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那年夏天  作者: 侍_崗
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第1話 ここで暮らすひと(4)

※この物語はフィクションです。登場する地名、店名、団体、人物名等は架空のものであり、実在するものとの関係はありません。

2005年 8月






――1時50分……50分?!


 僕は慌てて目を覚ました。

 どうやら食事の後、自室で書類に目を通している内に眠ってしまったらしい。

 握っていた書類はベッドの下に散乱しており、着ていたシャツは汗を吸って湿気を帯びていた。

 腕の時計は50分ではなく、少し前の1時40分を指そうとしていた。

 何とも生々しい夢を見てしまったのだろう。

 そして昼寝で1時間も費やしてしまうとは、いよいよこんな所まで現地人になってしまったのか。

 反省した僕は、ベッドからおりて書類を拾いあげた。


 エントランスに戻るとアメが椅子に座り、携帯電話をいじっていた。

 彼の部屋に据えられたエアコンの調子が悪く、部屋の中が暑かったらしい。

 だからエントランスで吹き抜けの風を浴びていたと言った。

 僕は時間がないから先に事務室に向かうと告げると、アメもお供しますと付いてきた。彼の青いボーダーのシャツの裾には先ほどの昼食で付着したであろう醤油のシミが点々と色を残していた。

 

 僕の事務室へ戻るついでに服務室へ寄ると、事務長は既に戻ってきていた。相変わらず眼鏡の奥に険しい光をたたえ、受話器に向かい大声を張り上げている。恐らく別の工場との連絡なのだろう。大変早口であるため、聞き取れなかった。いや、この場合、聞きたくなかったという方が正しいか。

 僕が服務室の入口に立っているのを見つけた彼女は「かけ直す」と電話の相手に伝えて受話器を置くと、手元にあったA4用紙を無言で僕に突き付けた。

 その目は今しがた電話をきる前と表情は変わらず、愛想のないものだった。

 僕はそれを受け取ると上から下まで流し見た。

 午前中の金額より随分と下がっている。しかし、一番下に「但し、納期や品質が落ちる場合がある。その時は無理を言ったお前のせいであり、私は知らぬ」と現地の言葉で太く書き殴られていた。僕は怖い怖いとおどけつつ、愛想のない彼女に礼を言って事務室へ戻った。

 ギリギリ間に合った見積をメールした後は、事務室内に運ばれた何箱ものダンボールケースが僕を待ち受けている。

 中身は女児用のプラスチック製アクセサリ。

 これを今から1つ1つ製造上の不良がないかを確認していく。

 所謂「検品作業」だ。

 予め自分で確認し「問題なし」とする幾つかを白いボール紙に見本として貼りつけ、工員に運ばせた大きなテーブルの見易い位置にそれ置いた。アメはテーブルの上に1箱分の中身をぶちまける。ゾゾゾと雪崩れる音を鳴らしながら、アクセサリはテーブルの上で山になった。

 良品を入れる皿を用意し、僕とアメは作業を開始した。

 検品作業は地味だ。それでいて神経を使う。


 プラスチックに多少でもヒビや切り残しがあればアウト。


 色のくすみが酷ければアウト。


 成型が間違っていればアウト。


 ギミックが機能しない時点でアウト。


 限りなく見本と一致するか、それ以上のもの以外は全てアウト。

 これを今日中に積まれた箱全て確認しなければならない。全て見終わった後、はじかれなかった良品の個数と対比し、今日現在の全生産数から不良率を割り出すところまでが1つの作業だ。

 不良品が多い場合、何らかの対策を考えなければならなくなる。生産ラインの人員増減や交代。金型の修正。それに伴った予算再編も必要だ。

 勿論、そればかりやっている訳にもいかない。

 商品の見積依頼と進捗確認は、本社からおびただしい量でやって来る。支払いの伝票処理もある。生産現場に実際に赴いて現場の状態とそこでの品質を確認する必要もあり、それに合わせた工程表の修正もある。

 日本へ輸送する為の書類の依頼と、日本の交易会社との電話打ち合わせもある。

 とてもじゃないが終わる筈がない。

 しかし、電話も鳴らない静かな今この時。兎に角やるしかない。

 そう思いながら作業を進めるも、なかなか減らない検品待ちのピンクの山を見て、僕の集中力はどんどん削がれて行く。それでも頭を振り、要らぬ気を払いながら振り分けていく。

 そんな事を続けていると、いつしか僕の身体は一定の動作をするだけの機械となり、周りの音は徐々に消える。同時に、目と両指で感じて不良品をはじく速度は上がっていった。処理の早さに比例して僕の頭の中は空っぽになってしまい、記憶のスクリーンは現状と全く関係のない映像を映し出し、僕は手を止めずにそれを眺めていた。

 その映像は、少し前のものだった。




 ――3ヶ月前――




 時間は夜9時を過ぎていた。僕が仕事を終え自室に戻ると、ナナはそれを見計らった様に部屋に顔を覗かせた。胸に僕のあげた大学ノートと、近所で買ったという日本語の本を大事そうに抱えている。

 初めて会った時、ナナは僕に日本語を教えて欲しいから又来ると囁いたらしい。

 そこから、彼女は僕の部屋に殆ど毎日来ていた。

 僕は彼女の話す言葉がまったく分からず、彼女も僕の言葉は分からなかった。彼女が買ってきたという日本語の本もまったくの出鱈目だった。だから僕が教えるにはまずその本の内容を解読し、僕自身が理解した上で彼女に伝えなければならないものだった。

 僕はその非常に回りくどく、すこぶる面倒なテキストを諦め、僕がもって来た文庫小説を読み聞かせたりする方法に変えた。しかしそれでもお互いの意思疎通が可能になったわけではなく、半ば混乱状態のまま夜は過ぎていった。

 ある時、彼女が手元にあったメモにペンで文字を綴っていった。

 それは1つの単語からなり、単語は言葉になった。

 僕はそれを見て気がつくと、傍らにあった言語辞書を引いて彼女の書き言葉を訳した。

 彼女が僕の部屋を最初に訪れて20日目。やっと僕たちは筆談というコミュニケーションをとる方法を確立させたのだった。

 以降は僕が大抵の現地語を話せるまで、2人の会話は筆談で行われた。

 時間はかかる手段だが、意思の疎通をはかれるというのが気持ちを軽くさせるのが分かった以上、不便さや苦痛は感じなかった。

 彼女は僕が訳している間にも、自分の書きたいことをメモ用紙にしたためていった。

 

 言いたい事。


 今日あった事。


 自分の事。


 僕も辞典を引きながら、拙い現地語で書く。

 時折彼女が首をかしげ、どういう意味かとメモに書いて見せる。僕はそれを受けて辞書に書かれた発音を自分なりに声に出す。こうすると大体こちらの言いたい事が分かるようで、彼女は僕の書いた文字の上に新しい単語を上書きした。

 その合間に僕は理解した単語を日本語で書き、彼女に見せる。彼女はその言葉に相槌を打つが、本当に理解しているのかまでは分からなかった。

 そして予想していないことが起きた。彼女が日本語を多少でも話せる前に、僕の方が書き言葉を先に覚えてしまったのだ。いいことだと思うかもしれないが、僕の思惑とは大きく離れてしまったのだ。

 僕が言語を習得していく中で、それを便利と覚えてしまった彼女は、殆どテキストとして渡した文庫本を持ち込まなくなり、黙々と筆談が続けられる事となった。


 ――日本語を覚えたかったんじゃないのかこの子は。


 そう思った僕は、筆談の最中にわざと現地語と日本語のニュアンスを混ぜて書くようにした。

 が、その努力は儚くも彼女の「ああ、それ書き方違うよ」というこちらの意を汲まない言葉で一蹴されてしまうのだった。

 僕は言い返すわけでもなく、閉口していた。

 ある時僕は彼女に「言いにくいんだけど、日本語勉強するというのを言ったの、覚えてる? 」とメモに書いて渡した。彼女は首をかしげてその下に「覚えてるよ?」と書き僕によこした後、オハヨウ、コニチワ、ドウデスカと簡単な言葉をいくつか発した。彼女は続けて「今はまだ少しだけど大丈夫。時間はあるし、なんとかなるよ! 諦めちゃだめ」とメモに書いた。


 ああ、僕はこの子になめられてるんだな。


 そう思った僕はメモに「やる気がないなら今日は帰りなさい」と書き、ナナに渡した。彼女は現地語で僕にまくし立てたが、苛立っていた僕は聞く耳を持たなかった。暫く騒いでいた彼女だが、僕が聞く耳を持たないと理解したのか、ノートを抱えて部屋を出て行った。

 もうこれでナナはここに来る事はない。

 そう思うと少し寂しい気もしたが、こちらも余裕があるわけじゃない。

 真面目にやらないなら、他所でやってもらって結構だと憤りに任せてベッドに寝転がった。


 ところが翌日の夜。何事もなかったかのように彼女はやって来た。

 鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた僕を見て、彼女は首をかしげ、何やら言葉を発していた。

 この時、何を彼女が言っていたかは分からない。

 しかしその後僕の隣に座った彼女が「私頑張る お前も頑張る」と現地語でメモ書きしてきた。昨晩入口で彼女が言った言葉も同じ事だろうと、僕は勝手に解釈した。

 そこから改めて、僕とナナの言葉の勉強が始まった。

 何しろ2人とも互いの共通言語を持たないので、それはかなり地味で地道な作業だった。恐らく先人たちが辞書を持つ前は、こんな試行錯誤をしていたのだろうと思う。本当にゴールの見えない、不安だらけのマラソンだった。

 仕事が終わればノートを広げ、2人で各々の言葉を覚える。そんな勉強会はふたたび僕とナナの日課になっていた。こんな事で覚えられるのかと不安げに言った僕に、彼女は「なんとかなるよ、大丈夫」といつも言っていた。

 夜の蒸し暑さは僕の体から更に汗を抽出しようとしていた。






 ――ふたたび、2005年8月――






 僕を呼ぶ声にふと顔を上げた。

 声の主はアメで、目の前にはいつの間にか、いつも窓の向こうでこちらを見て笑っている女子事務員たちが数名集まっていた。

 何か用かと僕が尋ねると、この人たちはツァイさんに言われて手伝いに来たとアメが代わりに答えた。僕が脇目も振らず作業をしている間に、アメが連絡を取っていたらしい。これを余計な事と思うか、よくやったと褒めるかは後々考えよう。そう思った僕は彼女たちをテーブルに着かせ、見本をもって説明し作業を始めるよう指示した。

 彼女たちには何度か検品作業を手伝ってもらったことがあったが、それでも心配が残った僕は自分の手を止め、作業を見守った。

 大きなガラスの窓を隔てた向こうで、普段は談笑しながら仕事をしている彼女たちだが、この作業をする際は目つきが変わる。ただ目の前のピンクの山を減らすために黙々と検査をこなしていく。そのスピードは非常に遅いが確実だった。

 何より、目が良かった。

 唯一の部下であるアメはこういう地味な作業が苦手であったので、非常に助かる。

 というより彼女たちにこの工場の検品係をやらせればいいのに。そう思ってもみたが、彼女たちはそれを望まない――この場所だけなのか、工場の人間より事務の人間のほうが立場的に上の様子だった――だろうし、何よりツァイさんが手元に置いておきたい人材を、そんな簡単に手放す筈がなかった。

 途中、アメが彼女たちに何か言っていたようだが、内容は耳に入ってこなかった。

 ただ彼女たちの苦笑する顔を見る限りだと、あまりいい印象を与える話をしているのでなかったのは確かだった。

 途中僕が別件で作業の手を止めて抜けることもあったが、数名を加えた作業はそのスピードが格段に上がり、アメの左後ろに積んであった段ボール箱は全て開封され、今テーブルに出ている山がその日最後の箱の中身となった。

 そしてもう少しというところで、それは起きた。

 館内に響く、けたたましいベルの音。

 僕は反射的に壁掛けの時計を見る。


 ――しまった……6時か!!


 そう、正午に鳴るベルは「昼食・昼休憩」であり、そしてこの時間に鳴り響くのは「夕食・日勤終業」のベルだ。

 部屋の外からは、慌しく出て行こうとする者たちの足音が昼間同様、地響きを立てて流れていった。一般の工員たちは、一部を除き2時間後には夜勤に入るものの、通常日勤である事務員たちが、ここに戻ってくるという保証はない。


 ――これはまずい。


 僕は慌てて彼女たちを見た。

 が、彼女たちは部屋を去ろうとするどころか、帰ろうとする素振りもみせず、黙々と作業を続けていた。僕はベルが鳴ったが大丈夫かと聞いた。1人が「終業のベルよりもっと大事なものがある」と言った。彼女の言葉に、僕はなんだか胸の中が熱くなった気がした。

 彼たちがあんなに大切にしている食事よりも、大事なもの。それは僕への同情なのか、それとも仕事に対しての姿勢なのか……彼女たちなりの。あるいは……。

 普段、ガラス窓の向こうで雑談ばかりして騒いでいるだけに見えていた彼女たちだが、仕事になるとこうも熱心に手を抜かなくなれるんだなと思い目頭を熱くさせた。

 僕は声を発した子に、大事なものとは何かと聞いた。

 彼女はただ一言「残業手当かねよ」と応えた。


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