六、失着の重みを知る
僕は不注意が多い人間で、やらなければいけないことを忘れ後になってあわてることが少なからずあった。この性格は囲碁にも現れた。自分の石でやや危ない状況にある一団があり、もし相手がそこに打ち込んで来たら必ず対応しなければ大きな損害を被るだろうと注意していた。そこからしばらく打ち進めていくうちに僕はそのことを忘れてしまい、その場所に相手が打ってきても打ち返さずに別の場所に打ってしまった。相手がさらに打ち込んでその一団はもはや救済不能な状態に陥ってしまい、自分の失念に気付いた時には取り返しがつかなかった。
こういう時は待ったをしたくなる。これまで打ち進めてきた手がくだらない見落としですべて駄目になるのがもったいないからだ。もし自分が有利に運んできた局面であれば、一手で状況がひっくり返るのは相当落胆する。しかし初心者ならまだしも、ある程度棋力のある打ち手が待ったをすることはまず認められない。もし失着がなければ勝っていただろうなどという言い訳は通用しない。その見落としも含めてその人の実力なのである。待ったを使って劣勢に転落することを回避することを覚えてしまうと、失着の重大さに気づかないまままた同じ過ちを繰り返してしまう。失着が癖になってしまうとどれだけ普段いい打ち回しができてもその人は勝負に弱いままである。
失着の際待ったをせず状況が大きく不利になったらそれまでの気勢は一気に衰え、勝負をあきらめたくなることもある。局の終盤でもはや逆転が不可能であることが明らかな場合は投了するのもやむを得ない。それに対し序盤中盤でまだ盛り返す可能性が残っているのであれば最後まで打ちつつけるべきだ。一つはその勝負に勝つためで、簡単にあきらめてしまってはみすみす勝利の回数を減らすことになる。また一つはこのような厳しい状況で打つことを己の棋力を高める機会とするためである。対局は勝ち負けが決まればそれで終わりではなく、次の対局へとつながる何かを獲得することが重要である。失着を打ったことによる動揺を抑え、劣勢をはねのけるべく集中して打ち続け、最終的に逆転することができれば大きな収穫となる。もし次に同じような厳しい状況に立たされても、その記憶が焦りを無くし、ここからでも盛り返せると自信を持って臨むことができる。
もし失着による損失を取り返すことができないまま敗れたとしても、あきらめずに打ち続けたことから学ぶことはあり、むしろそれは非常に大きな収穫だと言っても過言ではない。たった一手の誤りが、何十手を以てしても補いきれない大きな損失となることを身をもって知ることになるからである。不注意により大きな失敗を起こした時は通常大きく落胆する。落胆は一時のものではなく、再び失敗を犯すことへの恐れを植え付ける。失着がどれほど大きな問題であるかを実感し記憶に刻みこむことで、その後の対局では失着をしないように注意を払って打つようになる。また、これまでの失着の記憶から、自分がどのような場面で失着を生みやすいのか直感でわかるようになり、似たような場面に遭遇したときに自然と危険を察知するようになるのである。そういう意味では、落胆は自らの失敗を強く意識させ、己の成長を促すと言える。
不注意をなくすためには自分が不注意に陥っていることを認識する必要がある。しかし、不注意とは意識におくべきことが意識から外れてしまうことであるため、不注意を認識するということはある種の矛盾ともいえる。そのため不注意そのものを認識することはできない。ただし、それぞれの人間には不注意を起こすことについてある程度規則性が存在し、ある特定の状況において不注意が起こる可能性が高くなる。失着の原因を分析することで自分が不注意に陥りやすい状況を分析して理解すれば、その危険な状況を認識することはできる。そしてその状況を認識することによって自分に不注意が起こる危険性を察知し、不注意が起こらないように前もって意識を高めると不注意が生じる可能性は減少する。
僕は自分の石が生きるために手入れが必要かどうかを見落とすことが多かった。自分から先に守りの手を打たなくてもいい状況であれば、手を入れるのはむしろ悪手であるため別の場所に打つべきである。そう判断して、少し危うい状況にある自分の石の一団から目を離して打ち進むうちに、この一団のことが意識から外れてしまった。本来であればこの一団に守りが必要になればすぐさま守りの手を打たなければならない。しかし注意がそれていた僕は守りが必要になったことに気付かず別の場所に打ち、次に相手が石を取りに打ち込んできて初めて自分の見落としに気付いた。たった一手の誤りで自分の石が大量に死んでしまい、敗北に直結して、僕は当然見るべきものを見落としていたことを大きく後悔した。このような経験を何度も経験した結果、自分に守りの見落としが多いという自覚が芽生えた。そしてこの不注意を改善しなければならないと意識するようになった。生きているかきわどい状態にある自分の石を見たときに、この一団に対して常に目を光らせていなければまた見落としを起こす可能性が高いと判断し、展開が進んでもその石には目を離さないよう特に注意を向けるようにした。その結果、僕が守りの見落としをする回数は減少した。
たった一手で大きな利益を得ることはできない。利益はこつこつと積み重ねていくものである。それに対して、損失は一つ間違えただけで甚大なものを生じさせる。例えば、積み木を組み上げて城を作るとき、一つの積み木で城はできあがらない。しかし出来上がった城を構成する一つの積み木を動かすことで、城のすべてを崩壊させることができる。壊すことはかくも簡単である。
一手の失着は十の好手を打ち消すほどに重大である。裏を返せば、失着を一つ無くすことは十の好手を生むことに匹敵する。失着をなくすために努力することは確実に勝利を増やす。自分の失着を分析して対策を練ることは、好手を打てるようになるための努力と同じように、あるいはそれ以上に大きな効果があり、力を注ぐべきことだ。しかしこのことは意外と気づきにくい。なぜなら、好手を打てば大きな満足感が伴うのに対して、失着が減ったかどうかは意識して数えなければ認識することすらできないからである。よって、どうしても好手を追究する欲求の方が強くなる。その欲求に流されず、失着の重要性を理解して、失着を減らす方向性を理性的に定めることが必要となる。失着をどれほど重要視し、対策を練ることに尽力するかによって打ち手の上達の度合いは大きく異なると言ってよい。