倭国 暗雲
平屋建ての私塾の一室に、歳の頃十二から二十四に至る十余名の生徒が机を並べ、教師の話に熱心に聞き入っている。座を占める身形の良い武家の男達は、真剣な眼差しで手習い草紙に筆で覚書をしている。
教鞭を執る五十絡みの塾頭の池田周作は、この時代に珍しく、国学に明るいだけでなく、異邦の研究者としても盛名を馳せている。卒業生の多くが立身出世し、藩主からも引き立てられているとあって、その教えを乞う者が後を絶たない。池田は彼等を篩に掛け、その確かな鑑識眼を以って、才気ある若者だけに入塾を許すのだ。この部屋の十余名の塾生は三百以上もの希望者の中からその才を見出された藩きっての逸材である。
十八畳の部屋は、例え席を倍に増やしても、十分なゆとりがある。藩としても、より多くの優秀な者を輩出して欲しいという思惑もあり、生徒の数を増やしてくれと希求するが池田は頑として譲らない。妥協を許し、徒に数だけを増やせば、それだけ不真面目な落ちこぼれが生ずるは必至、それは全体に波及し、悪影響を及ぼす。そんな生徒に対し、勉学の心構えを説くのは無益である。
これまで、池田の鑑識眼に一度たりとも狂いは無かった。卒業生の悉くが、今も藩の重責を担う役職にある。だからこそ、自らの慧眼に絶対的な自負があった。
雨宮圭一郎。
この倭国人離れした、浅黒く堀の深い顔貌に、眼光鋭い野武士然とした青年こそ、不世出の男であると見抜いた。そう、池田は見抜いたと思っていた。生まれる時代さえ違えば、歴史に名を刻む武将になり得たかもしれない。圭一郎の創出する従来の兵法の定石に捕らわれない、独創的な発想には池田も度々舌を巻いた程だ。
しかし、それ以外に関してはからきしで不真面目であるばかりか、他の生徒にまで悪影響を及ぼしている。ここ最近、圭一郎の至らぬ癖を真似する生徒が散見する。この私塾の中で圭一郎は他の塾生に悪影響を与える癌であったのだと、自らの鑑識眼の曇りを痛感し、慙愧の念に堪えない。締まりの無い惚けた顔で講義を蔑ろにするだけに留まらず、放埓で礼節を弁えぬ不遜な態度を向け、その度に池田は愁眉を寄せる。度々叱りつけるのだが、年寄の小言と言わんばかりにあしらわれ、一向に改める気配は無い。
講義の最中にある。
「今日の世界が七つの国家から成るのは、皆も知る所であろう。各国間に戦乱の兆し無く、こうして我が倭国においても泰平の世にあるのは、七ヶ国間で結ばれた、不戦条約が順守された賜物である。この条約は三百年毎に開かれる七ヶ国会議で条約の存続か廃止かの採決が行われる。過去約六百年は、全会一致で条約の存続に帰結したと記録に残されている。これ以前の記録は残念ながら残されていないのだが、まあ、存続されたと見て間違いないだろう。そうでもなければ、人類史にその痕跡が多少なりとも残されているだろうからな。そして、来たる五年後に、七ヶ国会議が開かれる。その事で気を揉んでおる者も中にはおろうが、風聞通り今回も全会一致となるだろう。何も案ずる事は無い。異邦との戦の杞憂に非ず、諸君らは引き続き勉学に勤しむように」
諸国の情勢を知悉し、藩主のみならず、幕府からの信認も厚い池田の言葉だけに、生徒達は安堵の表情を見せる。
「それはどうだろうか」
「誰だ。言いたい事があるのなら名乗り出ろ」
池田は渋面で、生徒達を見渡し、発言者が誰かを探り当てようとする。
中列、後列に当たりを付けていた池田にとって、名乗り出た人物は灯台下暗しの所にあった。
「先生。どうして今回も戦が回避されるって言い切れるんだ」
最前列の中央に座する圭一郎が、目の前の池田を真っ直ぐ見据えて反駁したのだ。講義に不真面目な圭一郎が、何故いつもこの席を好んで座るのか池田には理解出来なかった。真面目な生徒の目に触れぬ様、端にでも座ってくれれば良いと内心思うが口には出さない。
そんな圭一郎の、挑戦的な発言に池田としては、当然いい気はせず、次第に語気も強くなる。
「それぞれの国の世情を鑑みてみろ。まず邦家だが、言わずもがな、これまでと変わらぬ安寧を求め、開戦の意志は無い。次に英国と米国と露国だが、これらは既に開戦の意志無しと表明しておる。仏国に至っては内乱の真っ只中にあるから、他国と戦う余裕は無く、選択の余地は無かろう。これだけでも過半数の五ヶ国が非開戦に票を投じると分かるだろう。残る二ヶ国である独国は英国と仏国に挟まれた小国家であるから、わざわざ自発的に他国と戦う気は起こすまい。残る華国だが、先帝が崩御し、後継者争いがやっと片付いたばかりで、旧体制から新体制の移行で忙しかろう。どうだ、これだけ説明すれば、開戦を考えるのが如何に馬鹿げた事か分かるだろう」
「先生の見立ては尤も。世間の誰もがこれには、異を唱えぬだろう」
「当然だ。皇室や将軍家も、この論説を全面的に支持しているのだからな」
「そうかもしれん。しかし、それらを分かった上で、俺の当て推量に少しばかり付き合ってはくださらんか」
「いいだろう。話してみろ」
池田は自信たっぷりに鼻を鳴らした。圭一郎の弁論の不備を突き、他の生徒に威厳を示す良き機会だと見ている。
「先生は主戦論国家は無しと言ったが、果たしてそれはどうだろう。華国は最近、木材や鉄鉱石を余所から買い漁っているのだと英国の商人が不思議がっておった。華国民は新体制に変わり、領内の開発に乗り出したと説明しておるが、これを手放しに信じられん。それに、露国と一線を画していた先帝と違い、新帝は戴冠早々に露帝を訪れたと言うのだから、どうも解せぬ」
「地続きの隣国であるのだから、新帝として挨拶に出向くのは何も不思議でなかろう」
「以前、先生は此度の新帝が皇位を得るに至った、経緯を語って下さったであろう」
「ああ。皇位継承問題が起こり、新帝が弟君とその側近達を排する過程で見せた、人を人とも思わぬ残虐性に戦慄を覚えたものだ」
「そんな傲岸不遜で知られる新帝が、華国の支配者だけに甘んじるだろうか。俺の抱く新帝の人物像では、即位して日を経ずに、国力で劣る露国側から挨拶に来て然るべきと憤慨するだろう。それが、新帝の方から露帝への面会を求め露国へと渡った。この不気味な程、へりくだった態度はどうだろう。新帝に何らかの重要な企図があり、密談を交わす為の外遊であったとしたら」
「つまり、その密談の内容とは何だ」
「さあ、そこまでは、愚鈍な俺なんかには分かんねえ。当人と、一部の側近連中しか知り得ない事だろう。しかし、足りぬ頭ながら、想像力を巡らすと、英国の次に巨大な力を持つ華国の、それも外交官でなく、皇帝自らがわざわざ出向くのだから、その場で尋常ならざる取り決めが為されたのではないかと見ている」
「恐れ多くも軍事同盟とでもいうのか」
「ああ。それも、華国優位の同盟。露国にとっても、多少不利な条件であったとしても、水面下で同盟を結ぶ事により、華国の侵略を受けずに済むばかりか、その巨大な軍事力を背景に、諸国に領土を広げられたら目っけ物。一方で開戦までは、対外的にその野心を悟られぬ為、非開戦に票を投じておくが得策。華国としても無傷で露国との連合軍を率いて、諸国に打って出られるのだから大変都合が良かろう。こっちの方が、華国が木材や、鉄鉱石を買い漁っている理由として筋が通っている」
「西の大陸、邦家、米国に、大挙、侵略せしめるが為に、木造帆船や武具を揃えていると放言するか。そんな戯言にこれ以上付き合ってられん。もう十分だろう。講義を続けるぞ」
「待ってくれ。それに仏国も、どうやら怪しいのだ」
「何故だ。国が乱れている仏国こそ蚊帳の外と言って良かろう」
「昨今の革命に至る経緯からして不審な点が多い。小国で貧しいからと言って、その保守的な国民性から、彼らに革命を起こす気概がある様には見えなんだ。そもそも、二、三日で政府軍によって鎮静化されるだろうと思われた革命運動がこうも長期泥沼化している背景には、革命軍の持つ武器が政府軍の持つそれより格段に優れているのが、大きな要因であると思うんだ」
「政府軍が持たぬ程の優れた武器。するとどうだ、仏の革命軍はどこかしら、武器の供与を受けていると・・・」
池田の顔から血の気が引いた。
他の塾生は話の気着点が見えてないらしく、退屈そうにしている。
「どうやら先生も気付いたらしいな。それが独国だったらどうだろう。革命の筋書きを立てているのも独国だとしたら。そうすると政府軍が敗れた先に新たに樹立される革命政権の陰の支配者は独国となる。例え革命軍が敗れたとしても、独国軍の戦力を著しく低下させさえすれば良いんだ。そうすれば、大陸を掌中に収めるのも容易くなる。独国が東の英国へ進出するに先駆け、仏国が弱体していれば背後の憂いも幾らか和らぐ。そこでもし、英国が敗れる様な事があっては、然る後に、大陸は独国の支配下に置かれるだろう。英国を支配した後に、独国は次はどこへ触手を伸ばすだろうか。邦国に比較的友好的な英国無き後、最悪を想定した場合、邦家は独国・仏国の連合軍、華国・露国の連合軍を相手に孤軍奮闘する羽目になる。果たして勝てるだろうか。どうだ、先生。中々面白いだろう」
「ま、待て。これは面白いなんて騒ぎじゃないぞ。そうだ、非開戦国を確固たるものにせねば」
圭一郎は、甚だしく平和ボケした池田に歎息する。
「そもそも、厳格に守られるべきとされる多数決というもの自体が当てにならないし、何より、これを当てにするべきじゃない。侵略の野望さえあれば、会議の開催を待たず、勝機有り見れば、それを実行に移すに決まってる。勝てば官軍、負けれ賊軍とあらば、機先を制すのが戦の常。戦備が整うのも待たず、進行を開始するのではないか。さあ、今後世界は大いに荒れるぞ」
「そうだ。目下、巨大な華国に露国が迎合すれば、それだけで邦家の、いや、世界の脅威となる。お前の考えが正しければ、主戦論国家が数の上でも非主戦国家を上回れば必然的に、侵略の正当性が生まれる。愚かな。どうしてこうも簡単な事に、今まで誰も気付かなんだ・・・。早急に、本件を殿に具申しなければ」
池田は何かに憑りつかれた様に、生徒達を残したまま、草鞋を履くのすら忘れ、素足のまま表へ飛び出した。
平素、沈着な池田の取り乱し様が可笑しく、圭一郎はひっくり返って笑った。
そこへ、藩から派遣され、直立したまま、偶然にこの講義を講聴していた、三十絡みの藩吏、奥野がにじり寄る。
「小生、貴殿の御意見により、長らく閉じておりました目が開かれた思いであります。これから訪れる国難に立ち向かうべく、是が非でも先生のお側で学びを得たいと存じております。何卒、小生を先生のお弟子にして下さりませぬか」
奥野は居住まいを正し、謹厳実直な面持ちで平伏した。
圭一郎は苦い顔をする。横暴な藩吏に苦しめられた過去の経験から、藩吏と名の付く者達を悉く憎んでいた。頭の中では、藩吏というだけで、それらを一緒くたにしてはならないと分かっていても、積年の恨みが圭一郎から道理的判断力を奪う。
この奥野という男は、これまでに圭一郎が見知った人物の中にあって異種とも言うべき男である。叛徒の家系にあり、取り潰し寸前の武家の息子の圭一郎に対し、この奥野は、欠片の自尊心すら持たず、清廉な私心無き心で腹蔵なきを示している。圭一郎より、一回りも年長で、由緒ある家名において、当代随一の頭脳とまで言われ男がである。若年の誰もが、奥野に憧憬の念を抱いているだけに、周囲の塾生は、この光景は見るに堪えられず、平伏したままの奥野に、「お止めくださいと」と諫め起こそうとするのだが、奥野はそれらを振り払い、圭一郎の答えの如何を煩いながら待っている。
「頭をお上げ下さい。奥野さんの高名は愚昧な俺ですら、よく知っちょります。そんなお方を弟子にするなど恐れ多い事であります」
「小生など、国家存亡の危機すら感じられぬ、愚かな目くらであります」
「失礼ながら、それは早合点というもの。先程の話は飽くまでも俺の当て推量。これを持ち上げてもらっては、俺としも汗顔の至りであります」
「早合点とおっしゃいますが、これらを徹頭否定する理もまた存在しません。何より、先生の御意見の方が、従来の避戦路線の意見と比べ、現実味を帯びております。だからこそ、池田殿も矢も楯もたまらず、藩主様の御屋敷へ急がれたのでありましょう」
「しかし、弟子は困ります。・・・そうだ、ならば義兄弟の契りを結ぶというのではどうでしょう」
圭一郎の申し出を喜び、奥野は満面の笑みである。
「有難く存じます。この時より、圭一郎様を兄上とお慕い申し上げます故、もし、行き届かなき事がありますれば、どうぞご遠慮なくおっしゃて下さいませ」
「では、委細構わず言わせて頂きますぞ。まず、その堅苦しい物言いを止めて下され。どうも此方も堅くなって話しずらい」
「そうでしたか。こればかりは昔からの質で、善処致します」
「まあ、無理にとは申さぬ。そのな些事に、僅少ながらも心を煩わすのは勿体ない」
「痛み入ります。所で、邦家に生きる者として、これから我等は如何なる行動を取るのが望ましいでしょうか」
「実はそれらに思案を巡らせるのが、どうも苦手で参っておる。戦場を駆けるのは好きだが、智謀策謀を巡らす仕事となると、俺はどうにも、ものの役に立たない」
「兄上程に優れた見識があれば、如何なる場にあっても大いに活躍出来ましょう」
「これは生まれながらの性質らしく、向かっ腹が立てば相手が誰であろうと、向こう見ずに噛み付いてしまう。そうなってしまっては冷静な判断など出来ん。それに、これから肝要なのは政治家と軍略家だ。諸国に対し、如何に優位な状況を作れるかに懸ってくるだろう。分不相応。俺にはとても出来ぬ仕事だ。なればこそ、戦場の白刃煌めく中でしか精々活躍出来んだろうな」
父の死後、特例として幼くして家督を継いだ圭一郎は、藩命を受け、十二の頃から戦場へ駆り出されていた。幼年とは思えぬ勇猛さと、その活躍振りは、藩の大人の皆が知る所である。しかし、子供に手柄を上げられたとあっては一同の面目が立たないという理由から、その功を表に出せず、その一切は内々に指揮官の手柄として扱われた。その為、圭一郎は一度たりとも多大なる武勲に対する恩恵を受けた事がない。だからと言って、藩に対する不満は微塵もない。これは圭一郎が根っからの戦好きであるからに他ならない。戦場でしか、心を躍らせられず、一度戦線に立てば、水を得た魚かの様に生き生きと剣を振るうのだ。一番槍の働きをする男であり、後方にあるべき男でないと自認している。
「ならば、その役目、及ばずながら拙者に任せて下さいませんか。これは幕府だけでは手に余る危急の事態。なればこそ、倭国全土から才知に長けた者達を見い出して参ります」
「それには、まず弊藩を動かさねばならぬが、果たして池田先生は藩主様に上手く話して下さるだろうか」
池田が藩主の屋敷から戻った頃には、日はすっかり西に傾いていた。
部屋にの残っているのは、圭一郎と奥野の二人だけである。開校以来、一番の問題児である圭一郎と、藩きっての秀才と名高い奥野、何ら共通点の見当たらない、この二人の妙な組み合わせに、吉田は思わず首を捻る。
真っ先に口を開いたのは奥野であった。
「池田殿。殿の反応は如何でしたか」
「流石、殿は理解力に富んだお方だ。事の重大さに気付かれ、国の一大事と見て、これを看過出来ぬと申されました。明朝、早速上様に進言すべく藩を立つとおっしゃられた。これで上様も国難に気付き、対策を講じられるだろう」
池田は目下の為すべきことを為したと安堵した。
これから幕府がどう動き、倭国がどう変遷して行くべきかとまでの考えは持ち合わせていない。藩主に警鐘を鳴らしただけでも、十二分の働きをしたと満足している。ここから先は幕府の仕事であり、要請があれば働く、その程度の所で考えるのを止めた。仕方のない事だが、それが一介の塾頭でしかない吉田の限界であった。