想い出のカタチ
1
高島アイラが目を覚ますと、そこはホテルの一室だった。
隣でいびき混じりの寝息が聞こえ、ふと見ると、髭面の男が眠っていた。
(ああそうだ、昨日はこの人の部屋に泊まったんだ)
彼女は微笑みながら、隣で眠る愛しい男の顔を眺めた。
男の名は川端といって、名の知れた映画監督だった。舞台から映画界に転向した彼女を、主役に抜擢してくれた男でもある。
――
昨夜、撮影が終わると、撮影陣のみんなで近くの居酒屋で飲み会をした。会がお開きになった後、川端はアイラを誘った。
「この近くにお洒落なバーがあるんだ。ふたりで一杯やらないか」
この誘いをアイラは快諾した。他のスタッフや出演者たちの目を忍びながら訪れたバーは、川端の前情報通りとても雰囲気がいいところだった。川端はバランタインの12年を水割りで、アイラはラフロイグのクオーターカスクをストレートで注文した。
「そんな酒よく知っているな」
川端は、アイラが自分の知らないスコッチを注文したことに驚いたようだった。女性だからとたかをくくっていたのだろう。しかし、アイラにはスコッチにはとりわけ愛着があった。
「私、子供の頃スコットランドに住んでいたの」
と彼女は答えた。
川端はその酒を飲んでみたいと言って、アイラの前に置かれたチューリップ型のグラスを持った。しかし、それを鼻に近づけると、うっと呻き顔をしかめてしまった。どうやら独特なヨード臭が堪えたらしい。だが、アイラにとっては、これはとても懐かしい香りだった。スコットランドの血が半分入っている彼女にとって、スコッチはとても愛着が持てるものだった。
1杯目を飲み終わり、川端はマスターに、ジョニーウォーカーのブラックラベルをハイボールでと頼んだが、アイラはロブ・ロイというカクテルを注文した。これもまた、川端は知らない酒だったようだ。
ハイボールを飲んでいる間、川端はむっとした顔で煙草を吹かし、あまり喋らなかった。アイラに酒で負けたと思い悔しかったのだろう。彼の子供のように意地を張る性格も、アイラにとっては可愛いと思えるのだった。
ホテルに帰ると、アイラは自分の部屋に戻らず、川端の部屋へと行った。シャワールームでシャワーを浴び、ベッドで彼と抱き合った。愛する男と身体を重ねられる嬉しさを、彼女は感じていた。
――
ベッドを出て、裸のまま窓へと歩いた。窓の外には海が広がっていた。午前6時にもなっていない時間なのに、海には船が何台も往来していて、海辺にはたくさんの人たちがいた。海の男たちの朝は早いものだと彼女は思う。
背後でシーツの擦れる音がかすかに聞こえた。振り返ると、川端が目を覚まして、こちらを見ていた。
「もう起きたのか」
「ええ」
とアイラは応えて、川端に自らの裸体を惜しげもなくさらした。今さら出し惜しみする必要などなかった。昨夜も含め、何度も互いの身体を確かめ合った仲なのだ。
「あなたも起きたことだし、そろそろ自分の部屋に帰るわね」
アイラはベッド脇に投げ出していた衣類を手に取り、下着から自分の身につけ始める。
「もう帰るのか」
川端は残念そうに言った。
「だらだらして、もしあなたとの関係が他の人に知れたらマズいでしょ」
「それもそうだな」
川端も納得したようだった。ふたりの関係を知る者は、今のところ他に誰もいなかった。現在注目を集める新人女優と、映画監督との関係が誰かに知れると、スキャンダルになること必至だろう――その懸念もあった。しかし、ふたりが互いの関係を秘密にする理由は、それだけではなかった。実は、川端が既婚者であり、家に帰れば妻と娘が待っているのだ。つまり、アイラと彼とは不倫の関係にあった。
アイラとっては、川端が結婚していようがしてなかろうが、どうでもいいことだった。彼女は、彼のことを人間としても尊敬していたし、男として本当に愛していた。かといって、彼を奪う気持ちも、家庭を壊してやろうという気もない。彼女は今の関係性で満足していた。ただ、不倫関係が世に知れると、自分だけでなく彼やその家族にも影響を与えてしまう。だから、他言は絶対にしないと、彼女は心に誓っていた。
2
その日の撮影は朝の9時からの予定だった。それよりも30分早い8時半にアイラは現地入りした。
「おはようございます」
主役に大抜擢された新人の威勢のいい挨拶に、スタッフたちも笑顔で「おはようございます!」と返してくれる。
みんなの対応は、以前とは随分変わったと思う。前回、川端の監督する映画に準主役級の役で抜擢された時、新人が脚光を浴びやがってと、スタッフも共演者も冷ややかな視線を彼女に送っていた。そんな彼女が、ここまで周囲と馴染めるようになったことには、ひとえに川端の内助の功が大きい。川端は、彼女が少しでも居心地がよくなるように、色々と気を遣ってくれたのだ。
その日の撮影は順調に進んだ。映画のストーリーは写真家を夢見る女子大学生を主軸にした、ノスタルジックな雰囲気のファンタジーだった。主人公は、海の写真を撮りに、日本海に面するとある街へと赴き、そこで知り合ったひとりの男性と恋に落ちる。
アイラは自身の演じる主人公の役柄をとても気に入っていた。彼女がカメラに夢を託すのと同様に、アイラも夢をもってこの世界に入った。また、世間的には高校生と言われる年齢から役者の勉強をはじめ、ひたむきに頑張ってきた彼女には、これまで誰かと恋をする余裕もなかった。まだ10代でこのような美しい恋ができるこの主人公が、とても羨ましかった。
夕方には、ラストシーンの撮影が行われた。恋をした男性が実は幽霊だったと分かり、決して写らないと知りながら、消えゆく彼の姿にカメラを向け、何度も写真を撮るシーンだ。アイラは、役になりきって、一生懸命にシャッターを押した。心の中が悲しさでいっぱいになり、自然と目から涙が溢れてくる。
叶わなかった恋をせめて想い出に残したい――主人公のそのような願いにアイラは自身の心を重ねていた。
やがて、川端の「カット!」という力のこもった号令が、辺りに響いた。
「みんな、お疲れさま! 合間に差し挟むための細かい撮影は残っているものの、大方の撮影はこれで完了だ」
川端は全員にそう告げた後、アイラの方へと歩いてきた。
「お疲れさま。名演技だったよ。素晴らしいシーンが撮れた」
川端はアイラを満面の笑みでねぎらった。
「ありがとうございます」
アイラは涙を拭って言った。川端は彼女の耳元に顔を近づけて囁いた。
「今晩もどうだ。祝杯といこうじゃないか」
アイラは川端の目を見つめ、にっこりと微笑んだ。それはOKの合図だった。
3
映画『想い出のカタチ』公開まであと1ヶ月と迫っていた。
映画評論家や業界人からの評価も、世間の注目度も高い。大ヒット間違いなしという前評判だった。川端もアイラも、それぞれインタビューやバラエティー番組への出演を通じ、宣伝活動に追われてとても忙しい。
ふたりは互いのスケジュールの合間を縫って、久々に都内のバーで落ち合っていた。ふたりの密会がばれないよう、川端が店を貸し切ってくれた。これなら、ふたりきりでいるところを他の客に見られる心配はないし、バーテンダーには守秘義務がある。
川端はタンブラーを、アイラは三角のカクテルグラスを手に、乾杯を交わした。彼女グラスの淵に口をつけ、少し中のカクテルをすすった。ここのホワイトレディは、程よい酸味と甘みがあいまって、とてもまろやかだった。一息ついて、アイラは川端に言った。
「映画、成功しそうで、よかったわね」
川端はグラスをコースターの上に戻した。
「喜ぶのはまだ早いさ。前評判がよくても、実際封切りになったら大コケだった、なんていう話はよくあることだしね」
川端は謙遜したが、それでも顔は自信に満ち溢れていた。未来の成功を信じて疑わないのが見てとれた。
それから、ふたりは色々な話をした。川端の今後の映画の構想や、アイラの女優としてのこれからの目標、そして川端の家庭の話まで、話題は多岐に及んだ。しばらく話しているうちに、川端はふとあることに気がついた。
「おや、君は今日あまり飲んでいないじゃないか」
そうなのである。さっきから、酒が減っているのは川端ばかりで、アイラは最初のひと口だけでそれ以降グラスに手をつけてもいなかった。前にバーに行った際、彼女はハードリカーを酔った素振りもみせずに飲んでいたはずなのに。
「ええ、ちょっとね」
「口に合わなかった? バーテンダーに言って、別のものを作らせようか」
「いえ、そうじゃないの。お酒は少し、控えた方がいいのかもなって思って」
「なぜだい?」
「少し、身体が変なの」
「体調でも悪いのかい。ここんとこ、忙しかったからな。少し休養を取った方がいいんじゃないか」
「いいえ、そういうことじゃないの」
「じゃあ、どういう――」
川端は不思議そうな顔をした。アイラは伏し目がちに言った。
「赤ちゃんができたみたいなの」
「何だって? 僕たちのか」
アイラ微笑みながらひとつ頷いた。
「い、いつだ?」
「多分、前のロケの時」
あの時か――と川端は思った。ホテルの部屋で交わった時、彼はゴムをつけていなかった。外に出したつもりだったが、あまりの快感に、抜いたタイミングが一歩遅れてしまった気がしないでもない。わずかにでも精液が膣に入っていなかったのかと問われたとしたら、はっきりイエスと答える自信はなかった。
「しかし、確かに俺の子なのか? 他の人の子供という可能性は――」
アイラは、今度はゆっくりと首を横に振った。
「私、セックスの経験はあなた以外にはないのよ」
事実だった。川端はアイラにとって、22年間守り続けてきた操をあげてもいいと思えた唯一の男だったのだ。そして、そんな男との間にできた子供なのだから、ぜひとも生みたいと思っていた。しかし、川端がしばらく黙りこんだ挙句に発した次の言葉は、そんなアイラの願いとは相反するものだった。
「……下ろせないか?」
「え――?」
「このことが世間に知れたら、僕だけじゃなく、君も危ない。だってそうだろう――君は女優としてやっと脂が乗り始めた時期だ。君を失墜させてのし上がってやろうというライバルはごまんといる。こんなことで、自分の名声を貶めることはない。今なら間に合う」
川上の言葉は、アイラにとって少なからずショックだった。できることなら、ふたりの間に子供ができたという事実を、彼にも喜んでもらいたかった。しかし彼は、表向きはアイラを心配している素振りを見せてはいるが、やはり本心では自分の保身を第一に考えているのだろう。家庭をもつ男が、新鋭の女優を孕ませたとなっては、自分のキャリアの失墜につながってもおかしくはない。アイラには、川端のそのような思惑が手に取るように分かった。
しかし、アイラは川端を責める気にはなれなかった。ただ、笑顔を崩さず、彼にひと言告げた。
「――ごめんなさい」
「高島くん……」
「私、産むわ。もちろんあなたに迷惑はかけない。あなたに認知をしてもらう必要もない」
アイラは、実際にそのようにして子供を育てている親友のことを思い出した。彼女は、2年前に娘を身ごもり、学校を辞め夜の仕事に就いて生計を立て、今は生まれた子とともに山奥の町で暮らしている。
「しかし……」
それでもやはり川端は難色を示した。けれども、アイラの決意は強かった。
「もう決めたことなの。あなたに喜んでもらえなかったことは残念だけれど――でも、あなたには家庭があるし仕方がないわ。これは私の我儘。だから、私ひとりで責任を取らなきゃね」
アイラは立ち上がり、ポーチを肩にかけた。
「さよなら」
アイラはその場から歩き去ってゆく。
「おい、高島くん!」
川端が背中に声をかけたが、アイラは振り向かなかった。彼女は戸惑うことなく、バーを後にし、川端と別れた。
4
『人気女優と気鋭の映画監督の密愛』
このような報道がまことしやかに流れたのは、それから間もなくのことであった。
もちろん、人気女優とは高島アイラ、気鋭の映画監督とは川端のことである。前作でヒットを飛ばし、この夏に公開予定の新作も大ヒット間違いなしと噂されている。そんなふたりのスキャンダルを、各マスコミはこぞって追いかけた。
今日も自宅の前には大勢の記者が詰め寄っている。アイラはなかなか外に出ることもできなかった。人目を避けながら暮らさなければいけないようになってから、もう何日が経っただろう。楽天家の彼女でもさすがに、いつまで続くのかしら――と思わずにはいられなかった。
「マスコミへの対応はこっちでするから。ユーは何も喋らなくていいよ。こっちが連絡するまで自宅で待機しててね」
事務所の社長にはそう言われていた。マスコミの対応を事務所任せにできるのは、アイラにとっても気が楽ではあったが、人前に出る職業に就く彼女のことである。ひっそりと身を潜めていることはどうにも居心地が悪かった。
(このまま出ていって、すべて認めちゃおうかしら――)
そのような気持ちにもなってくる。第一、今さら自分がどんな行動をとっても、事態は覆らないのだ。なぜなら、川端がすでに、不倫の事実を認めてしまったからである。しかも、アイラが川端の子を宿しているという噂さえ、世間には出回ってしまっていた。もう自分には弁解の余地などなかった。
ふいに、家の電話が鳴った。出てみると、女優仲間の街田 春名からだった。春名とは川端の映画で2度共演した間柄である。はじめは彼女が主役でアイラが脇役だったが、今回公開予定の映画では、彼女の方が準主役級の役を演じてくれた。いずれにせよ、役柄としても近しい関係だったこともあって、同業者の中ではそれなりに親しい間柄になっている。
アイラははじめ、春名がこのような事態になった自分を励ますために電話をしてきてくれたのかと思った。しかし、春名の声のトーンでそうではないと分かった。彼女は深刻な声でこう言った。
『すぐにテレビをつけてみなさい』
「テレビ? どうして」
『川端監督が――』
「川端さんがどうかしたの?」
『いいから、早くテレビを!』
「は、はい……!」
慌ててテレビをつけると、画面にワイドショーの映像が流れていた。都内のマンションが映し出されている。左上のテロップを見て、アイラは目を疑った。
「川端さんが自殺!? ねえ、嘘でしょ?」
アイラは今流れている報道を信じたくなかった。川端が先刻、自宅のあるマンションの屋上から飛び降り自殺を図ったというのだ。
『私だって信じたくないわ。でも事実なのよ』
「そんな……」
アイラはソファの上でがっくりとなった。悲しいというより、愛する者を失ったという虚しさの方が大きかった。
『あなたのせいよ』
春名は冷たく言い放った。
『あなたが彼の人生をめちゃくちゃにしたの!』
「私が――悪いの……?」
アイラは呆然と呟いた。
5
葬儀場は大勢の関係者で溢れていた。
ご焼香の列の中にいながら、アイラは思った。こんなの川端は望んでいなかっただろう、と。川端は大勢の人間が集う賑やかな場所よりも、物静かな雰囲気の方が好みだった。こんなごみごみとした雰囲気では、彼の心も休まらないだろう。
(せめて、葬儀が終わったら、安らかに眠ってね――)
彼女はそう願うのが精一杯だった。棺桶から覗く川端の顔は、あちこちにあざや傷はあるものの、それなりに綺麗だった。彼の安らかな顔つきに、アイラはほっとした。
ご焼香を終えると、彼女は葬儀場を出た。とはいえ、帰る気は起こらず、ただ敷地内をうろうろとしていた。
「高島さん」
ふと声をかけられる。振り返ると、春名が喪服姿で立っていた。
「何をしているの?」
「何となく、帰りづらくて――」
と、アイラは言った。
「確かに、外には報道陣が待ち構えているしね」
彼女の言う通り、敷地の外には大勢のマスコミがたむろしていた。しかし、アイラが帰れないのは、単にそれだけが理由ではないことは明らかだった。
「でも、監督のご家族や親類には、あなたは喜ばれない存在のはずよ」
春名は腕を組んで言った。
「それは分かってるけど……」
アイラは一瞬口ごもったが、意を決したように言った。
「やっぱり、彼が死んだのは、私のせい――よね?」
「あなたのせいよ」
春名はきっぱりと言った。
「…………」
「あなたがさっさとあの人を家族から奪わなかったからよ。一体何をしていたの。名声も愛も一度に手に入れられるはずだったのよ。叶えたくても叶えられない夢を叶えられるチャンスをみすみす逃してしまうなんて、あなたどうかしてるわ」
春名は目を怒らせていた。アイラには彼女の心の内が読めなかった。彼女はなぜ、自分に対してここまで怒っているのだろう。
「で、あなたはこの先どう生きてゆくつもり?」
春名はさらに訊いてきた。
「もちろん、今の仕事を続けてゆくつもりよ」
「あなたって、どれだけ図太いの?」
春名は目を細め、軽蔑したような眼差しをアイラに向けた。
「人の人生狂わせて、めちゃくちゃにして、死にまで追いやって――それでのうのうと、あなたは今まで通りの人生を歩みたいだなんて、よくそんなことを言えるわね」
「ううん、私だけのためじゃない。きっと彼もそれを望んでいるはずよ。それに――」
「ふざけないで!」
アイラは言葉を続けようとしたが、春名の言葉にそれはかき消されてしまった。見れば、春名は目にいっぱい涙を溜めていた。唇を噛み、必死で堪えているようだったが、それも敵わず涙は彼女の頬をこぼれ落ちた。
彼女はたまらなくなって、弾け出すように声を発した。
「まだ分からないの!」
「……え?」
「あなたは私から何もかも奪っていったのよ。主役の座も、そして愛する人も――」
「……もしかして」
アイラはようやく合点がいった。春名の言葉の意味――そして、なぜ自分にここまで腹を立てているのかが。アイラによって人生を狂わされたのは、川端本人やその家族だけではなかった。目の前の街田 春名もそのひとりだったのだ。
彼女は自分を主役に抜擢してくれた川端を、密かに愛していた。おそらく、アイラと違い、いつか家族からも奪ってやろうと思っていたに違いない。しかし、突然出てきた新人は、春名から主役というポジションも、男さえも奪ってしまった。
「――ひょっとして」
アイラははたと思い至った。
「マスコミに私たちの情報を流したのは……?」
「そう、私よ。悪い?」
春名はあっさりと認めた。
「私、あなたが憎かった。潰れちゃえばいいと思った。だから、マスコミに情報を売ったのよ。妊娠疑惑というおまけつきでね。邪魔者が消えて、あわよくば私のところに彼が転がり込んでくれたらいいと思ってた。それなのに、まさか、彼が自殺しちゃうなんて……」
彼女は手で顔を覆って嗚咽を始めた。しばらく後、上目遣いでアイラを睨み言った。
「安心したでしょ。彼を死に追いやったのは、自分じゃなかったって」
そうよ、あの人を殺したのは、私よ――と、春名は吐き捨てるように言った。アイラは黙って、首をゆっくりと横に振った。
「違う、彼を死に至らしめたのは、やっぱり私。人の幸せを壊そうとしたから、罰が当たったの。あなたはそのきっかけを作っただけ。――でもね、私はそれでも女優をやめるわけにはいかないの。それは彼のため、そして、彼との間にできたこの子のため」
「あなたまさか本当に……」
春名は目を見開いた。マスコミに噂を流しはしたが、本当に妊娠していたとは思いもしなかったのだろう。アイラは春名に微笑みながら言った。
「これは私の罪。私が十字架を背負うわ。あなたには何の責任もない」
アイラは春名に歩み寄り、彼女に抱きつこうとした。突然、春名からの平手が飛んだ。バチン! という音が夜空に響き、彼女はその場に倒れ込んだ。春名は興奮気味に息をつきながら、アイラを見下ろして言った。
「あなたって人は、どこまで傲慢なの……!」
春名は感情的に唸って、この場を去っていった。アイラは立ち上がりもせず、空を見上げて思った。
(傲慢――確かにその通りかも知れない)
春名が自分を罵る理由が、自分にも分かる気がした。春名が自分を罵る理由が、自分にも分かる気がした。愛も、罪さえも自分のものにしようとしているのだから。
この日の天気は晴れだったが、施設内の明かりのせいで星は殆ど見えない。にも拘らず、彼女は星に想いを馳せてしまうのだ。川端に対しての想いも同じだった。もうこの世の者でなくなってしまっても、彼女は彼を手放すつもりはなかった。春名より誰より、自分が彼と心と心でつながっていると思いたかった。
そう、世間的には彼と一番近しい存在である人よりも――。
「あの、高島さん――ですよね」
ふと声がした。振り返ると、ひとりの女性がアイラの後ろに立っていた。線が細く、弱々しそうな印象を与える。
「あなたは……?」
アイラは立ち上がり、服の裾についた埃を払った。女性は言った。
「私、川端の妻です。あなたにお見せしたいものがあります」
6
「これ、あの人があなたに宛てた手紙です」
川端の妻は、和室に座りながら、テーブルの上に置かれた封筒をアイラに渡した。それを受け取ったアイラを、彼女は恨めしそうな目で見上げた。部屋の隅には、川端の娘が壁にもたれかかるようにして座り、やはりアイラのことを鋭い目で見つめていた。川端に似て堀が深く、顔立ちの整った子だった。川端の妻はさらに言った。
「手紙というよりは遺書ね。封書は2つあったの。ひとつは私たち家族に宛てたもの。そしてもうひとつが……」
彼女はここで言葉を止めたが、この先何を言おうとしていたのかはすぐに分かった。
アイラは封筒の中から便箋を取り出した。そこには、川端の直筆で、彼の死ぬ直前の想いが書かれていた。
『高島くんへ。
君がこれを読む時には、私はすでにこの世にはいないはずだ。すまない。許してくれなんて言っても、君は許してくれないだろうね。私は愚かな男だ。
君に妊娠の事実を告げられた時、喜んであげたくても喜べなかった自分が情けなかった。挙句に君に酷いことを言ってしまったことは、悔やんでも悔やみきれない。
私は君を愛していた。それだけは真実だ。しかし、私は自信をもって君を選ぶことはできなかった。なぜなら、君と同じくらい、私は私の家族が大事だからだ。どちらかを選ぶことなんて、私にはできなかった。君との関係がニュースになった時、私は目の前が真っ暗になった。これまで築いてきた地位や家族を失ってしまうことが怖かったのだ。そんな私の弱さが、私自身を死へと駆りたてることとなった。
私は愚かで、情けなくて、弱い人間だ。だから死を選ぶのだ。
もし、君が私の死を悔やんでいるのなら、君が責任を感じる必要はない。
もし、君が私を憎むのなら、いくらでも憎んでくれ。君を幸せにできない私を罵ってくれ。
だが、これだけは分かって欲しい。私は本当に君を愛していた。
ぜひ君には幸せになってもらいたい。女優としても大成して欲しい。
そして、生まれてくる子供を立派に育ててくれ』
「勝手な言い分でしょ?」
川端の妻は、手紙を読み終えたアイラにそう言った。
「別に私、その手紙を読んだわけじゃないのよ。でも分かるの。あの人、とても自分勝手で子供みたいな人だったから。私たち家族に宛てた手紙も勝手な内容だったしね」
「彼らしい内容だと思いました」
アイラも川端の性格はよく知っていた。そこが彼を愛する理由のひとつでもあった。
「困った人でしょ。結婚前はあの人のそういうところが好きだった。でも、結婚するとそうも言ってられなくなるのよね――」
川端の妻は力なく笑った。そしてアイラに問いかける。
「あなたは、どうしようもないあの人を、ずっと愛し続けることができるかしら。一緒に暮らすことになったとして、やっていけるかしら?」
「私はあの人と結婚するつもりはありませんでした。ただ一緒にいられたらいいと思ってましたから」
アイラはただ、正直な気持ちを言ったに過ぎなかった。しかし、川端の妻はその表情と声を曇らせた。
「あなたは私たちを馬鹿にしているの?」
「――?」
アイラは彼女がなぜ腹を立てたのか分からなかった。彼女は声を怒らせて続けた。
「結婚するつもりはない――そんな生半可な気持ちで、あなたはあの人と付き合っていたの? 私たちからあの人を奪おうとしてきたの?」
「奪おうだなんて、そんなつもりは……」
「でも、あなたのしたことはそういうことでしょ? 私たち家族からあの人を奪っておいて、『結婚するつもりはない』ですって? 見くびるのもいい加減にしてよ!」
アイラは自分の浅はかさを突きつけられていた。
「すいませんでした」
彼女は素直に自分の非礼を詫びた。いくら謝ったところで許してもらえるはずはないが、それでも心の底から謝罪をしたかった。気づかぬうちに、自分はこの家族を見下していたのだ。不倫という不貞を働いておきながら、生半可な優しさを振りかざし、結果かえってこの家族を不幸にしてしまった。アイラはそのことに気づき、悔やんでいた。
「私たちにとって、あなたは憎んでも憎みきれない人――でも、許します。それは、あの人があなたを愛していたからです。女性としても、役者としても。悔しいけれど、それは変えようもない事実です。
ですから、この先あなたが女優として活躍することには、私たちは何も言いません。あなたをテレビでお見かけしても我慢します。ですが、金輪際、私たちの前に直接、姿を現さないでください」
「本当にごめんなさい――」
アイラは再び頭を下げた。
「私はとんでもないことをしてしまいました。あの人にも、あなたたち家族にも――自分の罪が消えるとは思っていません。でも、せめて償わせてください。あなたたちのためにできることがあれば、ぜひさせて欲しいんです。お願いします」
「もう分かってください!」
川端の妻は再度声を荒げた。
「――もう分かってください。そっとしておいて欲しいんです。誰もがあなたみたいに強くて恵まれた人ばかりじゃないんです。弱くて、運にも見放されて、這いつくばって生きている人がいるということを、どうか知ってください。あなたが私たちにできることなんて、何もないんです。償いならば、あの人に対してだけで十分です。どうか、あの人のためにも、自分の道を歩んでください」
「分かりました――」
アイラは深々とお辞儀をして、川端の妻に背を向けた。ふすまを開け、部屋から出ようとした時、ふと彼女が声をかけた。
「そういえば――あなた、あの人の子供を身ごもっているんですってね」
「ええ」
アイラは振り返り、多くは語らなかった。川端の妻は、痛々しいほど優しげな笑みを浮かべていった。
「あの人の子供、可愛がってあげてね」
アイラは穏やかな微笑みを返しながら「もちろんです」と言った。彼女の優しさが純粋に嬉しかった。
7
川端の遺作ということも手伝って『想い出のカタチ』は大ヒットとなった。
アイラもこの作品をきっかけに、女優として大きな一歩を踏み出すことになった。周囲からは、不倫報道によって世間の評判が悪くなるのでは、という懸念の声もあったが、皮肉なことにそれがかえって彼女の評判に拍車をかけることとなった。
図らずも、「不倫とはいえ愛する人を失くしながら、健気に頑張っている」というイメージが、世間についたのだった。
むろん、それには周りのスタッフが尽力してくれたという部分も大きかった。しかし、何より彼女をかばってくれたのは、他でもない川端だった。彼は死ぬ直前に、彼女が悪者にならないように周囲にはたらきかけてくれていたのだ。死してなお影響力の強い、そんな彼の偉大さを彼女は感じずにはいられなかった。
この先、彼のことは生涯忘れることはないだろう。彼と過ごした日々――映画を撮影していた時、互いに抱き合った時、すべてが彼女の中でかけがえのない想い出となっている。
映画のラストシーンで、アイラの役の女性は、何度もシャッターを切った。それはきっと彼女の、好きだった人を忘れず、心に留めていたいという気持ちのあらわれだったのではと思う。そして今、彼女は川端に対して、同じような気持ちを抱いていた。まばたきをする度、彼女は心のシャッターを切った。いないはずの彼を目に映る風景に投影させながら――。
私の心の中で、想い出はいつまでもきらきらと輝いていて欲しい――。彼女は心の底から願っていた。
そして、季節は流れ、春。
アイラはひとりの男の子を出産した。
それは、彼との想い出が最高の形で実を結んだ瞬間だった。
愛した男の分身を抱きながら、彼女は思った。彼の遺伝子を受け継いだこの子と家族になれる。これ以上の幸せってあるだろうか――。
彼女は、その男の子に、愛した男と同じ“陽一”という名前をつけた。
川端 陽一との想い出は、高島 陽一として、今まさに彼女の目の前で生きている。
高島アイラの息子・陽一は、鳥須 真綾や鶴洲 愛実の2才年下ですから、今回の話は前作の2年後という設定になります。
別作品で、高島アイラが女優の道を歩んでいるという話は、何度か紹介していました。いつか実際に彼女が女優として活躍している時の話をぜひ書きたいと思っていました。今回の作品ではその願いが叶ったことになります。
ただ、僕個人は音楽活動をしているものの、役者という職業に関してはまったくの無知です。撮影風景などは、完全な想像ですのでご了承ください。