葵
その、女子生徒の存在を、その時初めて自分の中に認識した和輝は、その女子生徒の名前を知りたいと思った。
名前を知らなければ、自分と同じ高校だとしても、面識もない女子生徒を探し当てることは、まず不可能に思えた。
和輝の通う大川高校は、田舎の学校ではあったが、それでも、進学を目指す者が学ぶ普通科と、高校からの就職を希望する者が学ぶ商業科を合わせると、全部で12クラスあり、その一クラスに、約40人の生徒がいると見積もって、さらにその半数の20人が女子生徒だと仮定すると、20人×12クラス=240人の女子生徒が一学年にいることになる。その三倍の720人が、ざーっと高校にいる女子生徒になるなのだ。
よほどの労力をもってするか、よほどのラッキーがない限り、二度と、この美しい女子生徒に再び学校で出会うことなどできないように感じたのだ。
なんとしても、この美しい女子生徒と本日限りとならないような、何らかのきっかけが欲しい。
かといって、こんな満席の歯医者の待合室で、「君の名は?」などと、声をかける勇気も、とりあえずは、恥ずかしがり屋の和輝が持ち合わせているはずもなかった。
しかしながら、『この美しい女子生徒と本日限りとなることだけは何としても阻止したい』そう和輝が、その女子生徒の畳の上に広がった紺色のスカートのひだに目を落としている時、思いもかけず、その願いをかなえる出来事が起こった。
治療を終えた患者が、診察室のドアを開け出てきたのに続き、中から看護婦が現れ、「水本さん、水本 葵さん」と、次の患者の名前を呼んだのだ。
その看護婦の呼び出しに、先ほどの女子生徒が反応した。
周りに遠慮した小さな声で「はい」と言うと、二人で読んでいた雑誌をもう一人の女子生徒に、これまた小さな声で「純ちゃん、これ」と言って、手渡し、立ち上がった。
和輝は、その名前を聞き逃さなかった。はっきりと『水本葵』という名前を、自分の脳裏に焼き付けた。
『水本葵』……いい名前だ。その美しい女子生徒の名前を知ることのできた和輝は、その名前を頭の中で何度も何度も復唱し、彼女と親しくなれた訳でもないのに、勝手に一人で浮かれていた。