(11)
「……はい、お伺いします」
微笑んでそう私は言いだすことが出来た。
ようやく、私は本日のお客様にちゃんと向き合える心境に切り替えられたのだった。
微笑む私に、ワタルさんもホッとした様だ。
「無理しちゃあ、いかんよのう愛さんや」
「心に刻んでおきますね」
グラスはもうピッカピカだったのは、多分ワタルさんにはお見通しだろう。
「……先代に、恋愛話を相談したのは何年前だったか。今回も、恋愛話じゃ」
「ワタルさんは、お幾つに?」
「はて、もう自分の年齢にも疎くなってしまって……。確か83かな」
そう言う割には、と私は思う。
お洒落に行き届いた格好や、髪もちゃんと整えられている様子から見るとまだまだ現役で通りそうだ。
「妻にも言えなかった悩みじゃあ。あの娘が何故だか最近、夢に出てきてのう……」
ワタルさんは顎髭をしごきながら言い始めたのだ。
ワタルさんは、これでも(?)バリバリの外交官だったらしい。
各国を散々行き来して、様々な仕事をこなしたそうだ。
今では怪しいが、4ヵ国語以上話せたという。
そんなワタルさんが過去に仕事で行った、上海でのお話だ。
「……その時、忙しくてどうかしてたんだろうが、スリにあってしまってな」
本当にそういう事には細心の注意を払っていたそうだ。
だが、気付いた時には新手なスリは見事にワタルさんの財布をスって逃げた後だった。
「これから仕事の会場にも向かわなければいけないのに、困った時だった」
肩をふいに叩かれたワタルさんは、まだ少女から抜け切れてない初々しい女性に小銭を渡されたそうだ。
まだ若かったワタルさんは、真っ赤になってお礼を言いそこでその女性には別れを告げたという。
名前も住所も聞き忘れたことに気付いたのは、会場に無事に着いてからだった。
「あの女性にはお礼を必ず言いたかったが、当時は術が無くてな……」
偶然にも、神様の采配かその女性に出会えたのはその晩の宴席の場面であった。
「ウエイトレスをしておってな。夢中で声をかけたよ。『お礼をさせてください』と」
彼女は真っ赤になって頷いてくれて、彼女の仕事が終わるのと自分の仕事を終えてから、たった1時間だけのデートをした。
たったそれだけの、関係で終わった短い儚い、恋だった……。
「……それから、その女性とは二度と会わなかったんですね」
大体を察して私は静かに言う。
ワタルさんも何も言わずに頷く。
思い出しているのだろう、ワタルさんの顔は、その頃に戻ったみたいに溌溂としていた。
そんなワタルさんを思って、私が作ったカクテルは……。
「〖シャンハイ〗というカクテルです」
「おお、まさにぴったりな」
「ワタルさんは、相当お酒がイケる口だと思いまして。このカクテルを」
「いただきますな」
ワタルさんはカクテルグラスを持つと一口、口に含んだ。
「おお、美味しい……」
ピンク色の鮮やかなカクテルが、カクテルグラスの中で揺れている。
「あの娘が来ていたワンピースの色も、こうだった……。今、思い出せたわ……」
それから、思い出を大切にするかのようにワタルさんはカクテルを飲んでいた。
「ワタルさん」
「はい」
ワタルさんがカクテルを呑み終えた頃を見て、私は声をかける。
ワタルさんも、少しだけお酒に酔った、綻んだ顔で私を見上げる。
『思いのままに行動してください。どうか、記憶の中だけにしないでください。それが愛なんです』
ハッとしたように息を呑むワタルさん。
そして、「そうか」と小さく呟く。
「さすが、先代が認めた現・マスターの愛さん。もう、お見通し、なんだね」
「はい……」
私は、そう、そう言うだけで精一杯だった。
「妻は楽園に居るし、わたしも追い時かな。その前に、探しに行くのも一興かな……」
人生の先輩のもうすぐの旅立ちを思って、私は深く一礼をしながら思ったのだった。
ワタルさんは、もう、大丈夫と……。
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