一、失敗と向き合う
娯楽が、時として人生について多くを教える。盤上に置かれる白と黒の石が作る模様は、それを並べる者の人格を投影する。盤面に映し出された己の姿を目にして、人は自分を省みる。勝利を手にするために重ねた努力には様々な教訓が含まれている。僕が囲碁を通して得た教訓のいくつかをこれから振り返ろうと思う。
僕が囲碁を学ぶ以前、囲碁について知っていたのは、相手の石を自分の石で囲むとその石を取れるということだけだった。どうすれば勝ちなのかもわからなかったし、どの時点で勝負が終わるのかもわからなかった。しかし、僕の知っていたこの単純なルールが、囲碁という複雑な世界を作り上げているのだった。僕は囲碁のルールを一つ一つ学んでいき、囲碁を打てるようになった。まずは9路盤で対局をこなした。この時はまだ、碁石を触っているだけで上達できる段階だった。単純に見える盤面の中に思いもよらない打ち方が数多く存在し、僕は次々と対局していった。僕はやがて19路盤で打つようになった。多くの勝負を経験するうちに、乗り越えられない壁のようなものが僕の前に立ちはだかった。その壁こそ、僕の心に内在する弱点が作り出したものだったのである。
初心者である以上、初歩的なミスをすることがしばしばある。僕が考え抜いたつもりの一手の後に、相手が打った手によって僕は大きな損をした。考えてみればごく簡単なことを僕は見落としていたのだった。それ自体は大きな問題ではない。問題は、こんな単純なことにも気づかなかったと動揺してしまったことだ。僕は相手の一手によって、自分の愚かさを突きつけられたような気がした。僕はある種みじめな感情を覚えた。さらに、そのミスを挽回しなければならないという焦りが生じた。そしてそれらの感情を引きずったまま次の一手に臨んでいった。焦りは視野を狭くし、少ない手数で大きな利益を得ようと無理な手を打たせてしまう。その手がまた相手によってあしらわれ、もはや取り返しようのない状況に陥ってしまった。僕は投了した。
実生活において、僕は自分の非をとがめられることに対して敏感だった。それを避けるために講じた手段は大きく分けて二つあり、一つは失敗しないように前もって努力し、準備をしておくことで、もう一つは、失敗をする可能性のある状況から逃げることだった。後者はいずれごまかしがきかなくなる。それに、もし自分の欠点に気づいていなかったとしたら、予想していない時に失敗が襲いかかる。直面したのが無理難題であった場合は自分に問題があったわけではないから仕方がない。しかしできなければならないことができなかった場合は言い訳ができない。その時が訪れるたびに、僕は深く落胆するのだった。
失敗すること自体は悪いことではない。自分の能力より高いものに挑戦するものは失敗することが多いだろう。逆に、僕がそうであったように、難しい課題から逃げる者は失敗することが少なくなるかもしれない。失敗は自分の弱さと向き合う機会を与えてくれる。問題は、その弱さを克服しようとするかどうかだ。失敗を機会として弱さを克服しようと努力する者は成長する。そういう者たちにとって、失敗とは恥ずべきものではなく、逆に自分を成長させてくれる貴重な経験である。彼らは失敗を恐れず、むしろ歓迎する。一時の不快感はあるだろう。しかしそれを上回る利益をそこから得ることができる。それに対して、弱さを乗り越える意志がない者にとっては、失敗はただの屈辱でしかない。彼らは失敗を恐れる。なぜなら失敗は好ましくない結果しかもたらさないからだ。
この二種類の人間にはもう一つ大きな違いが生じる。失敗に対して動揺するかどうかである。失敗をただ恐れるだけの者は動揺が大きくなる。動揺は、先ほど述べた僕のように、焦りを生む。失敗という好ましくない事態を、できるだけ早く帳消しにしたいという意思の表れである。もしすぐさま好ましい結果を得ることができれば、それによって失敗の落胆は打ち消されるだろう。しかし当然ながらそんな簡単に利益は上がるものではない。絶えず集中しながらじっくりと状況をうかがい、好機を見計らって少しずつ積み上げていくのが通常である。短時間で利益を上げようとすれば、利益が上がるかどうか確実ではない、あるいは可能性が極めて低い状況に対しても望みを託してしまう。そしてまた新たな失敗が生まれるのである。
僕はこの悪循環にはまっていった。失着を打つたびに後悔の念が湧き上がった。しかし僕がいつもと違っていたのは、これだけ嫌な思いを繰り返してもなお次の一局を打ちたいと思うことだった。この時は失敗を成長の糧にという発想はなかったので、ただ失敗をしては失望することの繰り返しだった。焦りも払拭することができなかった。僕がそれでも囲碁をやめなかったのは、打ち続ける中でたまに訪れる勝利の喜びがあったからである。僕は目の前に立ちふさがる壁を乗り越えたかった。その先にはさらなる勝利の喜びが待っているはずだった。失敗をしないために、失敗の可能性から逃げること、すなわち囲碁を止めることは選択肢に無かった。僕が取ったのはもう一方の手段、失敗しないように準備をすることだった。
囲碁の力を高めるために、詰碁や定石の勉強が有効であることを入門書で見て知っていた。僕は本屋に行き、囲碁の参考書を探した。大きな書店の一角に囲碁の書籍を収めた棚があった。僕が初めに読んだ入門者向けの本から、それぞれの段級位者に合わせた問題集、戦術を説いた本まで様々な本が収められていた。自分の実力に合っているであろう、五級を目指すための問題集を僕は手に取った。家に帰り、問題集を開いた。そこにある問題を順に解いていった。正解を導けた問題は半分ほどだった。長い時間悩んで結局間違っていた問題もあった。なぜ自分の出した答えが間違っているのか、納得いくまで考えた。問題集を解くこと自体の楽しさに加え、これが自分の囲碁力を高めるだろうという期待感によって僕は問題集を読み進めていった。この本を読み終わると、新たな問題集を買いに行った。次第に基礎的な打ち方が頭に染みついていった。
僕にとって失敗はまだ恐ろしいもののままだった。失敗によって起こる焦りも抑えることはできていなかった。しかし、失敗をなくすために勉強しようとする意志はあった。それが徐々に僕を上達させていった。そして、焦りが生じた場面でも、強引な手をやや控えるようになった。知識を積んだことで、それが危険な手であることをある程度予見できるようになったからだ。以前のような悪循環を、少しは回避できるようになった。失敗に際して、自分の意図と結果とを照らし合わせて比較分析できるようになるのはまだ先の話であるわけだが。