海軍将校から「君を愛する気はない」と言われた負けず嫌いお嬢様は、愛の手紙を戦地に送り続けました。
「君を愛する気はない」
こんなトンチキで失礼極まりない言葉を吐いたのは、カメリアお嬢様の結婚相手、アンドリュー様でした。
海外将校である彼は、体裁のためだけにカメリアお嬢様と結婚なさったのだと。その後に付け加えられました。
私が勤めていたお嬢様の生家、ノンヴェルマン家はお取り潰し寸前の没落貴族でありました。彼らはお嬢様を嫁に出すことで、多額の結納金を手にし、没落をぎりぎりのところで免れたのです。
そんな家のゴタゴタなど知らされていなかった、というか甘い蜜月に思いを馳せて聞いてなかったお嬢様。「いやいや、そんなわけはない」と、その日の夜は着飾って初夜を待っていました。しかし宣言通りアンドリュー様が寝所に来ることはなく、お嬢様は大激怒。その日の朝に屋敷中を探し回りましたが、アンドリュー様は挙式直後には次の戦地へと旅立たれていたのです。
アンドリュー様がすでに、屋敷どころかこの国にもいないことを知ったお嬢様はきぃきぃ声をあげて憤慨しました。
彼女は元来負けず嫌いの性格でした。勝つためならどんな努力も惜しまない。欲しいものは自分の力で必ず手に入れてきたのです。
「見てなさい。ミア。私は必ずアンドリュー様に愛していると言わせてみせるわ」
この心意気が私はとても大好きで、だから私はノンヴェルマンから離れて、彼女についてきたのです。
「お嬢様……!ミアもお手伝いします」
「いいえ、ミア。私はアンドリュー様の妻となったのよ。これからはなんて呼べばいいかわかるわよね?」
「はい!奥様!!」
それから奥様は努力をし続けました。常に美しく着飾り、才女であり続け、どこに出しても恥ずかしくない妻でありました。毎日戦地の夫へと手紙を出し、社交界では横にいない彼を褒め称え、彼の株を上げたのです。それでも、彼は屋敷に帰ってくることすらなく、手紙の一つでさえ、奥様に返すことはありませんでした。
それから三年ほど経ち、奥様はある日から病に倒れました。
痩せ細った彼女はそれでも毎日、自分を着飾らせるよう命じ、私はそれに答え、髪は櫛でとかし、青い肌には頬紅を、冷めた唇に紅を引きました。
全てはアンドリュー様がいつ帰ってきて、奥様の寝所に訪れても良いように。
※
その日は、朝から空は灰色で、芯から凍えるような寒い寒い日でした。
紅を入れようと筆を持った私の手を、奥様は制したのです。
「アンドリュー様は今日も来ないのね」
「ええ、でも間も無く終戦との噂を聞きますから、きっと明日にでも帰ってきてくれますわ」
「どうかしら」
奥様は窓の外を見て初めてそんな弱音を呟きました。
「ねぇ、ミア。私は本当にあの人を愛しているのかしら」
「何を言っているのですか、そうでしょうとも」
「本当に?だって彼とはほとんんど会話したこともない。会ったことすら結婚式と、結納の挨拶くらいで……そんな相手のこと。本当に愛していると言えるのかしら」
「それは……」
言い淀んでしまう自分が心底嫌になる。
「ただ、愛さないと言われたから、負けた気がして、愛してもらおうとしただけで、本当に彼のことを愛していなかったのは私なんじゃないかしら……」
「奥様……そんなことおっしゃらないでください」
いつになく覇気がない彼女に、胸が締め付けられる。泣きそうになるのを気取られないようにてきぱきと意味もなく、シーツの皺を伸ばしたり、彼女に掛け布団を掛け直したりした。
「いえ、きっとそう。ああ、もしやり直せるのなら、私から言ってやるのに」
「なんて言うんですか?」
「私から言うのよ。貴方を愛する気はないって……そしたら私の勝ちでしょう。彼を愛さなければ、私の勝ちなんだから」
弱々しく微笑む奥様の口に、私はそっと紅を引いた。奥様はそれに少し驚いた表情を浮かべた。
「それでもきっと貴方は負けますよ」
「どうして……」
「だって貴方はきっと、愛していますもの。それは最初はいつもの負けず嫌いだったかもしれません。でも彼を想っている毎日の中で、貴方の愛は本物になったんだと思います。きっと何度繰り返しても、奥様はアンドリュー様を愛してしまうと思いますよ」
奥様の書いた、アンドリュー様宛の手紙を、誤って読んでしまったことがある。
そこに苛烈な愛の言葉はない。日々の些細な出来事を記した日記のような文面だった。しかし、いつもそこにあるのはアンドリュー様の身を案じたり、帰りを待ち望んでいるような言葉たち。
それは本当の愛であったように思う。そうでなければ、毎日なんて手紙を書けない。
「そうか……。そうね……」
「そうですよ」
「ありがとうミア……少し疲れたから寝るわ……」
「ええ、おやすみなさい」
そう言って奥様は瞳を閉じました。
そして、その目が再び開くことはありませんでした。
※
奥様が亡くなってまもなく、長く続いた、よその国での戦争が終わったという報せが届きました。
奥様の葬式にも帰ってこなかったアンドリュー様をどんな罵詈雑言でなじってやろうかと、私は彼の帰りを待っていました。しかし、帰ってきたのは、箱が一つだけでした。
三年前。あの結婚式から数日も経っていなかった海の上。アンドリュー様の乗った艦が、海の藻屑と消えたそうです。しかし我が国の軍事力の随を集めてつくった艦隊が、初戦で負けては士気が下がると、この事実は今までずっと伏せられていたのです。
なんということでしょう。奥様は、カメリアお嬢様は、届かない相手にずっと手紙を送っていたのです。
遺品だと、箱を届けてくれた若い軍人の方は泣きながら戦地でのことを話してくれました。
戦艦には欠陥があり、初めから玉砕覚悟の実験的な参戦であったこと。
自分が流行病にかかり、代わりにアンドリュー様が艦に乗ったこと。
そして、彼から遺書を預かっていたこと。
遺書にあったのは、無骨ながら想いの詰まった愛の言葉でした。
つきあいで参加した社交パーティで、アンドリュー様は、カメリアお嬢様に一目惚れしたそうです。彼女の家が没落しそうということを聞いた彼は、ノンヴェルマン家に融資を持ちかけたが、あれよあれよという間に、話が縁談にすげ変わってしまったらしく。人を殺めてきた自分が触れて良いと思わなかった彼は、形だけの結婚をして、すぐに身を引こうと思っていたそうです。
手紙の終わりにはこう書かれていました。
戦地から帰ったら、必ず、貴方の手を離すと約束します。しかし、もし私に何かがあって貴方が未亡人となった場合、気兼ねなく良い人と添い遂げてください。そしてどうか、私が海で貴方を想うことだけお許しください。
その手紙を最後まで読んで私はぼろぼろと涙して、その場に膝から崩れ落ちました。
「お嬢様。愛されていたんですよ。愛していたんじゃないですが、旦那様も」
大声をあげて泣きじゃくる私を、止める人は誰もいませんでした。
※
奥様と旦那様には、もちろん子供はおらず、遠縁の方もいませんでしたから、私たち使用人に遺産は山分けされることになりました。使用人仲間に引き留められはしましたが、私は少しの額と旦那様の遺品として送られた箱をもって、屋敷を出ました。箱の中には、読まれなかった手紙たちが詰まっていました。
そして長い旅をして、ある国に辿り着きました。ここはかつて我が国と戦争をしていた場所。戦後間も無くは、しばらく入国が禁じられていましたが、つい最近その規制もそれも緩やかになったのです。
私は拙い言葉で交渉して、港から船を一隻出してもらいました。旦那様が沈んだとされる場所まで船を出してもらったのです。
そして一枚ずつ、互いに届かなかった手紙を燃やし、その灰を海に流していきました。船主は私の行動を不思議そうに見つめていましたが、説明する義理も言葉も待ち合わせていませんし、聞かれもしませんので、そのまま続けます。
人が死んだら、天に昇っていくのか、海に沈んでいくかは分かりません。ただこれなら、どっちでも届くでしょう。
ただどうか願わくば、天だろうと海だろうと、新しい世界で我が主たちが、互いに愛し合えることを祈って。
Fin