第2話 曇天でも晴れ(2)
――2005年4月――
僕を呼び止めたのは、年端もいかない男児だった。
超市の前で座り込んだ彼の頭には、バリカンによって奇麗なソフトモヒカンが造られている。
着ている黄色のTシャツの首元は型が崩れきり、描かれているプリントも掠れ、申し訳程度にキャラクターのイラストが浮き出ている。
歳は多分10歳……いや、それよりもっと下かもしれない。そんな歳に見えるのに、目つきだけは異様にすれていた。
彼の横には350mlのビールの缶が2本置かれている。そのうちの1本は飲み切っているのか横に倒れ、超市の自動ドアが開く度、そこから吹いた風によって押され、小さく音を立てて転がった。
まさか彼が飲んだのか。それとも彼の親、近所の誰かが飲んだのか……。
年相応の声で、彼はふたたび僕に声を投げつけた。
何だと日本語で聞き返すと、男児は何かをぶつぶつと言いながら、自らのズボンのポケットをごそごそまさぐりだした。そしてポケットから赤い煙草の箱を取り出すと、男児はそこから1本を自分の口にくわえた。
その様子に僕はあっけにとられた。
彼はそんな僕におかまなしに続ける。言葉自体は全く理解できないが、マッチを擦る動作からどうやら彼は煙草に火をつけたいらしい。持っていないと身振り手振りで伝えながら、子供が煙草なんて吸うもんじゃないと日本語で訴える。勿論通じる筈もない。彼は何も言わず僕から視線を外し、唾を吐いた。
超市の横にある電動遊具は、今日も誰も乗ってもいないのに不協和音を奏でながらゆっくりと前後運動を繰り返している。煙草を口に咥える男児とあいまって、非常にシュールな光景だ。
男児は僕が火を貸してくれないと分かるや、今度は超市に入る客に火を貸してくれと声をかけはじめた。
何人かに声をかけた後だ。突如、男児と僕の間に1人の男が駆け込んできた。上半身ランニングシャツの男の腕は丸太のよう太く、肩から手の先まで刺青が入っている。男は男児と同じ髪型をしていた。
男は一言大声を上げたと思うと、男児の頭に3発ほど拳骨をあびせた。その鈍い音は僕の鼓膜から背中を通り、爪先へ駆け抜け、僕は自分に当たっていないのに体を震わせた。
男児は何かを喚き散らしているが、当然何を言っているか僕は分からない。男も大声で男児に何か言っている。その応酬が何往復か続いた後、男は男児の耳を掴むと、無理やり男児を連れて超市を離れていった。取り残された僕は、暫くそこへ立ち尽くしていた。
この街は賑やかだ。行き交う人々は皆よく喋る。地方の……それも更に片隅の、荒野のど真ん中にある街とはいえ、活気に溢れている。反面、漫画でよく見る退廃的な感覚を覚えてしまう。
まず、家の前がもう既にまずい。
この一帯にアスファルトの道はない。町外れの、港へと向かう大きな幹線道路の手前からコンクリートの道がある程度。あとは乾いた色をした土の道が延々と続く。そこに等間隔に竹で編んだ大きめの籠が設けられている。これは共同のゴミ箱で、家庭ゴミは基より、通りがかりに捨てる空き缶、雑誌、食べ屑、使用後のコンドームまで、すべてがそこに投げ込まれる。
ゴミ収集車が定期的に回ってくるのではなく、ごみの回収はそれ専門の人間が漁り、必要なものだけ持っていく。だからゴミの籠が空になることはない。蓋などないので、蠅がたかり、野良犬が首を突っ込んで競うように生ごみにがっつく。蠅の数は10や20ではきかない。そこいら中にいる。ゴミが多く出た気温の高い昼は遠くからでもわかるくらい蠅が大量に湧き、黒い柱のように見えることだってある。
僕の住むツァイさん宅の1Fにある洋品店の入り口まで、蠅の大群は押し寄せる。偶にバイトの女の子が殺虫剤をそこかしこに撒き、落ちたそいつらをほうきで外へ掃き出す。
土の道を歩くだけでも、油断してはならない。街中で牛を連れて歩く人々も少なくない。勿論ペットではなく、農耕や何某かの商売で使うのだ。うかうかしていると、牛の糞に足を滑らせることなんてよくある事なのだ。
僕はほんの一瞬だけ自国に帰りたくなったが、ここで暮らさなければならないことを思い出し、これもここの文化だと自分に言い聞かせた。
僕の住処は街でも比較的賑やかな場所にあるため、数多の商店が軒を連ねる。
ツァイさんの家から工場の間には何を売っているのか分からない商店、大鍋の前で腕を組んでいる男が睨んでくる店、盗品かゴミ箱から拾ってきたのか、薄汚れたものと対照的に備品を並べている謎の店。ガラス越しに壁いっぱいに壺が敷き詰められている妖しい店が並ぶ。商店街は工場と反対方向へ伸びていて、奥に行けば行くほど、知らない世界が濃密さを増しながら広がっていくので、1人での散策を諦めた位だ。
通りを工場方面へ曲がれば、トレーラー用に道幅は広がる。両端には石で嵩上げした木の板の上に商品を並べただけの屋台がちらほらと見られる。
野菜、果物、菓子類や缶ビール……何故かブラジャーだけを並べている屋台もある。
それぞれの屋台に誰も立ち寄る気配はない。
ヤバいのか、高いのかもわからない。そこで買い物をした事がないし、何より言葉がわからないのだ。