二、惰性を捨てる
問題集や実戦を通して基本的な形を覚えた僕は毎日のように対局をした。この時はインターネットで対局をすることが主だった。ネット碁では相手がいくらでも見つかるので、やる気が続く限り何度でも対局することができる。それに、自分と実力の近い相手を見つけて対局することも容易である。勝てば勢いがついてもう一局打ちたくなり、負けたら負けたで悔しさを晴らそうとまた新たな勝負を始め、疲れ果てて眠くなるまでパソコン画面に向かった。時に僕は大事な場面で見落としをし、一気に劣勢に立たされた。立て直すために粘り続けるが、結局形勢を変えることができないままに敗れた。あのミスさえなければ勝てていただろう、今度こそは、と思いまた次の対局に臨んだ。
対局を重ねていくうちに、自分の勝負弱さに気づいた。勝負を左右するような場面が訪れても、それが重要な局面であることに気づかず、漫然と打ってしまうことで失着を生んでいる。あるいは、優勢を保った状態から、相手の粘りによって、自分のわずかな隙をつかれて逆転を許すことがしばしばある。しっかりと勝ちきるためには、勝負所を確実に判断する必要があった。僕は一手一手に際して、大事なことを見誤っていないか慎重になった。どこに打つべきか悩んだり、一度考えた手について再考したりした結果、長考することが多くなった。高段者の対局ならともかく、初級者の対局において長考はあまり好まれない。初級者は何手も先のことを正確に読み切ることはできないので、長時間考えていても仕方がない。考えてもたいして結果が変わらないような場面でも僕は考えすぎてしまい、相手を不快にさせることがあった。
僕は盤面に向かい続けたものの、隙の多さは改善されなかった。たまに自分で納得のいくような試合運びをして勝利を手にすることがあり、満足感に浸ることができた。しかしそういう時は多くはなく、対戦成績は芳しくなかった。たくさん対局をこなしていけば中にはいい勝負ができる時があるだろう。負ければ気持ちを切り替えて次の対局に臨めばいい。僕の中にあったそんな考えが、敗戦を積み重ねさせていった。ネット碁では自分の通算の勝敗数を見ることができた。いつまでたっても勝率が上がらないことに僕は不満やいらだちを感じた。強い相手を選んでいるわけではなく、実際に対局していて手におえないと感じるようなことはあまり無かった。自分の力を出し切れていれば負けてはいなかったであろう対局が多かった。ではなぜ本来の力を出し切ることができないのか。
僕は一局にかける気持ちが強くなかった。負けても次があると考えることによって、数うちゃ当たるというようないい加減な気持ちを生んでいた。気持ちが弱ければ集中が弱まり、重要な局面を見逃してしまう。一つの対局において、最初から最後まで集中を保つことができていなかった。ミスを犯すなどして形勢が悪くなると、例えまだ挽回できる可能性があっても勝負をあきらめてしまうことがあった。また、僕は自分の対局を振り返って反省することがなかった。失着を過去のこととして忘れ去っていったため、同じような失敗が繰り返されていた。自分が打った好手についても、どのような状況と思考が好手を生んだのか分析しないまま次の対局に向かってしまうので、好手を再現することができなかった。この時の僕にとって、対局はただ勝ち負けを生むだけのものであって、上達するためのきっかけを積み重ねるためのものではなかった。このままではいくら対局を続けてもふがいない内容ばかりになってしまうし、上達することもできない。何も考えずに打っていても仕方がない。漫然と打つことを止めるために、僕は一日一局までしか打たないという制限を設けることにした。
一局打ち終えれば、どれだけ時間や気力が残っていてもその日はもう打つことをしない。逆に言えば、その一局にだけ集中して取り組めばよく、対局中の集中力が上がった。勝った後は勝利の余韻に浸ってその日の残りを過ごし、負けた日は悔しさを抱えたまま眠りについた。勝利の行方を分けた一手が頭の中に浮かび上がり、何度もそれを反芻した。くだらない見落としが敗戦に結び付いた時などは、それまでに自分が組み立ててきた戦局を台無しにしたその一手の重みをかみしめた。一つ一つの対局を大事にし、対局内容を記憶に刻みながら打ち続けていくうちに、危険な局面を察知できるようになり、状況を見誤ることが減っていった。それだけではなく、一日に一局しか打たないことで、連戦で疲労した状態で打つことがなくなった。これまでは疲労が集中を妨げており、また夜遅くまで対局を続けた日は睡眠時間が削られ、十分に頭を休めることができなかった。それが改善されることにより、良い状態で囲碁に臨めたことは、集中を高めることを助けた。
勝敗へのこだわりも増した。負けてしまえば翌日まで悔しさを晴らす場は訪れない。形勢が悪くなっても粘り強く打ち続け、逆転の機会を待った。初歩的な見落としによって一気に不利な状況に傾いてしまった時でも、それまでのようにその一手を後悔して気持ちを切らしてしまうことなく、次の一手に意識を切り替えた。囲碁は一回の対局で200手ほども石が打たれるため、形勢は何度も変化する。自分が劣勢であってもいずれ自分の方に形勢が傾くことを信じて打ち続ければ、訪れた機会を逃さずものにして局面を変えることができる。逆に、自分が優勢を保っていた場合でも、油断をすれば簡単に相手に調子を持って行かれてしまうため、常に気を張りつめなければならない。自然と僕の囲碁の内容は良くなっていった。
劣勢になってもあきらめずに盤面をにらみ、相手に隙が生じていないかつぶさに観察し、ついに訪れた機会をものにして逆転勝利を収めた時などは、大きな満足感に包まれた。これまでであれば成し遂げられなかった勝利に、自分の成長を感じた。囲碁は単に知識や打ち回しが優れているかどうかで勝負が決まるわけではなく、それ以外に勝敗を大きく左右する要素があることを知った。あきらめが頭をよぎれば、そこに存在している逆転の可能性を見逃してしまう。勝利を信じて集中力を高めていれば、ほんのわずかに顔を出した勝機をとらえ、ものにすることができるのだった。