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蝉と田中くん

作者: おむすび

 そういえば鳴き声は聞くけど見てないな、蝉。田中くんが言った。僕は今朝、玄関の前で死にかけの蝉を見たけれど、そうだね見ないねと返す。田中くんは僕も見ていない事を喜び、宿題を終わらせて蝉を捕まえに行こうと誘ってくれた。


 とはいえこの計算ドリルを解き終える頃には玄関の前の蝉が死んでいるだろうから、わざわざ公園に行かなくてもいいと思う。僕の家へ誘い直すと田中くんはおばさんが作る杏仁豆腐うまいし寄っていくと返事して、おやつにありつけると勘違いした。


 今日のおやつはヨーグルト。まぁ田中くんに違いは分からない、黙っておこう。


 頬杖えをつく。7☓3=21


 ミーン、ミーン、ミーン、窓を撃ち抜いてきそうに蝉が鳴いている。


 田中くんと僕は夏休みの教室に呼び出されるほど成績が悪い。先生は僕らのため特別な宿題を作ると、漢字の読み書きをさせたり、九九を唱えさせたり、あとご飯はきちんと食べているのかなど確認する。


 生活面の質問に対し、僕はお母さんの手作りお菓子は美味しいと伝え、田中くんはというと時々ご飯を食べさせて貰えないらしい。

 ただ、先生に田中くんご飯が食べられないなんて可哀想と言ってみても困った風に顔をくしゃっと寄せるだけで、たぶん確認するまでが先生の仕事なんだろう。それこそ先生にとって僕らは鳴き声だけする蝉、透明な蝉なのかもしれない。


 ミーン、ミーン、ミーン、蝉が見下ろす校庭では陸上部が練習をしている。


 スポーツドリンクをがぶ飲みする喉元と、ミーン、ミーン、ミーンと腹を蠢かす蝉の動きがふいに重なり、僕は唾を飲み込んだ。


9☓8=72


4☓5=20


 最近おやじに殴られるんだ。宿題を片付け僕の家へ向う途中、田中くんは言った。驚きはない。僕が知る限り田中くんのおやじは6人居て、田中くんのおばさんはサイコロを振るみたくおやじを変えるから。


 そりゃあ殴られたら痛いよねと僕が頷けば、田中くんは痛くないよって何故か見栄を張り、シャツで隠した大きなアザを覗かせた。ふーん痛くないなら大丈夫か、いや大丈夫な訳ないだろ、僕らはわざと噛み合わないやりとりを始める。


 ミーン、ミーン、ミーン。


 背後から照りつける太陽が田中くんと僕の影をピノキオの鼻みたく引き伸ばす。ほらあの坂を登りきれば僕の家が見えるよ、湯気の向こうを指を差す、ミーン、ミーン、ミーン、電柱の上から鳴き声が降ってきた。


 電線に切り分けられた青空は譜面に似ていて、ミーン、ミーン、ミーン、蝉が音を乗せると頭の中がくらくらする。ミーン、ミーン、ミーン、ミーン、ミーン、ミーン。


 お前引っ越すんだってな、田中くんは手を翳し眩しい真似をした。僕も同じポーズをとり、お母さんがおやつを作れなくなったから、お父さんの所へ引き取られる事を話す。


 それから押し黙った田中くんの顔をこっそり見てやり、6☓6=36、まるで裏切られた表情をする田中くんを2☓4=8する。


 ミーン、ミーン、ミーン。


 思った通り、玄関の前まで来ると蝉は死んでいたものの、死骸は頭部と羽根のみ残され腹部がない。辺りを探るも見当たらない。

 まぁそれでも蝉は蝉だしカラスにでも食べられたのかもしれないね、死骸を拾って同意を求めると田中くんが固まってしまう。


 急に身動きしなくなる田中くんが心配になり蝉の頭を瞳の前に横切らせ、鼻先を羽根で擽ってみる。すると田中くんは僕の手を勢いよく払い退け、玉の汗を散らしながら更に気味悪がったのだ。


 これに僕は愕然とした。そもそも蝉を捕まえたいと言い出したのは田中くんじゃないか。いやまぁ、生きている姿が見たいと察せなかったのは反省するよ。


 次は気を付けると言ったのに田中くんは後退りした。教室の問題児扱い同士、なんとなく繋がりめいたものを感じていたけれど、もしかして僕と田中くんは杏仁豆腐とヨーグルトくらい別物かもしれない。


 そして別物だと気付くと、白くてどろどろしたものが胸の中にたまり、あふれそうになる。慌てて手を当てそれを塞き止めようとした時、ミーン、ミーン、ミーン、決壊を報せる音が自分の中より響いてきた。


 ミーン、ミーン、ミーン。ミーン、ミーン、ミーン。


 僕は胸に手を当てたまま、ならば生きている蝉を捕まえに行こう、気まずそうにする田中くんに微笑む。1☓5=5、6☓9=54、改めて誘えば田中くんも気を取り直してくれたのか、笑って応じてくれる。


 ミーン、ミーン、ミーン、ミーン。


 ミーン、ミーン、ミーン、ミーン。


 僕らは来た道を戻り、蝉の声を追いかけた。


0☓2=0


 そう言えば田中くん、最近見てないの何か聞いてないかしら。採点を終えた先生に尋ねられ、僕は知らないと傾げる。満点がついたドリルを抱え、外へ視線を流す。


 ミーン、ミーン、ミーン、ミーン、秋と転校の気配が近付いても蝉はまだ鳴いていた。

 ミーン、ミーン、ミーン。ミーン、ミーン、ミーン。きっと真冬になっても僕には聞こえるんだろう、胸に手を当ててみる。



 先生もつられて景色を眺め、陽も随分和らぎ過ごしやすくていいわねと笑った。それから思い出したようお母さん早く良くなりますようにと付け加える。


 僕はありがとうございますと返して、そんな先生の透明な笑顔に今日のおやつはナタデココを食べようと決めた。


 ミーン、ミーン、ミーン。





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