創作落語「江戸桜心灯火・助六伝」
創作落語「江戸桜心灯火・助六伝」
台本化:霧夜シオン
所要時間:約40分
必要演者数:最低4名
(0:0:4)
※歌舞伎「助六由縁江戸桜」に登場する花川戸助六のモデルとなった人物
の墓が五代目三遊亭圓楽師匠の実家、日照山不退寺易行院、別名「助六
寺」にあるという。
圓楽師匠が過去帳を紐解き、史実に基いて創作したのがこの初自作の
人情噺で、前座時代から二十年以上もあたためていたそうである。
※当台本は落語を声劇台本として書き起こしたものです。
よって性別は全て不問とさせていただきます。
(創作落語や合作などの落語声劇台本はその限りではありません。)
※当台本は元となった落語を声劇として成立させるために大筋は元の作品
に沿っていますが、セリフの追加及び改変が随所にあります。
それでも良い方は演じてみていただければ幸いです。
●登場人物
小糸:吉原の花魁。
助七と思いあっており、年季が明けたら夫婦になるはずであったが
、助七は死に、残された彼の母に孝養をつくす。しかし、母親は
病死、さらには伊吉が現れた事で逃げられないと悟り、母親をねん
ごろに弔った後、助七の墓の前で自害して果てる。
助七:花川戸の下駄問屋・麒麟屋の下駄職人。
小糸と両想いで、彼女の年季が明けたら夫婦になろうとしていたが
、嫉妬したまむしの伊吉にはめられ、牢内で獄死してしまう。
伊吉:通称、まむしの伊吉。十手持ちの目明し。
小糸に横恋慕し、その為に邪魔な助七を陥れ、牢に入れてしまう。
助七の母:助七の老いた母。
小僧:花川戸の下駄問屋、麒麟屋の奉公人。
伊吉に助七の情報をぺらぺら喋ってしまう。
口が堅い?どの口が言う。
三下:賭場で壺振りとして一人前になる(思い通りの賽の目が出せるよう
になる)のに三年かかる為、それに満たない者を三下と言った。
橋場の清吉親分の子分。
牢名主:江戸時代における囚人の長として牢内を取り締ま
る存在。
まむしの伊吉に金を握らされ、助七を拷問し、ついには死に
至らしめてしまう。
桐生屋:助七を亡くした母親を好意で自分の店の飯炊き女に迎え入れる。
女将:小糸の務める仲見世の女将。
語り:雰囲気を大事に。
●配役例
小糸・枕:
助七・三下・小僧・桐生屋・職人1:
伊吉・牢名主・職人2:
母親・女将・語り:
枕:皆さんは何かを、誰かをひとすじに思った事はありますでしょうか。
「一人の男に尽くす幸福を描いてみたい。」
国民的演芸番組・笑点の四代目司会者にして昭和の時代、
敬称は略しますが、七代目立川談志、三代目古今亭志ん朝、
五代目春風亭柳朝、休業後は八代目橘屋圓蔵と並ぶ、
江戸落語若手四天王の一角であった、五代目三遊亭圓楽。
史実と実家の助六寺に伝わる過去帳などを紐解き、初めての創作落語
となったのがこれより語ります、江戸桜心灯火・助六伝。
昭和57年の上野鈴本演芸場における圓楽独演会で、初めて高座に
かけられた噺です。
芝浜などの人情噺を得意とした五代目三遊亭圓楽、その真骨頂にてござ
います。
伊吉:なぁ小糸、こっち向きなよ。
どうしておめえはそっぽ向いてんだい。
だるまさんじゃあるめえし。
おめえ、壁へ向かってだんまりか?やめてくれ。
俺の方を向いたらどうなんだ。
小糸:……。
伊吉:おい、小糸。
おめえは俺の事をね、大事にもてなしてると思ってるかも
しれねえがな、間違っちゃいけねえぜ。
男ってやつは女の心がはっきりわかるもんだ。
女は男の気持ちが読めねえんだ。
いいかい、俺はおめえを抱いててもな、まるで石を抱いてるようだ
。
おめえは身を任しゃいいと思ってるが、俺は嬉しくねえぞ。
なぜおめえは心をくれねえんだ、おい。
小糸:……。
伊吉:岡惚れも三年たちゃ色のうちと言うがな、俺は五年もおめえんとこ
へ通いつめてんだ。
その俺になぜおめえは心を許しちゃくれねえんだ。
小糸:……。
伊吉:なあ花魁、正直に言ってくれ。
俺は決して怒りゃしねえからよ。
馬道に住むまむしの伊吉と言やあ、
ちったあ人に知られた目明しだ。
な、言ってくんねえな。
花魁、おめえ、好きなコレがいるんじゃねえか?
小糸:…あい。
今は礼奉公のさなか、あと三月もすれば年季が明けんす。
そうすれば、わっちは晴れて好きな人と一緒になりんす。
伊吉:!…その好きな人ってえな誰だい。
教えてくんねえか?
誰だ?
小糸:…あい、もう親分さんには嘘はつけんせん。
…これをご覧になってくんなまし。
伊吉:!ッこいつぁ…二の腕に彫って…助七いのち…?
【つぶやく】
彫りものは一度入れちまえば消せねえ。
心変わりはしねえってことかい…。
そうかい、その助七って男におめえ心中だてしてたのかい。
差支えなかったら、どこの誰だか教えてくんねえか?
小糸:あい、花川戸の麒麟屋といわす下駄問屋で、下駄職をやっていんす
。
伊吉:花川戸の麒麟屋…?
【失笑】
花魁、言いたかねえが、言わなきゃ分かんねえから言うけどもな、
そんな下駄職と所帯を持ったって、しょうがねえぞ。
こんな苦界を務めあげておめえほどの器量気立てを持ってるなら
、どんな男とだって所帯を持てるんだよ。
それがよりによって下駄職なんかと所帯を持ったらな、
また苦労しなくちゃなんねえぞ。
銭の苦労ってもんの辛さは、花魁、おめえが一番良く分かってるはずだ。
どうだ、俺と一緒にならねえか?
そりゃあ大名暮らしとまではいかねえまでもよ、子分からは
姐さん、姐御とか言われて芝居にも行けるし、
面白おかしく世の中を渡っていけるぜ。
な、そんな奴ァすっぱり諦めて、俺んとこに嫁にきねえな。
小糸:それは、無理でありんすぇ。
伊吉:!……そうかい…わかったよ、わかったよ花魁。
だがな、そうと聞いたからって、ああさようでござんすかと、
すっぱり諦めるような俺じゃねえぞ。
いっぺんガブリと噛み付いたら、その毒が回って生きちゃいねえ、
そこから付いたあだ名が「まむしの伊吉」だ。
俺ァ、諦めねえからな。
とりあえず今日のところは帰るぜ。
小糸:……。
【三拍】
伊吉:【酒を何杯もあおっている】
っ…っ…ッ…ッぷぁあ!
クソっ!浴びるように酒飲んだって面白くとも何ともねえ!
助七っつったか…どうしてやろうか…。
そうだ…!
日が暮れかけてるが…まぁいい、行くか。
【二拍】
麒麟屋さんはこっちかい?
小僧:いらっしゃまし!
あの…恐れ入りますが、もう店じまいしましたので、お買い物でし
たら明日に…。
伊吉:あぁ、俺ァ買いに来たんじゃねえんだ。
おめえンとこに、助七っつぁんてぇ人はいねぇか?
小僧:えぇ、下駄職でおりますよ。
伊吉:今どこにいる?
小僧:ぁ~…知ってはいますけど…タダ、ってことは…。
伊吉:おぉ、こいつァ悪かった。
俺としたことが気づかなかった。
小僧さんよ、とっときな。
小僧:!こ、こんなに…?
お釣りないですよ…?
伊吉:釣りなんざいらねえよ。
とっといて、好きなもの買って食ってくんな。
別に悪いことじゃねえんだ。俺ァ助七っつぁんの友達でな。
どこにいるか、教えてくんな。
小僧:え、あの、ですね、うちにはいないんです。
伊吉:お?通いかい?
小僧:えぇ、あの、ほんとはすぐ裏の長屋なんだけど、そこにもいなくて、
今はおっ母さん一人残ってるだけでして。
助七さんはいまね、橋場の清吉親分のとこで勝負してんです。
伊吉:!
そりゃあ、よく行ってんのかい?
小僧:あのね、何か知らないけど助七さん、あと三月したら仲の花魁と
所帯持つんだって。
それでいろいろ箪笥だとか火鉢だとか、所帯道具がいるけど、
そんなものを女に用意させるわけにはいかない。
だからせめて俺が男の甲斐性でって言いだしたんだ。
そしたら重さんて人がね、そんなら橋場の清吉親分のとこ行って
勝負とやってでかく勝てば、箪笥長持ちはおろか家の一軒も買える
。だから行こうってんでいま、二人して橋場に行ってますよ。
伊吉:【膝をたたいて】
そうかい、ありがとよ!
よく教えてくれた。
俺が来たってことは誰にも言うんじゃねえぞ。
小僧:大丈夫ですよ。
あたいは口が堅いですから。
語り:そのころ橋場の清吉と言うこの親分は本当の侠客で、
当時の侠客は人入れ稼業、いわゆる職業斡旋所のようなものをして
いたもんです。
今のような博打打ちとはわけが違う。
博打では決してイカサマをせず、寺銭でもって成り立つんだそうで
。
また夏は日向を歩き、冬は日陰を歩く。これは自分たちがご法度を
犯してる事を承知しているから、堅気の人を少しでも夏は涼しく、
冬は暖かくさせる為にそうしていたんだとか。
三下:おっ、伊吉の親分!
あっしら、ちゃんとやっておりますんでどうか、これもんで…。
伊吉:分かってるよ、俺ァ野暮は言わねえ。
おめえんとこの清吉さんには、常日頃付届けをいただいてらぁな。
いや、ちょいと聞きてえことがあってよ。
おめえんとこに、ウブい客はいねえか?
三下:へい、今日来ておりやす。
伊吉:どこの奴だい?
三下:重さんが連れて来た人なんですが、下駄屋の職人で助七とか言って
おりやした。
伊吉:そうかい。
で、どこにいる?
三下:二階に上がって開けりゃすぐに。
ええもう、誰が見たって堅気のなりでございやすから、
すぐに分かりやす。
伊吉:そうかい、ありがとよ。
語り:トントトトンと上がっていく。
障子を開けますと、まさに堅気そのものといった男がいます。
伊吉:ちょいと聞くがね、あんた、助七さんじゃねえかい?
助七:?へい。
伊吉:【間髪入れずに殴る】
野郎ッ!
助七:うッ!?
伊吉:あっと皆さん!ままま、お静かに、お静かに!
あっしは決して場を荒らすような野暮な事はしやせんから、
どうぞ、お静かに!
野郎、てめえだけに用があるんだ。
来やがれィッ!!
助七:ご、ご勘弁を親分!
けっして悪気があってやったわけじゃねえんです!
伊吉:やかましいッ、なに言ってやがる。
てめえ、だいぶ儲かってたようじゃねえか。
助七:へぃっ…素人の馬鹿ツキとでも言いますか、
かれこれ十七、八両にはなって…。
伊吉:そうかい…ッ。
助七:ああっ、親分!
どうか、どうかそのお金はあっしの大事な…!
伊吉:これァ渡すわけにはいかねえよ。
俺が明日、呉服橋の北町奉行所へ持って行くんだ。
ご法度を犯した不浄の銭だ。
俺がとりあえず預かる。
ずんずん歩けッ!!
助七:そんな、親分お願いです!
あっしは生まれて初めてやった事ですから、どうかお許しを!
親分、どうかお許しを!!
伊吉:生まれて初めてだろうが、やったことには変わりはねえ!
ご定法を犯しといて何言ってやがるこの野郎!
!…おい、ちょっとてめえの二の腕見せろ。
【つぶやく】
小糸いのち…!!
野郎ォ…!
語り:むらむらッと伊吉の心に燃え上がる嫉妬の炎。
こいつだけは生かしておくものかと心に決め、縄を掛けた助七を
引きずっていきます。
助七:お助け下さい、お許しください親分!
どこへ連れて行こうっていうんです!?
伊吉:どこへ行く?
知れた事よ、小伝馬町だ!
【二拍】
ようし着いたぞ。
取り調べの前に入牢させる、入れッ!
牢名主!
…「こいつ」でいいようにしてくんな。
助七:う…うぅ…っ。
牢名主:へえ、わかりやした…。
…おい、新入り!ちょいと前に出ろ。
助七:ッ…へ、へぃ…なにか、ご用で…。
牢名主:ツルを出しねえ。
ツルを出せってんだ!
助七:あ、あっしは職人でございますんで、鶴なんか飼っちゃおりません
。いつか、ウグイスを飼おうかと…。
牢名主:てめぇ、とぼけてんのか?
こういうとこへ来て知らねえってのか?
命の金ヅル、金を出せと言ってるんだ!
助七:そ、それは、持ってはいたんです。
ところが…ところが、まむしとあだ名の目明しに、
奉行所へ届け出るからって、取られちまったんです…!
牢名主:幾らあったんだ?
助七:十七、八両は…。
牢名主:バカかてめえは。
金を懐に入れておく奴があるか。
博打をやろうって奴はな、いつお上の手が入るかわからねえ。
こういう所へ放り込まれたら、金がねえと生きちゃいけねえんだ
。その為の用心に、必ずふんどしの中に金を入れとくもんだ。
だからふんどしの中身を金「きん」ってんだ。
それがてめえにゃわからねえってのか!?
助七:そ、そんなことは…だって、よもや捕まるとは思ってませんから…。
牢名主:何を言いやがる。
ツルがねえんじゃしょうがねえ。
おう野郎ども、ちょいとキメてやれ。
助七:あっ、なっ、何を!?
語り:待ってましたとばかりに他の罪人が助七を裸に剥くと、
キメ板というものでビシッ、ビシッと引っぱたく。
痛いのなんの、あっという間に皮膚が裂けて血が出てきます。
助七:っっグゥゥゥ~~ッッッ!
牢名主:おう、野郎だいぶ嬉しいようだ。
少し水をかけてやれ。
語り:水と言っても真水なんかじゃありません。
牢内の脇に壺があり、中身は塩水。
そこから汲んでくるとザバーッとぶっ掛ける。
できたばかりの傷に塩っ気が容赦ない痛みを与えます。
助七:ぁっぐぅぅああァァァァッッ!!!
牢名主:ほほぉ、だいぶ喜んでらっしゃるようだ。
もうちょっとキメろぃ!
助七:ッぐぅああぁぁああぁぁああ!!!!
語り:殴っては塩水を掛けられ、殴っては塩水…。
伊吉の意を受けている牢名主は手を緩めない。
それから六日もの間、助七は裸にされては殴られ、
寝ていれば蹴られ、水は捨てられ、飯は残らず取り上げられ続けま
した。
それでも小糸に会いたい、その一心で耐えるも、
ついに体は限界を迎え、命は枯れ果てます。
牢名主:おい、起きろ!
今日もひとつキメてやる。さっさと起き……ん?
ふん、とうとうくたばったか。
おい牢番、ちょっと来てくれや!
新入りの野郎が起きねえ。
語り:助七はまだ取り調べ前という事で、その亡骸は彼の母親の元へ
返されます。
変わり果てた我が子の姿に、母親は泣き崩れ、
近所の手伝いに来ていた桐生屋も、思わず目を背けました。
桐生屋:助七…おまえ、なんてことに…!
母親:【号泣している】
助七や…いま、体を洗ってあげるからね…。
!?これ、は…!?
桐生屋:!!…なんとむごい…!
語り:見た目そのままはどこにも傷が無いように見えます。
ところが着物を脱がせてみますと、服に隠れている部分は
いたるところが痣や傷、みみず腫れだらけ。
傷の血は黒ぐろと固まってる。
桐生屋:おそらく、牢内で他の咎人にやられたんだな…。
母親:おまえ…なんという、哀れな姿に…。
どうしてこんなことに…。
うっうぅ、うぅぅぅ……。
桐生屋:おっかさん、助七のおっかさん。
どう嘆いても、助七は帰っちゃこない。
亡くなっちまったものは仕方ないんだよ。
それよりもおっかさんのこれからの身の振り方だ。
無い子に泣きを見ないの例え、水子の頃に流れちまったと覚悟を
決めてな。
これから行く先心配だろう。どうだい、うちへ来てね、飯炊きを
しちゃくれないだろうか?
そうすれば若い者ともバカを言い合えるし、張り合いが出るよ。
母親:…は、はい…お願いいたします。
桐生屋:いいんだよおっかさん。
さ…ねんごろに弔おう。
語り:母親は桐生屋の手を借りて助七の亡骸を寺へ納めました。
もちろん当時は土葬で、墓石ではなく角塔婆を立てます。
それから桐生屋で働き始めますが、何をどうしたって心は晴れない
。たった一人の息子があの世へ逝ってしまったのだから無理もあり
ません。
若い者と話をすればするほど、助七を重ねてしまい悲しくなる。
だんだんだんだん食も細り、ついには桐生屋へあまり行けないほど
弱ってしまう。
その頃、吉原では小糸の年季がいよいよ明けようとしていました。
小糸:女将さん、長き事お世話になりんした。
ありがとうございんす。
女将:小糸、あんたは立派だよ。
気立て良し、器量も良し、その心がけを神仏も分かって下すったん
だ。
十年の年季奉公、その後一年の礼奉公、並の者ならたいてい途中で
音を上げて、とても務めおおせるもんじゃない。
けどあんたは立派に勤めあげてくれた。
あたしのほうこそ、この通り礼を言わせとくれ。
小糸:と、とんでもない、おかみさん!
さんざんお世話になりっぱなしで、ありがたいことでありんす。
女将:それでね、小糸。
…ちょいとこれを着てごらん。
小糸:えっ!?
こ、こないいおべべ、わっちがもらえるんでありんすか!?
女将:あたしからの餞別だよ。
気に入るかどうかは分からないけどね。
小糸:いえ、気に入りんす!
女将:そうかい、ありがとう。
それを着て、想い人の助七さんとこへお行き。
小糸:!おかみさん、知ってたんでありんすか?
女将:そんなことも分からないで、廓の女将は務まらないよ。
それでだけどね、助七さんという男がどんないい人であれ、
あんたと所帯を持って夫婦になったら、
お前のとこへ通ってきた男の中に、俺より好きな男がいたんじゃな
いか?
とか焼きもちを焼いたり、いじめられたりするかもしれない。
そうなった時にもし辛かったら、あたしの所へ相談においで。
その時はどんなことでもしてあげるつもりだから。
あたしはあんたの為ならね、ひと肌どころか、もろ肌を脱ぐよ。
わかったかい?
小糸:あい…ありがとうございんす。
けれど、助七さんに限ってそんなことは決してしないと思いんすけ
ど。
おかみさん、お世話になりんした。
また改めて、お礼に参りんす。
その時は二人そろって参りんすによりて。
女将:小糸、里言葉はもうおよし。
あんたはもう花魁じゃない。
ただの小糸になったんだ。
…達者で暮らすんだよ。
さ、お行き。
小糸:!…はい!
おかみさん、ほんとうに、ありがとうございました!
語り:飛び立つ思いの小糸は、さながら宙を浮くような足取りで花川戸へ
やって参りました。
かつて助七から教えてもらっていた、下駄問屋の裏の長屋の二軒目
に立つと、未だ何も知らぬ小糸は弾んだ声を上げました。
小糸:ごめんくださいまし!
母親:…はい、どなた?
小糸:あの、助七さんのおっかさんでございますか?
初めてお目にかかります。
私は仲の…と言ってもおっかさんにはわからないでしょうけども、
吉原におりました、小糸という不束者でございます。
母親:!あなたが…!
ええ、聞きました、聞いておりました。
【ここからだんだんと涙声になっていく】
助七は…すけしちはね、わたしの顔を見るたびに、
「おっかさん、あと三月したら、おっかさんに会わせたい人があるんだ。
気立てのいい、器量のいい人なんだ。
おっかさんが男だったら、今すぐに連れて行って会わせたいくらい
だよ。
けどおっかさんを連れてくわけにはいかない。」
…そう、言ってました。
だけど、だけど…その助七は…もう、帰っちゃ来ません…。
小糸:え…旅か何かに出ているんですか?
母親:旅…十万億土という…、
いえ…どう言ったって、あの子は帰っちゃ来ません…。
もう生きて帰ってこないんです…!!
小糸:ぇ……し…しんだ…?
ど、どうしてですか……!?
母親:あの子は、あなたと所帯を持つのを楽しみにしていました。
ただ、公界でさんざん苦しい思いをしたあなたに、所帯やつれを
させちゃ気の毒だ。
せめて嫁を迎えるんだから、亭主らしく箪笥やら火鉢やらを
買わなきゃいけない。
重さんという友達にそれをつい漏らしたら、橋場の清吉親分の所で
場が立っているから、そこで勝負とやってでかく勝てば、
箪笥はおろか家まで買えると持ち上げられて、橋場まで出かけて
行ったんです。
それが運の尽き、運が悪いというのは仕方のないもの、
初めて行ったあの子が、他にもやっている人がいたのに
たった一人だけ目明しにしょっぴかれて、
小伝馬町の牢内で死んだんです…!
小糸:!…目明しって、誰です…?
母親:たしか…まむしの…まむしの伊吉と言ってたね…。
小糸:!!!
あぁぁ…わたしがいけなかった…わたしがいけなかった…!!
あと三月経ったら、助七さんと所帯を持てる。
その嬉しさで、ぽろっと漏らしてしまったために…!
【しばらくの間すすり泣く】
…おっかさん、お願いがあります。
わたしをここの家に置いてください。
母親:あなたは、やっと年季が明けて自由な身でしょう。
もう助七はいないんだから、こんな婆さんと一緒にいたって楽しく
はない。
好きな男の人に嫁にでも行きなさい。
小糸:いいえ、助七さんのおっかさんはわたしにとっても母親でございま
す。
わたしはこの世はおろか、あの世まで二世と交わした仲でございま
す。
どうか、わたしをこの家に置いてください!
母親:【泣きながら】
…助七が…すけしちが、惚れるわけだよ…!
よろしく、お願いしますね…。
小糸:【もらい泣き】
わたしの方こそ、よろしくお願いします…!
語り:こうして二人は一緒に暮らすことが決まり、それから連れだって
桐生屋へ挨拶に参ります。
わけを聞くと桐生屋も涙ぐんで、大いに歓迎する旨を小糸たちに
伝えたのでございます。
桐生屋:そうか、そうかい!
そりゃあもう何よりだよ!
それじゃおっかさんは家で養生して、小糸さん…だったね。
お前さんに飯炊きをお願いしますよ。
小糸:はい、飯炊きでしたら幼い時分より慣れております。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
語り:その日から桐生屋で働き始めた小糸。
かつては花魁だったこともあって、その美貌たるや実にいい女。
店の若い衆たちからは、ちょこちょこ目引き袖引きの毎日でありま
す。仕事終わったらどこか行かない、なんて言われてもそこは吉原
で馴らしてきたもの、柳に風と受け流します。
そうとなってもやはり想いは募るもので、みんなワイワイと寄って
くる。
中には「将を射んとする者はまず馬を射よ」とばかりにこんな者ま
で現れる始末。
職人1:おい小糸ちゃん、これでおっかさんに何か買ってやんな!
小糸:え、こんなにいただいていいんですか?
ありがとうございます!
職人2:小糸ちゃんよ、こいつをおっかさんに食べさせてやってくんな!
小糸:いつもすみません。
おっかさんもよろしくと言っておりました。
語り:川柳に「口説かれて 辺りを見るは 承知なり」てのがあります。
ちょいと、と声を掛けられて、「ダメ、少し場所をわきまえて!」
なんて辺りを女の子が見たら承知の証拠だってわけです。
逆に声を掛けられて「ダメぇー!!」なんて事になったら、これは
もうおしまいです。
小糸はそういった機微は心得てうまくあしらっておりますから、
あれこれお土産なんかをいただいたりします。
小糸:おっかさん、また店の職人さんからたくさんいただきました。
食べて、元気をつけて下さいね。
母親:あぁ、ほんとうに親孝行な娘が来てくれたよ…。
ありがたい、ありがたいねぇ……。
それにつけても、ここにもし助七がいれば…。
小糸:おっかさん…。
語り:病は気から、とはよく言ったものでございます。
それからふとした風邪がもとで、おっかさんはぽっくり逝って
あの世の人となってしまいました。
涙ながらに小糸は、亡骸を助七が眠る同じお寺へ葬り、
お弔いを済まします。
初七日、三十五日と過ぎ、四十九日目、お寺へ出かけようとする
小糸の前に、あの男が現れたのでございます。
伊吉:おう、小糸よ。
小糸:!!
まむしの…!
伊吉:覚えていてくれたかい。
俺ァもう忘れられたと思っていたがね。
噂に聞いたが、えれぇことになったなァ。
助七はしょっぴかれて、牢内で亡くなった。
後を追うようにおっかさんも死んじまったそうだな。
小糸:【つぶやくように】
助七さんを殺させておいて…よくも白々しく…!
伊吉:どうだ、これでおめぇ、晴れて自由の身になったろう?
もう一人だ。俺んとこへ来ねぇな。
小糸:ッ…!
伊吉:俺ァいつか言ったろ。
いっぺんこうと思い込んだら、決して他人の手には渡さねえ。
だからよ、俺ンとこへ嫁に来なよ。
そんな「助七いのち」だなんて、そんな墨は潰してしまえばいいん
だ。
湯に行く時ゃ、手ぬぐいでも腕に巻いとけばいい。
怪我でもした風を装えば、どうってこたぁねぇ。
俺はそういうのにゃこだわらねえ、だから嫁に来ねぇ。
小糸:…まだ、おっかさんの百箇日が済みません。
それが済むまで、待って下さい。
伊吉:確かにそうだ。おめえの言う通りだよ。
だがな、百箇日が過ぎりゃ一日も待たねえぞ。
否も応もねえ、おめえを嫁にするぜ。いいな!
それじゃ、今日は素直に帰るぜ。
小糸:…なんとかこの場はしのいだけど…、一体どうすれば…。
語り:それから小糸は悩みに悩み抜きました。
百箇日が過ぎたらどうしよう、どうしよう、と出口のない思案に
囚われているうちに、ついに今日が百箇日と相成ります。
小糸:…いくら考えても良い思案は浮かばない。
今日が過ぎれば、わたしはあのまむしの嫁にされてしまう。
…。
…そうだ、それしかない…。
おかみさんにいただいた、あの着物を着て…。
語り:化粧し、もらった着物を着て身支度を整えると、
小糸は寺へ向かいます。
子坊主から樒に線香、お水をいただき、助七とその母の墓へ
向かいます。
小糸:…助七さん、あなたと約束したおっかさんの面倒は、
ちゃんと最期まで見ました。
おっかさんにちゃんと会えてますか…?
あなたを殺した、あの憎いまむしの伊吉が、
わたしを無理やりにでも女房にすると言ってるんです。
…吉原の廓にいた時分は売り物買い物。
嫌なお客とも寝なきゃいけなかった…。
今は自由の身、あんな男なんかに、指一本触れさせるものですか…!
…でもね、もう生きている張り合いが無くなってしまったんです。
まむしの手から、どうすれば逃れられるのかも思いつかない。
だから…助七さんのそばに行きますね。
けど…三途の川って初めて行くところだから、
いくらあったら、どう渡ったらいいのかよく分からないの。
だから助七さん…私の声が聞こえたらどうか、
迎えに来てくださいね…。
語り:そうして小糸は、かねてから用意してきていた剃刀を、
懐から取り出します。
首筋へとあてがい、ためらいもなくスッと一気に引く。
真っ赤な血汐が噴き出し、助七の角塔婆を染め、
土に染み込んでいきます。
小糸:すけ…しち…さん……っ…。
語り:あわれ、吉原の公界から逃るるとも現世の苦界からは逃れ得ず、
小糸はまるで助七がそこにいてもたれかかるがごとく、
角塔婆に身を預けたまま、息を引き取ったのでございます。
やがてその亡骸は子坊主に発見され、寺の和尚から自身番へと
知らせが飛びます。
いつの世もそうですが、そういう事が起きると、
野次馬之介という尻尾の無い馬がわあわあ集ってくる。
そして素性がもと花魁で、それが後追い心中したと分かると、
瓦版に取り上げられ、一気に江戸じゅうに話が広まります。
「女郎の誠と卵の四角、あれば晦日に月が出る」、
花魁と言えば噓をつくのが当たり前、それが誠を貫き、
後を追って自害した、こんな情深い女は滅多にいるものではない、
江戸っ子たちは、寄るとさわるとその話で持ちきりになりました。
のちに戯作者がこの件に注目して筆をとり、
助七を助六、小糸を揚巻、まむしの伊吉を髭の意休と置き換えまし
た。さらにその後、助六は曽我五郎で源氏の重宝、「友切丸」を
探す為だったと話は発展し、市川団十郎が正月興行にて
大成功を収め、以降のお家芸、その元となったのであります。
歌舞伎芝居の助六、その豪華絢爛な舞台。
その裏にひそむ事実は、かようにむごく悲惨な物語でした。
題して「江戸桜心灯火」の一席、実績助六伝の一節でございます。
終劇
参考にした落語口演の噺家演者様等(敬称略)
三遊亭圓楽(五代目)
※用語解説
・馬道
浅草寺境内から二天門を通り抜けた左手に南馬道町、
その北隣にあったのが北馬道町である。
享保15年(1730)には二天門の右手に南馬道町ができるなどして
浅草寺の東側一帯に浅草寺門前街として発展。
明治10年(1877)この付近が整理統合され浅草馬道町ができる。
昭和9年(1934)にはさらに浅草馬道町は隣接するいくつかの町を
合併して町域を広げるとともに、町名を浅草馬道に改められた。
・橋場
助七が清吉親分の賭場でバクチをしていたところ。
隅田川に架かる白髭橋西側下流に位置する町。
その南に今戸、浅草、花川戸と続きます。
・小伝馬町の牢屋
牢屋敷は慶長年間(1596~1615)にこの地に開かれ、
二百数十年間続き、明治8年(1875)5月に廃止された。
敷地は広大で2千6百坪(約8600m2)で、その回りに堀を巡らし
その南西部に表門があった。
・樒
よく仏壇や墓に一般的に供えられる植物。
・寺銭
賭博が行われる場合に、開催場所を提供する者に対して
支払われる金銭のこと。
この言葉は、江戸時代に寺社の境内を賭博を行う場として選び、
儲けの幾らかを寺社に寄進していたことから
こう呼ばれるようになったという説が存在する。
寺社の敷地内は寺社奉行の管轄であり、違法な賭博が開催されても
町奉行による捜査・検挙が困難だった。