第2話 曇天でも晴れ(1)
※この物語はフィクションです。登場する地名、店名、団体、人物名等は架空のものであり、実在するものとの関係はありません。
2005年11月
久しぶりに雨が降った。
ただでさえ日照時間も減っている事に加え、雨が降ってしまえば流石に肌が冷えた。
急ぎの業務は先週末に終わり、週はじめの今日は特に慌ただしさもなく、本社からの電話がありがたいくらい事務室は静まり返っている。
午前中に集中していたら、午後は殆どすることもなく、18時きっかりに工場を出た。
早く終わったからと言って、何をするわけでもない。ただ倉庫の上にある自室に戻り、観もしないTVをつけっぱなしにしながら寝転がるだけだ。
工場の出入口で、工員のヤンが「遊びに行こう」と誘ってくれたが、生憎そんな気分になれなかった。
だって雨降ってんだぜ。
そう言って断った。
雨が降ると憂鬱で仕方ない。あまり良い思い出がない気がするからなのか。
自宅エントランスの東西にある吹き抜け穴は、籐の衝立で塞がれていた。こんなに広いのに、転々とダウンライトが点いているだけなので、エントランスの端の方は暗がりになっていて少し怖い。
明かりのこぼれている南側の厨房からは、アイヤが夕食を作っている音が聞こえる。
食事の準備ができたら、彼女はあの強くなった雨の中を歩いて自宅へと帰る。気の毒とは思わなかった。
ただぬかるみ易い、かつ暗くなったあの悪路をこれから帰るんだなと、確認するように思っていた。
ドアをノックする音が響き、僕は反射的に身を縮めた。
ノックの主は僕の許可を得ずにドアを開き、勝手に部屋の明かりをつけた。視界が一気に広がり、あれだけまぶしかったテレビの光は、部屋の明かりに諂う様に同化した。
ドアを開けたのは小柄な女だった。アイヤではない。明るい茶色をしたセミロングの髪は、パーマがかかってふわりと揺れる。そばかすが少しだけあるが、整った顔。身に着けている服だって垢抜けていて、僕も含めここの工員や事務員と別の種族に見える。
彼女の名はチィという。
この国の大都市にあるうちの支社から、志願してこんな僻地へ来た女だ。変わっている。変わっている上に言葉がきつい。けれど仕事は僕の何倍もできる。現地の言葉に加え、日本語、英語も難なく扱える。
社内ではエリートに分類され、出世も約束されたチィだが、どういう訳か8月にここに来てから数々の実績を上げているにもかかわらず、彼女はその手柄を僕のものだと本社に報告している。
本当に変わっている。
何故部屋を暗くしているのかと聞いてきたが、僕は答えなかった。
彼女はベッドの縁に腰かける。勝手に座るなと僕は呟くように言った。
チィは何をそんなに塞ぎこんでいるのかと僕に聞いた。
別にと返しながら、僕は身をよじって彼女に背を向けた。そこへできた隙間に、チィは自分の身を投げ出し、僕と同じ向きで寝転がる。彼女の吐息が僕の首筋を温かく撫でた。
寝頃がるなら、自室に戻れと僕は突き放した後、やや冷えた背中が急に熱を帯びるのを覚えた。彼女は戻るどころか、僕の背中にその身を密着させてきた。
何かあったら話を聞くと言った筈だと、彼女はに耳打ちした。
言葉自体は固いのに、普段の彼女から発せられることのない声色は甘く、僕はくすぐったさを覚え小さく身震いした。
チィは僕の体に腕を絡みつかせながら、私だけはあなたの味方だと続けた。
僕は何も返さなかった。何もしたくなかった。
畜生……雨の日は本当に嫌だ。
畜生。
2005年6月
積荷を満載したコンテナトレーラーが工場の正門を抜けたのは、時計が午前4時を知らせようとしていた頃だった。
この日の船便に間に合わせるための予定を、しっかり組んだつもりだった。予定では昨日の午後には完成しており、検品を終わらせる筈だった。が、やはり何処かで狂ってしまった。全員が全員、気を抜いてしまったのが原因だったか、それとも僕の計算が甘かったか、はたまた人員の配置が原因だったか。又しても本社に送るレポートのページが増えそうだった。
夕べは出荷間際の金曜という事もあり、6時のベルで一斉に帰ろうとする工員たちを僕とアメで止めようとしたが、全員を一手に抑えられるはずもなく、僕らの隙間から次々に工員たちは外へと駆け出し消えていった。
夜勤組がこれから入るものの、日勤組とは配置される人数が圧倒的に少ない。それにどうしても夜勤は体力的、精神的に集中が削がれ易く、生産効率も下がってしまう。
日中の出来高をライン長から受け取り確認したが、全く間に合う気配はなかった。
何とかする様にとライン長に掛け合うが、どうにも無理だとはねられる。
しかし、今までの工程でのずれ込みがラインの管理の甘さだと、僕はあえて抗議した。勿論言われたほうはいい気分がしない。果たして彼は語気を強め僕に詰め寄った。ここで昔の僕だったらスマン悪かった、ちょっと落ち着いて話し合おうじゃないかと言うところだが、今はそうは行かない。こちらも負けずに応戦する。応戦しながらアメに目で合図した。
この言い合いの間にアメからツァイさんに連絡させるようにしているのだ。
あいつが工場で暴れている。仕事に間に合わないと、あいつが首を掻っ切って死ぬといっていると。
あいつとは僕のことだ。
ここに来た当初、僕は工場のやり方に納得しかねてノイローゼに片足のつま先を突っ込みかけた時があり、遅々として進まない生産現場で喚き散らした後、お前らが間に合わない場合俺の首は飛ぶ、だったら間に合わない今死んでも変わらないから、誰か刃物を持ってこいと叫んだ。それを偶然目撃していた事務員の1人が慌ててツァイさんに電話をし、それを知ったツァイさんは、死なれたら僕の所属する会社に面目が立たないと寝ている工員をたたき起こし、生産スピードを上げて納品を間に合わせた。
そんな事が過去にあって以来、僕はこの手法を改良し使っていた。
今となってはツァイさんも僕が簡単に死ぬような人間ではないと分かっている。しかし、納品が遅れて不利益を被るのはツァイさんも困るので、何らかの手配をする。
それはもうプロレスだった。
アメが連絡を終える頃、ライン長も呆れて「なんとかなるさ」と言い残し夕飯へと出てしまう。しかしその後、ツァイさんの対応で2時間後には増員された人員を引き連れ、ぞろぞろと戻ってくるのだった。
そんな中、僕もアメも検品をしながらライン監視をせずにはいられないので、彼らについて作業に加わる。それがコンテナに指定されたカートン数が全て収まるまで続いたのだ。
4時前ではまだ陽が上っていないので、闇が辺りを包んでいる。トレーラーから発するライトだけが唯一の灯りで、その光はトレーラーが今どの辺りを通っているかを僕に教えた。車両の末尾が赤い河にかかる細い橋を渡りきるまで確認した後、僕は工場内に戻り、ライン長をはじめ他の工員をねぎらった。彼らは疲労と予期せぬ労働で参っており、早く寝かせろという顔を僕に返した。永久に続くような錯覚を受ける単純作業。加えて、食事時以外の禁止された休憩・私語。
見回りや検品のために歩き回っていた僕より、ラインという名のテーブル前に座りただ黙々と作業に集中する彼らの方が何倍も疲労を感じていただろう。
全員が工場を出た頃、闇はその手を緩め、空の端がうっすらと白んできた。傍で虚ろな目をしながら舟を漕いでいたアメを部屋に返した後、僕は大きく背伸びをし、輸出入書類の確認と本社へ報告のメールをする為に事務室へ戻った。
久々に納品が複数同時進行するということに加え、どれも総生産数の多い案件だった。流石に機械の前に立たない僕も疲れていた。ぼんやりとした頭を振って起こしながら、僕は事務所に到着するとメールを送り、書類に不備がないことを確認し終える。最早自室へ戻る気力などなく、ソファへ体を横たえた。
堅く冷たい合皮素材が肌に触れる。今はその感触がありがたい。
その感触に身を任せ、僕は視界を暗転させた。
13日前
僕を呼ぶ声で目を開けると、ナナがこちらの顔を覗き込んでいた。
いつの間にか眠っていたらしい。目をこすって僕は起き上がった。
ここ数日、明け方までの作業でろくに寝ていなかった僕の頭は未だ夢の中に片足をつっこみ、まどろんだままだった。ナナの後ろにはアメが立っていた。
ナナは僕に何か言っているが、それが何なのか分からなかった。僕はアメに通訳しろと言った。アメが訳すには、週末で休みだからどこかへ遊びに行こうと言っているらしい。
週末といっても土曜だ。この工場、というよりこの周辺の地域は土曜日でも皆休むことなく働いている。勿論、週明けに向けて船便も航空便も動いているのだから、こちらもそれに合わせて動かなければいけない。それに来週からもっと忙しくなる。
僕はナナにそんな暇はないと伝えようとしたが、アメがそれを制止した。
どうやらここ数日の夜間増員に加え、連日徹夜が続いた為、工員たちに疲労が溜まっているらしい。ツァイさんの一声でうちの製品ではない一部のラインを除き、全敷地内休暇日としたそうだ。というわけで、僕らが普段使っている製造ラインをはじめ、事務員、売店は一斉に稼動しなくなったという。僕が眠っている間に決まったことらしく、寝ているところを起こすのは悪いとツァイさんがアメに伝えたそうだ。
たまの休日とはいえ、僕はいつも寝転がってテレビを見るか、工場敷地内やツァイさん宅の周辺を歩くだけだった。同じ暇つぶしなら別のことをしてみたいと思っていたところだった。窓の外からは陽射しが差し込んでいる。それを確認した僕は、彼女の意見に賛成した。
先導するナナの後ろを僕らは歩いた。行き場を失った湿気が歩く僕らにまとわりつき、汗とも湿気ともつかない水分がシャツと体を密着させる。
それはたまらなく不快だった。今この時期でこの暑さと湿気があるなら、夏にはどうなっているのだろう。考えただけでもぞっとする。
民家を通り、壊れかけの納屋が並ぶ路地をすり抜けると、やがて僕らは大きな通りにぶつかった。僕らの住んでいる家の前にある道と同じ大きさの道は、やはり土がむき出しになっていて綺麗に舗装はされていない。凹凸のあるその道を、錆ついた軽トラックや自転車、牛を引いた男が各々の足元に土煙をあげ通り過ぎる。道が大きいだけあって、往来は非常に多い。もしかすると、工場に直通する通りよりも密度は高いのではないだろうか。
道沿いには商店と呼べるものがなく、灰色の石を積み上げた民家が並んでいた。
この道は荷物を隣町に運ぶための道だと、アメがナナの言葉を通訳した。
僕は隣町にいくのかとナナに聞いた。そんな筈ないと彼女は笑って歩き出した。
僕らは引き続き彼女に従った。
道端で会う人たちにナナは声をかけられる。早口でその中身こそ聞き取れないが、知り合いは多いという事だけはわかった。
大通りから1本外れると、今度は長い坂があらわれた。その坂は登るにつれ道幅を狭めていき、最後には石造りの階段へと姿を変えていった。湿気と暑さ、それに最近の運動不足がたたった僕は、大量の汗をかき、息を切らした。それを尻目に彼女は涼しげに歩く。
やっとの思いで頂上に着くと風が全身を包み込み、疲れも少し和らいだ。
未だ空気は湿気を帯びているものの、その風は坂の下にいる時より俄然涼しかった。
周囲に遮蔽物がないため、ここからは街が見渡せる。先ほど歩いてきた道も望むことができた。
ナナが立つ方向には、朱の柱と壁で囲まれた建物があった。
これは寺院だと彼女は言い、僕らを手招く。どうも中に入ろうということらしい。
寺院内は不思議と涼しかった。気温がここだけ低いのだろうか。それとも、この照明もなく、薄暗い空間がそう思わせているのか。
入り口に立ち止まっているわけにはいかないと思い、僕は奥へと入っていった。
とはいえ、建物自体はそれ程大きなものではない。ほんの数歩踏み入れただけで、僕は奉られている本尊を見ることができた。
2メートル強の仏像が中央に。それより一回り小さな仏像がその両脇に立っている。その周囲は鮮やかな装飾で囲まれていた。何度も塗りなおしたのだろうか、その色は古いものを縁取り、中へ達するにつれて鮮やかさを増している。
寺院の床には、少し厚めのクッションの様なものが、いくつも等間隔で置いてある。大きさは肩幅より小さく、手前になるに従い低くなっており軽い傾斜がついていた。
表面には金糸の刺繍が入ったカバーがかぶせられている。僕はそっとそれに触れてみた。
その上部には綿が入っているらしく、僕の指に少し弾みを残した。
それはお祈りをするときに使う椅子なのだと、ナナが僕の動作に付け加えた。
椅子……これが? しかし、これは座りにくくないのか。こんなに斜めなのに。
僕はアメとナナを見る。
彼女は僕らに何をか言った後、仏像に向かい自分の両膝をその椅子に乗せた。
なるほど、跪くための椅子か。
僕は納得すると、彼女の横で、同じように膝を椅子に乗せ、手を合わせた。
椅子自体が斜めになっているためか、膝から上で立つことが窮屈には感じなかった。
僕の3人以外は誰もおらず、外気を寄せ付けない薄暗く不思議なこの空間に、音はない。暫く手を合わせ静寂を楽しんだ後、僕はナナに手を引かれ、寺院を後にした。
外は相変わらず、湿気を帯びていた。