、帰宅する前日、姫叉羅は大岩を割ることに成功した。
〇〇〇〇〇〇
大地の向こうに夕日が沈もうとしていた。
荒野がオレンジ色に染められていて、稜線を縁取る暖かみがゆっくりと闇に落ちようとしている。群青の空には、すでに星々が散らばり始めている。
龍村は後ろから、毛布と一緒に安心する腕に包まれていた。
「ずっと景色を見てるね」
「私は昔、祖父に連れられてこの景色に感動したんだ。だからおまえと一緒に見られて嬉しい」
「言葉じゃ言い表せないくらい、壮大で美しいと思うよ。絵画の枠に収めるにはもったいないね」
頬に口づけされる。唇が少し冷たかったのは、風が少しひんやりしてきたからだろう。それでも暖かいのは、包まれる毛布の中で心までしっかりと温められているからだ。
「好きだよ、龍村」
「私もだ、リーダー」
「ふたりっきりなんだからリーダーはないでしょ」
「ああ、そうだったな――愛してる」
「僕もだよ」
そしてお互いの唇が重なる――。
目が覚めると断崖の途中でビバークしているところだった。風除けのテントが張られており、一瞬ここが雪山の山頂付近だと忘れてしまう。空気が氷のように冷たいことで、ここがどこかを思い出した。ツンと鼻の奥が傷むのも、高所の所為か。
祖父が湯を沸かしてコーヒーを作っている。
「気が付いたか?」
「私は……」
「記憶が朧げだな。冬眠寸前だったぞ」
「ああ、すみませんでした」
「どうした龍村、顔が赤いぞ。熱が出たか?」
「いや、なんでもありません。夢を見ていただけです」
「そうか、そういえば今日は初夢だな。正夢になるといいのぉ」
「正夢……」
祖父から手渡されたカップをすすると、腹の底から温まるようなホットミルクだった。
「それにしても龍村から極寒訓練がしたいとはのぉ。目に力が宿って、すこぶる良いぞ」
「これ以上、私が足を引っ張るわけにはいきません」
「耐寒性が低いのは竜人族の性だが、克服できんわけでもない。まずは内燃器官を鍛えるのだ」
「はい」
「火を噴くために体内の熱を上げる。その状態を維持すれば、自ずと意識を保っていられるはずだ」
「まずは氷点下の中、シャツ一枚で耐える訓練からやるぞ」
「はい!」
防寒服を脱いで、タンクトップのインナー一枚になる。それは祖父も一緒で、なんなら半裸で下はスポーツスーツのハーフパンツに裸足だった。祖父の体はまったく衰えない筋肉質の塊で、灰色の髭と髪以外は全盛期から変わっていないんじゃないかと思えた。
龍村も気合いを入れて、横殴りの猛吹雪の中を仁王立ちで耐えたが、三分もせずに意識を失いぶっ倒れた。
船の上で波に揺れている。
目の前の黒々とした島は、血脈のような溶岩がいくつも流れていた。ドロドロの血筋は海へ流れ込み、白い煙をもうもうと立ち上らせている。鼻を刺す臭いが潮の香りに混じって流れてくる。空は曇り空に覆われて、不穏な雰囲気だった。波が船縁に当たり、ぱしゃんぱしゃんと音を立てる。
「見せたかったんだ。私が感動したものを」
「自然の驚異だね。地球が生きているって実感するよ」
「面白い言い回しだな」
「龍村は世界のいろんなところに行ったんだね」
「ああ、祖父のおかげだ」
強い風に煽られないよう、龍村は座り込んだ青年を後ろから抱きしめていた。頬に触れる無造作な柔らかい髪の感触に、頬ずりしたい気持ちを我慢しなければならなかった。青年は感動しっぱなしで、龍村のことなど気づいていない様子だ。ならばと首に腕を絡め、彼の背中に密着する。青年の心音が伝わってきたが、思ったより早鐘を打っていた。ドキドキしているのをポーカーフェイスで隠していたようだ。それが嬉しくて、抱きしめる腕に力がこもる。
「たつ、たつむらさん?? く、くるしいです……」
「ああ、すまない!」
腕をタップされてようやく彼が息苦しかったことに気づいた。
顔を見合わせるが、怒っていなかったようで苦笑された。見つめ合う時間が続く。龍村は吸い込まれるように顔を近づけ、そして……。
目が覚めると極寒の世界だった。テントの中で寝袋にくるまっている自分がいる。目の前には先ほど見たような鍋を火に掛ける祖父がいた。
体内の熱を上げ続けられなかったのだ。祖父が抱えて寝かせてくれていた。体温が下がるから眠くなって意識が遠くなるのを、内燃機関を燃やして体温を無理矢理上げる。そのために食料の摂取は必須で、祖父は荷物いっぱいに食べ物を持ち込んでいた。祖父の荷物の九割方は食料だった。超高所の雪山だというのに、祖父の着ているものは半袖短パンに裸足である。竜人族の完成形とも呼べるのが祖父だった。世界中旅して様々な迷宮を踏破しているので、生きた伝説とも呼ばれている。
「起きたか。まずはこれを飲め」
「はい」
冷え切った体に砂糖を溶かしたホットミルクはじんわりと染み込んだ。
「ほれ、飯だ。腹になにか入れんとな」
「ありがとうございます」
手渡されたバゲットの中には、肉やゆで卵が挟まっていた。齧り付くと、照り焼きのソースが食欲をさらにそそる。
「その、なんだ、龍村。おまえ好きな子おるんか?」
「なんですか、急に」
「寝言で『おまえに見せたかった』だの、『祖父が』どうのと、惚れてるやつでもおるんか?」
「忘れてください、いますぐに」
「いや、誰にも言わんぞ? わし口固い」
「もう一度やります。今度こそ耐えて見せます」
与えられた食事をあっという間に平らげ、龍村は立ち上がる。きっと顔が熱くなっている。腹の底から熱くなっている。この熱がずっと続けばいいと思った。
「龍村が気に入った男じゃったら、わしんとこに連れてきなさい。いっちょシゴいちゃる」
「絶対嫌です。死にます」
「ほーん。やっぱり男やったのぅ」
「お爺様?」
ギロリと睨むと、あの生ける伝説、無敵の竜人と言われた祖父が目を逸らす。
タンクトップ一枚になって、突き刺すような寒さの中で深く呼吸をする。腹の底から熱を滾らせ、吐息に焔を混ぜながら吐き出す。じんわりと汗を掻くほどの灼熱を体内に生み出す。すると体の周りに熱の膜を張ったように、吹き付ける吹雪を肌に触れる前に蒸発させる。
足を引っ張りたくない。その一心で自らを鍛え直す。なぜここにいるのか、夢がすべてを物語っていた。
正夢が現実になってほしい、いや、実現するんだという思いが、龍村を駆り立てた。そして十分ほどで意識が飛んだ。