翻訳文体がどうにも慣れないなと思う今日この頃
「はて、これは何を言いたのだろう?」
本を読んでいる中で何度かこう考えたことがあります。
これを始めて思ったのはデュルケームの自殺論でしょう。
自殺論の内容については触れません。
私にはどうにも理解できず、途中で読むのを辞めてしまったためです。
三度ほど挑戦をしたのですが、一度目二度目は序論、三度目で一章までいった所で心が折れてしまいました。
さて、デュルケームの文章は分かりづらいものでしょうか?
これを考えると、たぶん違うのだろうと思います。
そもそもフランス語の方で読んでいないのですから、これで文章がどうだとは言い難いです。
一番の要因は私が文体に慣れていなかったことでしょう。
元来私はやはり小説畑の人です。
大説と言いましょうか? あちらの文章はどうにも慣れません。
それに加えて翻訳文体であったことも大きな要因でしょう。
デュルケームの原典はたぶんフランス語です。
それを綺麗に日本語に落とし込めているのですから、翻訳者様は本当に素晴らしい人です。
しかしながら、たぶん日本語とフランス語が離れすぎているのでしょう。
日本語としては分かりづらいことも結構あります。
これは一重に正確に翻訳をしているからこそでしょう。
具体的な読みづらさとしては、何重にもなる仮定を長文で行うからなのかなと思います。
適当に礼を示しましょう。
「私がもし二十年後もあなたのことを覚えていれば、そして私があなたを愛することをできるとすると、あなたが私のことを愛しているのなら、きっと私はあなたを愛することでしょう」
書いていて随分と悪文だなと思います。
これほどの悪文はたぶんないはずですが、しかし何となく違和感は伝わるかなと思います。
もっと分かりやすく書くとするとこうなるでしょう。
「私と貴方が二十年後にも互いに愛し合っているならば、貴方を愛せるでしょう」
勿論これほど大きな差がある訳ではありません。
随分と誇張をしていると思います。
しかし、こういった翻訳文体も訳者が本来の文を自身の意図を介入させず、翻訳をしていることの証明です。
真摯さの証拠と言っても良いでしょう。
それに、こういった文体も一つの魅力です。
ですからこそ、慣れることができないのが惜しいなと思う今日この頃でした。




